Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

君に捧げる蒼

 すべては偶然だった。

 その日ルシアスは所用で街に出る必要があったのだが、馬車を使っていなかった。偽造印章師のような裏稼業の連中は、馬車の通れないような狭い裏通りに店を構えているためだ。

 そして、路地から出てすぐ物乞いに絡まれ──笑えることに、失業中の水夫を自称した「真水の船乗り」と呼ばれる輩だった──何とか振り切ろうと足を踏み入れた先が、小さな市場だった。

 街の中心部にある大広場で開かれるような大々的なものではなく、界隈の住民向けのささやかなものだ。

 とはいえ西の空は茜色に染まり始めた頃のこと、露店の中にはもう店仕舞を始めているところもある。

 (いち)の開催は大抵が落日までだ。ささやかな明かりを灯して商売したところで、薄闇に紛れた泥棒の餌食になるだけだからである。

 人出も減り始める中、市の片隅でひとりの少女が声を張り上げていた。
「お花、お花はいかがですか。とても綺麗なお花です」
 手に提げた籠には、殆ど減っていない花の束がある。空いたほうの手は小さな男の子の手が握られていた。

「ウーレンベックの孤児院の子ですかね」
 一緒にいたスタンレイも同じ少女に目を引かれたらしく、そう呟いた。

 ヴェスキアは豊かな街だが、それでも経済格差は存在する。この地域は庶民の中でも貧しい者が多く住んでいて、収入のない寡婦や高齢者が暮らす救貧院や、孤児院などもあった。ウーレンベックはそのひとつだ。

 スタンレイの声がどこか心配げだったのは、あの年頃の子どもを狙う人攫いが多く存在するからだ。日が暮れればさらに危ない。
 本人にしてみれば、その日の食事さえ貰えるのなら、どこの大人だろうと構わないと言うのかもしれないが……。

「頭領?」
 スタンレイが驚くのをよそに、ルシアスは少女に近づいて行った。

「花を貰おう」
 やっと現れた買い手に少女の表情がぱっと明るくなったが、次の瞬間、それはたちまち萎れてしまった。
 ルシアスが差し出したのがギルダー金貨だったからだ。それを目にして、彼女は残念そう、というより悲痛な様子で頭を下げた。

「申し訳ありません、旦那様(ヘール)。その金貨では、とてもお釣りがご用意できません」
「頭領、困らせてどうするんですか」
 追いついたスタンレイの咎める言葉にも、ルシアスは涼しい顔で応える。
「すべて買うつもりだった」
「それでも大した額になんてなりませんよ」

 しかし、航海長(マスター)も別に買うなと言うつもりで来たわけではなかった。
 むしろ小狡い孤児なら金貨欲しさに吹っかけてきてもおかしくない状況で、少女がきっぱりと断ったことに感心したらしい。だが少女のその真面目さが祟って、日暮れまで禄に売れずに来てしまっただろうことも想像できた。

 スタンレイが小銭はなかったかと懐を漁る横で、ルシアスは少女に尋ねた。
「その花は、何という?」
矢車菊(コーン・ブルーム)です、旦那様(ヘール)

 それは穀物畑に行けばあちこちに咲いている、大して珍しくもない野草だった。庭園の庭師が世話をするようなものでもなく、こんな少女が摘み取ったところで咎められることもない、ごくありふれた花。
 だからこそ、売ったところで小遣い程度の金額にしかならないのだが。

 しかしルシアスは、その花を本気で買うつもりだった。

「お前達はウーレンベックの子か?」
「はい、そのとおりです、旦那様(ヘール)
 自分が世話になっている孤児院の話を出されて少女は驚いた様子だったが、彼女はきちんと答えてみせた。
 ルシアスは続けて尋ねる。

「院長は息災だろうか」
「はい。膝を痛めていらっしゃいますが、お元気でおられます」

 年老いた院長は相変わらず、子ども達への躾はきっちり行っているようだ。
 はきはきと応答する少女と対照的に、男の子のほうは公用語がわからないのか、ぽかんとしたまま彼らのやり取りを眺めている。

 少女も少年も、その顔は垢でやや汚れていたし、服はあちこち修繕の跡があり、古着を長く着続けているだろうことがわかる。花籠を抱えるその手は、折れてしまいそうに細かった。

 こんな年端のいかない少女が、子守をしながら日暮れまで街角に立たねばならないのだ。それも、勤勉さによる語学力のせいで少女がここに立つ羽目になっているとしたら、なんとも皮肉な話である。
 ウーレンベック孤児院の厳しい財政事情がそうさせているのだろうが、子ども達を想う院長の葛藤が目に見えるようだった。

「頭領。奇跡的にバッツェン銅貨が数枚ありましたよ」
 ほら、と手に乗せて見せてきたスタンレイに、ルシアスは首を横に振った。
 彼は少女に向き直ると、屈んで視線を合わせた。

「その花、特に青いものがほしい。釣りはいらないから、その分たくさん摘んできてもらいたい」
「たくさん、ですか……」
 少女は不思議な依頼に目を瞬かせる。
「畑に行けば、もっと咲いていますけど……でもすべて摘んだら、とてもこの籠になんて入りきりません、旦那様(ヘール)
「それでもいい。誰かに手伝わせてもいいから、とにかく目一杯集めてくれ」

 そう言って、ルシアスは少女の手のひらに金貨を乗せた。
 少女は、見たこともない大金を手にして、怯えた様子でルシアスを見つめてきた。
 だがルシアスは逆に少女の目をまっすぐに見返し、少女の手を自らの手で包み込むようにして金貨を握らせた。

「明日の昼過ぎに、孤児院まで受け取りに行く。俺の名はカーセイザー。院長にこの名を言えばわかるはずだ」

 それからルシアスは、金貨を盗まれないうちに早く帰るよう少女を促し、彼ら自身も帰路についたのだった。


 次の日の午後、大量の青い花とともに帰船した頭領に海賊達は唖然とした。
 その量はまるで商品の仕入れを思わせるもので、彼らは突発の取引が発生したのかと身構えたが、そうではなかった。

「うわ、どうしたんだこれ!」
 彼を出迎えた女剣士もまた、露天甲板に大量に並んだ花入りの樽に驚いて目を見開いた。

 野草とはいえ、これだけの量が一箇所に集まると圧巻である。おかげで甲板は真っ青だ。しかも、今なお積み上げ作業が続いていた。

「先日言っただろう。お前に花を買うと」
「は!?」
 さらりと告げられた内容に、ライラは愕然とした。
 確かに、そんな話はしたけれども。
「え、いや、ちょっと……これ、花束って量じゃないよな?」

 ルシアスの男の意地とやらがこれなのかと、ライラが感激を通り越して薄ら寒い思いをしていると、スタンレイが苦笑交じりに教えてくれた。

「知っている孤児院の子ども達が、街角で花売りをしていてね。まとまった金額を渡そうと思ったらこうなってしまったんだ」
「ああ、そういうこと……。なんだ……」
 その説明にライラは心底ほっとした。ある種の寄附の結果としてなら、この事態は何とか受け入れることができそうだった。

 しかしこれは、あくまでもスタンレイの援護射撃である。彼自身、ルシアスが花を買い求めたのはあくまでも恋人のためで、孤児院の件は二の次だったとついさっき知って、返す言葉を失ったばかりだった。恋に狂うと男はここまで愚かになるのか、と。

 送り相手であるライラも、こういった散財や華美を好むとはとても思えない。彼女が頭領の熱量に耐えかねて逃げ出しては困るので、スタンレイはすかさず防御線を張ったのだった。

 実際ルシアスは、花を受け取る際には前渡し分の他に数百ギルダーを院長に渡してきたのだから、まんざら嘘というわけでもない。

「おいおい。花屋に転職でもするつもりか、ルース?」
 騒ぎを聞きつけたのか、甲板に上がってきた船医(サージェン)が、花の群れを見渡して呆れた声を出した。
 ルシアスは涼しい顔のまま答えた。

「一時的な道楽だ。水に差しておいても、もって数日と聞いた」
「数日だけ?」
 それを聞いて驚いたのはライラだ。ライラは、傷ましそうに花々を見やる。
「なんだか残念だな、こんなに綺麗なのに。摘み取らずにいたら、まだしばらく咲いていられたんじゃ……」

 剣で生計を立てているとはいえ、ライラは別に感受性が皆無というわけでもない。
 むしろ日頃から生命に向き合い、旅の中で様々なものを目にしている経験から、その眼差しは細かなものにも注がれる傾向があった。

 花の儚い生命を想って胸を痛めるライラに、スタンレイが余計なことを言うなとばかりにルシアスを睨む。これでは、花を贈ったこと自体が裏目に出てしまうではないか。

 ごほん、と咳払いひとつして、スタンレイはライラに言った。
「この花は綺麗だが、畑の持ち主からすると厄介者でもあるらしくてね。花を摘むだけじゃなく、駆除してくれたら金を払うと子ども達が言われたそうだよ。思いがけず、孤児院の定期収入にもなりそうなんだ」
「へえ」

 感心したようなライラに、今度は船医(サージェン)が口を出してくる。

「この青はな、古来あらゆる国の権力者に愛されてきたんだ。エスカトゥーラでは王の墓に花輪を乗せたと言うし、ヘーリヒカイツラントでは建国の王がこの花を自分の花だと言ったらしい。だから別名、皇帝の花とも言う」
「そうなのか」

 ライラはこの手の好奇心が強いと知っているジェイクは、彼女が目を輝かせたのを見逃さなかった。彼は青い花を手近なところからひと枝抜き取り、それに目を落としながらさらに続けた。

矢車菊(コーン・ブルーム)は乾燥させて香草茶にもできる。干してもこの青は失われないし、このまま枯らすのがもったいないと思うなら試してみたらどうだ? 何なら俺がやり方を教えてやろう」

 船医(サージェン)ならではの提案に、周囲の海賊達も称賛の眼差しを送る。挽回の策として、これ以上のものはないと思われた。
 若い時分にはさぞ多くの浮名を流したに違いないこの医者は、年齢とともに知識と経験も積み重ねていた。ライラくらいの若い娘の関心を引くなど、造作もないことなのだろう。

 もちろんライラは、その案に至極興味を惹かれた。
 が、送り主であるルシアスはどう思うだろうか。花束という本来の趣旨から外れて、食用にしてしまうというのは。

 そんな不安を抱きながら、ライラは彼に視線を投げた。
 しかしルシアス本人は、無粋だと文句を言うわけでもなく、軽い調子で頷いた。
「いいんじゃないか? 俺も飲んでみたい」
 あまりにもあっさり返されて、ライラは驚いた。
「珍しいな。酒ならともかく、香草茶なんて特に興味もなさそうだったのに」

 そもそもこの海賊の若き頭領は、女性に贈り物をして気を引くという行為にもこれまで縁がなかった。草花に対する情緒も殆ど持ち合わせておらず、せいぜいが商品価値の有無を判断する程度だったのだ。
 それが、どういった心境の変化が表れたというのか。

 ルシアスは、さっと花の山を見渡して応えた。

「香草茶に興味が出たんじゃない。正直言うと、花にもそれほど惹かれるものはない。お前の言うとおり、摘んできてもたった数日で萎れてしまうなら、その場で長く咲かせておけと俺も思う。花を贈られて喜ぶ女の気持ちも、そういう部分で理解し難いものがあった」

 ルシアスは、手を伸ばして花弁に触れながら言った。
「でもこれは何故か、ひと目見て気になった。お前に贈るならこの花、この色だ」

 面と向かって大真面目にそんなことを言われて、ライラは顔を真っ赤にする。

 しかし、彼がそう思うのも無理はない。
 矢車菊(コーン・ブルーム)の吸い込まれるような冴えた青は、古くから多くの人々を魅了してきた。
 だが傍に置きたいと手折ってしまえば、短い期間で萎れて失われてしまう。その儚さも含めての魅力なのかもしれない。

「うちの船旗と同じ色ですしね。確かに愛着のある色だ」
 スタンレイがそう言いながら上を仰ぐ。檣楼の上方で、『天空の蒼(セレスト・ブルー)』を象徴する真っ青な旗が風をはらんで優雅に揺らめいていた。

 その思いはこの船の海賊全員が同じく抱くもので、彼らは感慨深げに花と船旗とを眺めている。
 この青い花々を数日で枯らせてしまうのではなく、乾燥させて色を保ったまま保存できるという案に、ルシアスが同意したのもその辺りに理由がありそうだった。

「言っておくが、煎じたところで茶が青くなるわけじゃないからな?」
 釘を刺しつつ、ジェイクもこの船の乗組員であることには違いない。
 彼自身、自分の思いつきを気に入った様子だった。

「はっきりした香りや味があるわけでもないから、他の何かと合わせるといいだろうな。甘橙(オレンジ)檸檬(レモン)あたりを乾燥させるか、蜜漬けにでもするか。かなり上等なものが出来上がりそうだ」
「うわぁ、いいなそれ! やろう、ジェイク!」
 表情を輝かせたライラに「おう。もちろんだ」と笑顔で頷いてから、彼はルシアスに近づいてこそっと告げた。

一切合切(いっさいがっさい)の費用は、お前に請求するからな」
「好きなようにすればいい」
 淡々と応える頭領に、船医(サージェン)は鼻筋に皺を寄せる。

「浮かれた(ツラ)しやがって、このド変態め」
 周りに聞こえない程度にまで声音を落として、ジェイクは言った。

「あの色の花を大量に贈るのもアレだが、あいつがそれを口にするってのがそんなに嬉しいかよ。支配欲か独占欲か知らんが、程々にしとかねえとお嬢ちゃんに怖がられちまうぞ」

 並んで立つふたりの視線の先では、花の山を前に海賊達とはしゃぐライラの姿がある。
 ルシアスが彼女に向ける眼差しには愛しさがあったが、そのずっと奥底にある仄暗い何かに気づく者は、そう多くはない。

 彼は目敏い医者に対し、肩を竦めてみせた。
「あれでなかなか手強い相手なんだ。表面上拒否されてはいないが、簡単に全てを委ねてはくれないらしい。独占どころか、手応えを探して毎度四苦八苦してる」
「弱音かよ、らしくもねえ。明日は雪だな」
 船医(サージェン)が呆れ返って空を仰ぐ。

「かと言って、貢物やら甘い言葉やらで、簡単にころっといくような女にゃ見向きもしないんだろうに」
「一度味を占めてしまったからな。もう戻れない」
 ライラを目で追いながら、ルシアスは口許に小さく笑みを乗せる。

 苦労しているという割には愉しげなその様子に、ジェイクはうんざりした表情になる。

「あんまり拗らせるなよ?」
「肝に銘じておく」
「頼むぜ」

 あまり信用していない声でそう言い、ジェイクはライラが今後するであろう苦労を思いやって、こっそりと嘆息した。

読んだ感想などいただけると嬉しいです。