Brionglóid
海賊と偽りの姫
記憶の楔
25
馬車を降りてからずっと、エルセは見慣れない風景に気圧されていた。
これが自分の生まれ育ったヴェスキアと同じ街だなどと、にわかに信じられなかった。まるで別世界だ。
路地は地面がすっかり露出していて、大昔に敷かれた石畳の残骸がところどころに覗く。人の行き来で踏み固められていない脇のほうには雑草が生え、その成長ぶりから放置期間の長さが窺い知れる。そればかりか、欠けた瓶やら壺やら、壊れた椅子なんかもそこかしこに放り出されていた。
良く言えば生活感があり、悪く言えば管理がされていない。
玄関先と周辺の道を清潔にすることは、この街の主婦にとって大事な仕事だった。主婦でなくとも、女性がいて掃除や管理がされないなんてことはあり得ない──エルセは今までずっとそう思っていた。彼女自身がそう教育されてきたからである。
しかし、初めて訪れたこの場所は違った。
いくら区画が違うとはいえ、同じヴェスキアでこうも違うのか。噂には聞いていたものの、あまりの衝撃に彼女は面食らってしまった。
だが、その動揺を表に出すわけにはいかない。手の震えを抑えるように外套の袖口を握り、俯いて視線を下げてしまいそうになる自分をエルセは叱咤した。
先導する従者はそんな彼女の思いなど知らずに、慣れた足取りで荒れた道をすいすいと進んでいく。
『確かこの辺だったはずですが……ああ、あった』
軒先に下げられた看板を見上げ、それから従者の青年はエルセのほうを見た。
『ここです、エルセ様』
『そうみたいね』
エルセもまた顔を上向け、看板に書かれた店名を確認する。酒場だからだろうか、看板には麦と葡萄の装飾があしらってあった。
目的地に無事着いたことへの安心感と、とうとう来てしまったという不安感が綯い交ぜになって、エルセは生唾を飲み込む。
従者が扉を開けると、狭く薄暗い店内には一人の女性がいた。奥の棚の前で、店で使う食器を磨いているようだった。
見た目の年齢は三十代前半ほど。酒場に従事しているにしては質素な格好で、少しやつれているようにも見える。だが、どことなく品の良さを感じる立ち姿だった。
女性は扉の開いた気配に顔を上げ、それから驚愕に目を見開いた。
『エルセお嬢様!』
『久しぶりね、タチアナ』
従者が扉を閉めるのを横目で確認してから、エルセは帽子を取り去った。
『元気だった? フランクとは仲良くやってるかしら』
『え、ええ、それは……』
エルセは極力平然とした態度をとったつもりだったが、タチアナと呼ばれた女性にはさほど効果がなかった。すっかり狼狽えた様子で、彼女はかつて仕えていた相手を見つめた。
『ああ、お嬢様。いったいどういうわけですか、こんなところにお出でになるなんて……ピーテル! あんた何を考えてるの!? てっきりあんた一人で来るもんだとばかり!』
タチアナは止まり木のある長い卓の向こうから慌てて出てくると、扉の前で所在なさげに佇んでいる青年に文句を言った。が、エルセはすぐに弁明する。
『待って。私がピーテルに無理を言ったの』
しかしタチアナはそれだけで納得はしなかった。まだ混乱の残る顔で、目眩を払うように額に手を当てて首を二度三度と振る。
『なんてことでしょう……。いけませんよ、お嬢様。こんなこと旦那様に知られたら!』
『わかってるわ。でもどうしても知りたかったのよ──葡萄酒の出処を』
『お嬢様……』
タチアナは呆然とエルセの顔を見た。そこに強い意志を見出して、彼女は深々と溜め息を吐いて項垂れた。
彼女の大事なお嬢様は慎ましさを備えた淑女だったが、時折驚くほどの芯の強さを見せるということを、タチアナも知っていたのである。
タチアナは以前、シュライバー家の雇用人だった。
その最中に、街に住む沿海貨物船の船乗りと恋に落ち、数年後に結婚した。彼が仕事で数日家を空けることがあっても、タチアナも半分住み込みのような形で働いていたから特に問題はなかった。
しかしあるとき、夫が仕事中に怪我をした。片目と片足を負傷した彼は、船を降りなければならなくなってしまった。
タチアナは彼を支えるために、条件の良かったシュライバー家の仕事を辞めた。
夫婦は家賃の安い場所を選んで店を開いた。船乗り向けの小規模な酒場、それがこの店だった。
気立が良く働き者のタチアナを、エルセもフリッツも姉のように慕っていた。だが、同じ街にいながら住む世界が大きく別れてしまって、それきりだったのである。
タチアナは顔を上げると、硬い表情でエルセに尋ねた。
『わけをお聞かせください。どうしてこんな場所のお酒なんかに興味がおありなんです? 何か、いけないことに巻き込まれておいでなのですか?』
『巻き込まれたわけではないわ』
『では、どうして』
エルセは俯いて口を噤んだ。覚悟してここへ乗り込んできたはずなのに、自分のしていることへの後ろめたさがそうさせた。
正しいことをしていると、大見得を切るつもりはない。おそらく周囲の人間の大多数が、この行動について眉を顰めるに違いなかった。
だけど。
『ある人が、葡萄酒の行方を追っているのよ。一度売買されたはずの葡萄酒が忽然と消えて、それが街に出回っている可能性があって』
『盗品の葡萄酒?』
タチアナがさっと青褪める。ピーテルと事前に連絡をとっていたとはいえ、まさかそんな話だとは思っていなかったのだろう。
『たしかに、最近安値で仕入れた葡萄酒には心当たりがあります。でもお嬢様、もしその葡萄酒のことだとしたら、私達は罪に問われてしまうのですか……?』
『そんなことさせない!』
エルセは強く否定した。
それから彼女は両手でタチアナの手を握った。
『ねえ、お願いよタチアナ。私には他に伝手もない。この街に生まれ育った癖に、私には何もできることがないって気づいたわ。あなただけが頼りなの。知ってることを教えて、どんな小さなことでもいいから』
必死の形相のエルセを、タチアナは呆然と見つめる。
そして視線を落とし、あかぎれだらけの自分の手を握る令嬢の手の震えを見て、タチアナは再度尋ねた。
『いったい何があったのですか? どうしてそこまで』
『あの人の力になりたいのよ、ただそれだけなの』
エルセの訴えを聞いて、タチアナはようやく合点がいった様子で小さく微笑んだ。
『エルセお嬢様。その方に恋をなさっているのですね』
『……』
指摘されたエルセは頬を赤らめるでもなく、逆に視線を逸らして唇を噛んだ。
何かを察したタチアナは、優しく言った。
『どうしてそんなお顔をなさるのです? 喜ばしいことじゃありませんか』
『……わからない』
エルセは小さく首を振った。
そして彼女は、暗く悲しげな表情でポツリとこぼした。
『タチアナ、これは喜ばしいことなのかしら? 心が苦しくて、このまま破裂して死んでしまいそう』
涙が一筋、エルセの頬を伝う。
『そんなに苦しいのに、姿を見ただけでどきどきする。声を聞いただけで舞い上がっちゃうのよ。私なんか、子ども扱いで相手にもされてないのに。心が勝手に……。あの人はもうすぐ、どこかへ行ってしまうのに』
『お嬢様』
『こんなことしたって無駄かもしれないって、わかってる。でも……』
下を向いてしまったエルセを、タチアナは抱きしめた。震える背中を撫でながら、やり取りを傍観していた従者に目を向ける。
『ピーテル、前言撤回だわ。こんなお嬢様に頼まれたら、そりゃ断れないでしょうね』
『わかってくれて助かるよ』
ピーテルは苦笑いを浮かべて肩を竦める。
タチアナは抱擁を解いてエルセに視線を戻すと、くすりと笑って言った。
『どこのどなたか知りませんけど、その方はとんだお馬鹿さんですね。お嬢様を子ども扱いですって? 女の子が大人の女性として花開くのなんて、あっという間だというのをご存じないみたい』
顔を上げたエルセの涙の跡を、元雇用人は手巾で優しく拭き取ってやる。エルセも黙ってされるがままになっていて、ふたりはまるで本当の姉妹のようだった。
自分が抱えている苦悩について、エルセは誰にも打ち明けられずにいた。姉妹はいないし、同じ街に住む友人達は良家の子女ばかりで言い出しにくい。厳しい母に至っては最初から論外だ。
いつものエルセなら取らなかっただろう今回の無茶な行動も、相手がタチアナだったからこそできたことだった。
エルセは縋るような目をタチアナに向ける。
『でもね、タチアナ。私も忘れたわけじゃないの、自分がシュライバーの娘だってことを』
『お嬢様』
『どうしても捨てられないのよ』
エルセは悲しそうな溜め息をついた。
『本気で好きなら、なりふり構わなくなってるはずなのに。私のこの気持ちは本物じゃないの? 気の迷いなのかしら。でも、苦しいのも事実。もう頭がおかしくなりそうで』
また涙を溢れさせた令嬢に、従者と元雇用人は困ったように顔を見合わせた。
それからタチアナは、吹っ切れたような顔になって言った。
『わかりました。そういうことであれば、私も知る限りのことをお話ししましょう。お役に立てるかはわかりませんが』
『あ、ありがとう……』
嗚咽まじりのか細い礼に、タチアナは優しい笑みを浮かべた。
『やれるだけのことをやってみればいいんですよ。将来どういう結果になるかわかりませんけれど、せめて、後悔することのないように。あれこれと藻掻くことくらいは、旦那様にも大目に見ていただきましょう』
タチアナのその言葉を受けて、エルセは泣き顔のまま呆然と呟いた。
『……。彼も、そう言ったわ。今の自分に、できることを探せ、って……』
すると、タチアナのほうも目を丸くした。
『あら。ちょっと見直しましたよ。お嬢様にそんなふうにけしかけるだなんて、なかなかの殿方じゃありませんか』
『ふふ。そうなの。彼が、私の背中を押してくれたの』
エルセは潤んだ瞳で微笑んだ。
好いた相手を人から褒められるのが、なんだか誇らしかった。
ギルバートやエルセが街に出ていた頃、ルシアスはまだ船にいた。
自分も酒場を巡ると宣言はしたが、騒がしい場所で飲むのが好きではない彼の腰はやや重かった。陽が高いうちは部下に任せ、彼自身は通常の仕事を優先させている。
スタンレイも船に残っていたが、彼の場合は当初より留守を預かる予定だった。手掛ける業務が多岐に渡っていて連日飲み歩く余裕はさすがにない、というのがその理由である。
そもそも、所帯を持ってから彼は夜遊びにも興味がなくなったらしい。
頭領が留まっているのをいいことに、スタンレイは意気軒昂と仕事をこなしていた。
「大体目星はつけました。あなた含め、我々が本格的に動きはじめたので動揺したらしいですね。あっさり尻尾を見せて、可愛いもんです」
船長室を訪れたスタンレイが、ルシアスにそんな報告をした。
書き物をしていたルシアスは顔を上げると、持っていた羽筆を筆立てに戻す。乾いていない書類を脇に避けながら、彼は皮肉げに言った。
「ついでに、もっといい子にしてくれていたら良かったんだが」
「まあまあ……。さり気なく監視はしてますよ。あとは証拠を掴むだけ」
宥めるように愛想笑いを浮かべるスタンレイを、ルシアスはじっと見る。
スタンレイもわかっていて、笑みを苦笑に置き換えた。
「そこが難しいのですがね、下手に追い詰めると出港前に逃げられちまいますんで」
「そんなことになったら俺達もいい面の皮だな」
「それだけは阻止してみせますよ。落とし前はきっちりつけてもらわんと」
スタンレイは穏やかな口調でそう請合う。
しかし肝心の酒場のほうは、昨夜の段階ではこれと言って収穫はなかった。予想外に人々の口が硬い。調子良く口を開くのは、クラウン=ルースに恩を売れないかと眉唾物の話を持ってくる連中や、面白半分で与太話を囀る酔っぱらいばかりだった。
酒場から海賊達が持ち帰った話を選り分けるのは、このふたりの仕事だ。
雑多なものの中にも、よくよく観察してみれば共通する事柄があったりする。それらと、疑惑のかかる水夫を結びつける何かがあれば──とはいうものの、簡単な作業ではなかった。
このくらいで弱音を吐く航海長ではなかったが、ルシアスも涼しい顔を崩さない。
「しばらくは、俺達が手掛かりがなく右往左往しているように見せておけばいい。そのほうが周囲も油断する」
ライラが傍に来てから感情豊かになっていたものの、こういうときのルシアスは相変わらずだった。スタンレイですら、時々別人なのではないかと疑いたくなる変貌ぶりだ。
ルシアスは、年齢の割に落ち着き払っているというよりは、昔から体温すら感じられない、何かが欠けたような印象のある人間だった。
面白いことに、見る者によっては感情に振り回されないその状態こそが完璧に見えるらしいが。
スタンレイも、ルシアスにそういった感情の起伏が存在することを知らなかった。
恋人によってその不安定な〝完璧〟が脆くも崩れ去ったわけだ。
そのことを密かに可笑しく思い、同時に歓迎しつつ、スタンレイは告げた。
「シュライバー氏はじめ、商業組合
も全面協力してくれるそうです。おかげで大分楽になりました」
ルシアスは机の上で両手の指を組んで頷いた。
「盗品が大っぴらに出回るようでは街の市場が滅茶苦茶になる。組合の管理下にさえあれば、それでも文句は出なかったろうが……」
「ヴェスキアの根幹に関わりますからね。災いの芽は早めに摘まないと後が大変だってのは、どこも一緒だ」
スタンレイは肩を竦めた。
「絞り込んだ店については、ギルバート達に引き続き当たってもらっています。さすがに初日で口を割る人間はいなかったようですが」
「できれば首実検までいきたい」
ルシアスの言葉に、スタンレイは軽く眉根を寄せる。
「……。この短期間で、そこまでの協力者を得るというのは、いくらなんでも難しいかと……」
だがルシアスは譲らなかった。航海長を見つめてきっぱりと言った。
「この件を有耶無耶で片付けたら、今後も似たようなことが続くだろう。だが、噂話程度では処分できない」
「それはもちろん理解しています。しかし」
「今はどんな小さな綻びも見過ごせないんだ」
あえて遮るようにルシアスが言う。
「そう遠くない未来に嵐が来る。そのときに備えて、我々の結束も強固にしておく必要がある」
「……」
スタンレイは言いかけた言葉を飲み込んだ。
それから彼は、慎重に尋ねた。
「ライラのために、ですか」
「俺達のためにだ」
ルシアスは静かに、だがはっきりと答える。
その深い海のような色をした瞳を、スタンレイは探るように見つめ返した。
沈黙が室内を支配する僅かなあいだ、船腹を洗う波の音だけが微かに響いていた。
やがてスタンレイは、深い嘆息でもってその静寂を打ち破った。表情を緩め、冗談めかしてわざとらしく独りごちる。
「やれやれ。そういうことなら、ギルバート達に綺麗事を言うんじゃなかったな。この際色仕掛けでも何でも使わないと。手段を選り好みしてる場合じゃなさそうだ」
「あいつらにそんな男娼紛いのこと、させるわけにいかないだろう」
ルシアスが顔をしかめて言う。
すると、スタンレイは目を眇め、面白がるような口調で彼に訊いた。
「じゃ、あなたがやります?」
ルシアスは虚を突かれたように動きを止めた。
愕然とした様子で腹心の顔をまじまじと見る。
それから彼は、心底嫌そうに鼻筋に皺を寄せて「誰がやるか」と言い捨てた。