Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

恋の綴りを教えて

 よく晴れたある日のこと。

 ライラは蝋引き板と削った木筆を借りてきて、露天甲板の片隅に陣取っていた。
 文字を教えてほしい、とティオやリックに頼み込まれたのである。十代から船に乗る彼らの多くは孤児や私生児で、これまで学校とは縁がなかった。しかし知識欲がないわけではなく、勉強するのにしてもまずは本を読めるようになりたいと、そう相談を受けたのだった。

 ライラが帆柱に背を預けて座り、それをぐるりと少年達が囲んで手許を覗き込んでいる。

 はじめに彼女は、すべての文字を大文字と小文字で書いてみせたが、四角四面に教えたところで少年達のやる気を削ぐだけだとすぐに気づいてやめた。

 初級学習者は、今日にでもすぐ使える知識を欲しがるものだ。基礎は後からでいい。
 そう割り切って、彼女が題材にしたのは『船に関するもの』だった。これなら、きっと皆も興味を持ってくれるだろう。

「単語の綴りというのは、実はすべて丸暗記しなくてもいいんだ」
 ライラがそう言うと、あまり勤勉とは言い難いリックなどは明らかに嬉しそうな声を出した。

「そうなんですか!?」
「普段話している言葉の音から、大体の綴りがわかるんだよ。そのいくつかの決まりごとを覚えればいいだけ。ただ、船乗りは独特の言い方が多いから、少し難しいかもしれないな」

 少し難しい、と聞いてリックは途端に残念そうな顔になったが、逆にティオは興味をひかれたらしい。真剣な顔つきで尋ねてきた。

「例えばどんなものですか?」
「そうだな、船首楼(フォークスル)って、正しくは前方の楼(フォア・キャッスル)じゃないかな。(スティア)も、ここの皆は(スター)って発音してる」

 ライラの言葉に、ティオだけでなく他の少年達も「ああ」と納得したようだった。
「言われてみればそうかも、面舵(スターボード)だ」

 陸から来たライラとしては当初、なんで舵が星なんだと首を傾げたのだが、彼らは深く考えることもなく受け入れていたらしい。
 少年達の反応に、なんだか新鮮味を感じたライラである。

左舷(ラーボード・サイド)も、荷を積む側の舷(レイデン・ボード・サイド)ですよねおそらく」
 ティオの呟きに、リックが苦笑いで頷く。
「前乗った船がそうだった。面舵(スターボード)取舵(ラーボード)、風が強かったり波が高かったりするとよく聞き間違えるんだよね。で、操船作業中に間違えるとめっちゃくちゃ怒られる」

 他の何人かも心当たりがあるのか、何度も首を縦に振っている。
 彼らは若いといっても、全員がこの船で初の船出を迎えたわけではなかった。一般家庭の子だって早くて六つで奉公に出るのだから、十代なら既にいくつか職場を経験していてもおかしくはない。

「ここは面舵(スターボード)取舵(ポート)だから助かる」
 誰かのその一言に、ティオは「そうだね」と同調した。
「噂によると、航海長(マスター)が昔乗った船が勝手のわかってない陸者ばかりで、なんとか生還するためにその辺きっちりやるようにしたって聞いた」

「あの人、苦労人だよなあ。だから頭領の相手もすんなりこなせるんだろうけどさ」
 リックがしみじみと言ったところで、ライラは脱線しかけた話を本筋に戻す。 
「それじゃあ、言葉を分解してみようか。そして意味を考えてみる。まず、船首楼は前方の(フォア)だから、F-O-R-Eで……」

 と、説明しながら、ライラは蝋引き板に〝Forecastle〟の文字を書き込んでいく。
 それを見ていたリックが、ふと気がついたように言った。

「じゃあ、前檣帆(フォアスル)は?」
「いいところに気がついたな。分解すると何だと思う?」
「ええと、前方の(フォア)……、(セイル)?」
「そのとおり。よくわかったね」

 ライラが微笑むと、彼は「やったー!」と嬉しそうに拳を頭上に突き上げた。
 木筆を走らせ、ライラは〝Forecastle〟の横に〝Foresail〟と記していく。

「帆の綴りはS-A-I-Lだ。これも訛って前檣帆(フォアスル)なんだろうけど、船首楼(フォークスル)があるからややこしいね」
「じゃあ、主帆(メインスル)後檣帆(ミズンスル)も同じS-A-I-Lってことですね! なんか、ちょっとずつわかってきました!」

 褒められて気を良くしたのか、リックは最初に比べてやる気が出てきたようだった。いい傾向だとライラは思った。

 他の少年達も表情は明るく、この様子なら理解できていないということもなさそうである。
 前哨戦は一応成功かなと、ライラは内心でほっと息をついた。
「公文書でもない限り、多少の綴り間違いで恥をかくこともないから、軽い気持ちで覚えていけばいいと思うよ」

 そんな調子で彼女はいくつかの言葉を綴り、時折少年達に木筆を持たせて実際に書かせたりした。彼らはおっかなびっくり書いていたが、次第に楽しくなってきたようで、最終的には競うようにして書きたがった。
 続きはまた後日と言ってライラが立ち上がれたのは、何度目かの時鐘が鳴ってようやくのことだった。


「教え上手のレイカード先生に時給を払うべきかな」
 船長室(キャプテンズ・デッキ) で彼女を迎えたルシアスは、くすくす笑いながらそう言った。

 からかわれているのか褒められているのか、判断がつかなかったライラは、あえてルシアスの私室のほうに向かわなかった。自分用に帆布で区切られた小さな領域にさっさと引っ込む。

「穀潰しの異名を逃れるためにやってるんだ。どうぞお構いなく、船長(キャプテン)
 食事の時間まで武器の手入れでもしようかと、彼女は荷物を漁りながら素っ気なく答える。

 すると、ルシアスは私室から出てきて言った。
「時間を決めてやらないとキリがないだろう。なんならスタンレイに時間割を作らせようか?」

 ライラが振り返ると、彼はからかっている様子ではなかった。
 ではどういうつもりなのかというと、彼の少ない表情から読み解くのは至難の業で、ライラは観察するのを途中で諦めた。ついでに、荷物漁りも中断せざるを得なかった。
 はあ、と短い溜め息とともに彼のほうに向き直る。

「ほとんど世間話みたいなものだよ。そもそも皆覚えるのが早いから、苦労もしてないし」
 壁に寄りかかって腕組みをしたルシアスは、そんな言い分にも満足げに頷いた。
「充分だ。船仕事を教える時でも、あいつらがあんなに素直に聞いてることは滅多にない。船内の識字率が少しでも上がるなら、こちらとしても大歓迎だしな」

「文字が読めなくても船仕事に支障はないと聞いたけど」
「全員が一生この船にいるわけでもない。陸に戻る日だっていつかは来るさ。その後の人生を生きていくために、能力は多いに越したことはないだろう」

 さらりとした返答に、ライラは驚いた。
 ルシアスがどれだけ水夫達を大事にしているか、よくよくわかっているつもりだ。しかしそれは、それこそ一生の付き合いになるからだと思っていたのに。

「そこまで育て上げて、あっさり手放すつもりなのか!?」
「水夫は物じゃない。それに、先代がそういう方針だったんだ。それに納得できてなきゃ、跡なんか継がんよ」

 ルシアスはそう言って、軽く肩を竦めてみせた。
 つまり、ここで働かせながら色々な技術を身に着けさせ、船を降りた後も自立できるようにしているのだ。

 別にその仕組み自体は珍しいものではない。そもそも職人だって徒弟制度を敷いているし、国だって貧民向けに職業訓練を行っていることもある。ただ、ライラが見る限り、この船とは明らかに違う性質のものだった。
 第一、ここは海賊船ではなかったか。

「まるで懲治院か孤児院みたいだ。いや、手に職だけじゃなく、賃金も出て食事もまともなんだから、もっとずっといいか」
 呆然とした彼女の呟きに、ルシアスは誇らしげに微笑んだ。
「だろう? 自慢の船だよ」

 その顔からライラは目が離せなくなった。見惚れたのだ。
 ルシアスの容姿が整っているのは今に始まったことではないのだが、こんなことは彼女にとっても初めてだった。
 かすかな息苦しさと幸福感とでいっぱいになった胸の内に、ライラはこれがそうなのかと愕然とした。まさか自分が、こんな気持ちになれるなんて。

 やがて、彼女もゆるく笑った。
「なんだか私まで誇らしくなってきたな。お前のこと、好きになってよかったと思うよ」

 今度はルシアスが意表を突かれて硬直する番だった。
 目を見開いて彼女を凝視するが、ライラのはにかんだような微笑は魔法のように消えてなくなってしまっていた。

 それでも彼は、困惑と期待の入り混じった様子で訊いた。
「……。今、なんて言った?」
「よし、私も出来る限り協力しよう。文字だけじゃなく、簡単な計算とか」
「ライラ」
「ちょっとスタンレイに相談してくる」

 身を翻して部屋を出ようとするライラを、ルシアスは縋る思いで呼び止める。
「ライラ! ……頼む、もう一度聞かせてくれないか」
「……」

 扉の前で足を止めたライラは、困ったように目を逸らした。
 しかし少し俯いたその顔は真っ赤だ。彼女は、小さい声で応えた。

「それは、その……またあとで」
 言い終わる前に、ライラは扉を開けて出ていってしまう。

 ひとり残されたルシアスは、閉じた扉を見つめてしばらくその面影を追っていたが、やがて深々と息をついて項垂れた。

「不意打ちか。くそっ」
 悪態をついたものの、姿勢を戻した彼の表情は締りがあるとはとても言えない。
 もちろん頬が緩むのを自覚している本人も、しばらく部屋の外には出られないなと諦めたのだった。

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