Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

記憶の楔

30

 シュライバー邸での会食のあと、ギルバートが船に報告をしてから事態は急展開した。

 翌日早朝、ルシアスは仕事を始める前のシュライバーを捕まえて、半ば強引に会談に持ち込んだ。そこでエルセの謹慎が一時的に解かれ、彼女とギルバートがタチアナの店を訪れたのが昼すぎ。協力を承諾したタチアナが港で首実検を行ったのが夕方前と、一日であっという間に物事が進んでいった。

 事前にスタンレイが目星をつけていた船員達は、数日前にタチアナと夫のフランクの前に現れていたことがはっきりした。
 商人でもないのに葡萄酒を売りたいという船乗り達を、夫妻も最初は(いぶか)しんだという。

 ふたりはまず、酒はヴェスキア内で購入した新しいもので、密輸品ではないことを確認した。
 男達はそれを手違いで過剰に仕入れてしまったが、積載上限を超えたため、急ぎ安価で処分したいのだと言った。中途半端な量だし、急いでいるので商館に戻すことは考えていない、と。

 夫妻もその話をおかしいと思わないでもなかった。街の酒場を一軒ずつまわって酒の買い手を探すより、元々の売り手である商人に話を通して返品したほうが早いからだ。
 しかし、立ち上げたばかりの小規模な酒場としては、仕入れ値を安く抑えられるのは魅力だった。迷った末、葡萄酒の樽をひとつ購入した。

「この街だと、葡萄酒なんて金持ちの飲み物ですからね。酒場で仕入れてもそんなに出ないし、今回もあの価格だから買ったという店もあったようです」
 事件の概要をまとめ、船長室(キャプテンズ・デッキ)に報告に来たスタンレイが言った。
「購入した店もそれぞれ樽ひとつかふたつ。だから逆に、該当する店が広くバラけて足がつきづらかった。買ったほうも、そんなので盗みの片棒担がされたんじゃたまりませんよ。道理で口を割らないはずだ」
「薄々怪しいとは、全員思っていただろうがな」
 ルシアスは執務机に片肘をつきながら、ふんと鼻を鳴らした。

 船に限らず、井戸水が飲用に向かない地域では、葡萄酒(ワイン)麦酒(ビール)で日常の水分補給をする場合があった。酒とはいっても、子どもでも飲めるような強くないものから、長期航海に耐えられる程度に強いものまで様々だ。
天空の蒼(セレスト・ブルー)』では普段から葡萄酒を飲料に用いていて、寄港したこの街でも、舌が慣れたそれを買い求めたわけだ。

 しかし葡萄酒を作るには、ヤースツストランドの気候は寒冷すぎた。
 葡萄畑がないわけではないが、南方の一部に限られる。国内で流通している葡萄酒の大半が輸入もので、そういった背景がここでの葡萄酒の価格を押し上げていた。

 その一方で、大衆に常飲されているのは穀物を使った醸造酒や蒸留酒である。
 特に安価で酒精(アルコール)濃度の高い蒸留酒は、労働者階級にこよなく愛されていた。火の酒と呼ばれるほど強い酒は、一杯かそこらで人生の嫌なことを忘れさせてくれるのだった。
 そしてそれは南方の貧しい国でも同様で、この国で丁寧に作られた火酒は美味くて人気があり、持っていけば飛ぶように売れた。

 犯人達は、船に運び込まれる直前の葡萄酒を盗んで売り、その金で安価な蒸留酒を買い求め、さらにそれを南国で売って儲けるつもりだったのだろう。
 本来運び込まれるはずだった葡萄酒の樽の代わりに、何食わぬ顔をして火酒を船に積み込んだのだ。ひとりふたりでは到底不可能なことで、実際ルシアスとスタンレイが想定していた以上の人数が、その悪事に手を染めていた。

「積まれていた火酒の量からして、葡萄酒を売った金すべては使っていないはずだ。差額を賄賂(わいろ)に充てたか」
 ルシアスの言葉に、スタンレイはじっくりと頷く。
「おそらくそうでしょう。その程度の端金(はしたがね)に目がくらんで、まったく馬鹿なことをしたものだ」
 僅かに細めた眼差しから、航海長(マスター)が深い悔恨の念に苛まれているのが伺えた。

 その〝うまい儲け話〟には、スタンレイの子飼いの部下も関わっていた。
 いくら積まれたのか知らないが、せいぜいが小遣い程度だろう。だがその男は、それで食糧庫の扉が開いている時間を共犯者に漏らした。

 港での積み込みが終わってしまえば、食糧庫の鍵は厳重に管理される。樽を運び込む作業のときなら、複数の人間が怪しまれずに立ち入れるわけだ。
 火酒であれば、日常の水分補給として航海中に消費されてしまう可能性も低い。ここに混入させておけば、しばらくはやり過ごせると思ったのだろう。折を見てどこかに移動させる算段もしていたのかもしれない。

 帆船の積荷はただ綺麗に並べればいいというものではなく、船ごとの癖を熟知したうえで積みあげなくてはならないことを、彼は知らなかった。知っていたとしても、まだ習得できていなかった。
 一見雑多に並べてあるように見える積荷の中に違うものがあれば、経験豊富な船乗りにはすぐ気づかれてしまう。
 遅かれ早かれ、出港前には露見していただろう話だった。

「とにかく、冬になる前にけりが付いて良かった。エルセ嬢のおかげです」
 顔をあげたスタンレイは、いつまでも感情を(あら)わにすることをしなかった。いつもどおりか、それに近い冷静な声で言った。
 自らの監督不行き届きを、この真面目な航海長(マスター)が無視するはずもない。犯人が確定した時点で、彼はすぐさま自分も処分を受け入れるとルシアスに申し出ていた。

 しかしルシアスは承諾しなかった。
 そもそもスタンレイに仕事が偏りすぎていたから、ギルバートを甲板長に任命したのだ。本来の業務の他に多岐にわたる雑務もこなし、そのうえで下の者の動きすべてに目を配れというのは、いくらなんでも無茶である。

 そういう環境を作ってしまったのは惰性に他ならなかったし、責任はすべて自分にあるとして、ルシアスは今回生じた損害を私財から補填することにした。スタンレイについては、本人の希望も聞いて三か月の減給に留めた。
 ふたりの間で、この話はそれで終わりだった。

「これでやっとライラ達を呼び戻せますね。早速、リックを向こうに行かせますよ」
 スタンレイの提案に、ルシアスの表情は少しも緩まなかった。
「その前に片づけておくことがある」

 返すルシアスの声には鋭さがあり、スタンレイは口を閉じた。
 ルシアスは座ったまま足を組み替え、腹心を睨みあげるように見据えた。

「関わった者全員、引きずり出して処分しろ。放り出して二度と甲板(デッキ)にあげるな」
……。まあ、罰金を払えるくらいなら、最初からこんな真似してないか」
 スタンレイは嘆息して目をぐるりと上に向けた。
 罰金刑を科しても支払い能力がなければ、借金扱いにしてその分働かせ続けることもできた。
 が、今回ルシアスはその猶予を与えるつもりがないのだ。

 罰金の代わりになるであろう罰がすぐに思い浮かんだスタンレイは、念を押すように言った。
「恨まれますよ」
「すでに手を嚙まれたあとだ」
「確かに。放り出される場所が無人島じゃないだけましだな」
 大して反論もせず、航海長(マスター)は苦笑を浮かべた。

「ライラはこういうのが苦手なんでしたっけ? 彼女の生業(なりわい)を考えると意外ですが」
「血を見るのは平気だろうよ。過剰な罰が好きじゃないらしい。ま、大好物だと言われても困るが」
 軽く肩を竦めたルシアスに、スタンレイも「それはそうですな」と(こた)える。

 ルシアスは視線を僅かに落とし、ぽつりと言った。
「久々に帰ってくるんだ、そんなときにあいつと揉めたくない」
 航海長(マスター)は、年下の船長を黙って見下ろす。
 頭領という立場上避けられないことだが、時折この青年にすべて背負わせていることが申し訳なくなるのだった。

 それからスタンレイは、気を取り直したように張りを持たせた声で言った。
「わかりました。胸糞悪い仕事は、さっさと済ませましょうか。船出も再会も、すっきりした気持ちでないと」
「そのとおりだ」
 ルシアスも弱い苦笑を浮かべる。

 今回の寄港は、遠回りばかりさせられていい加減うんざりしていた。煩わしい事柄は(おか)に置いて、早く海に戻りたいのがふたりの本音だった。
 方向性さえ決まってしまえば、あとは行動に移すだけである。スタンレイは表情を入れ替え、まっすぐにルシアスを見た。

「一応シュライバー氏にも一報入れておきます。放り出したあと、半端な腐りかたをされても街に迷惑がかかりますからね」
「わかった、任せる」
 ルシアスは小さく頷いた。

 一礼し、退室しようと扉に手をかけたスタンレイの背中を、外の波の音に溶け込んでしまいそうなほど小さな呟きが追いかけてきた。
「まったく。余計な欲を出さなければ、こんなことにならなかったのにな……
 普段からあれこれと心を砕いてきたつもりが、それでも、こういう形になって返ってくるのか。
 ルシアスの虚しさに心から共感しながら、スタンレイは聞こえなかったふりをして扉を閉めた。


 同じ頃、シュライバー邸のエルセをギルバートが訪ねてきた。
 疑惑のあった乗組員に波止場での作業を言い渡し、その間に離れた位置からタチアナ達に確認をさせたのだが、そこで男達の作業監督をしたのが甲板長のギルバートだった。
 その首実検が無事終わり、彼は話をまとめるためにルシアス達と船に戻っていたはずだった。

「ディレイニー様」
 エルセは彼を出迎えたとき、ライラ達の部屋で歓談していた。
 彼女は内心それで良かったと思った。最近の自分は、ギルバートのこととなると情緒があちこちに大きく振れてしまうから。
 ひとりで彼と向き合うなんて、とてもできそうになかった。

 反対にギルバートは、いつもより肩の力が抜けているように見えた。
「礼を言いに来たんだ。おかげで問題が解決した。これでようやく船が出せるよ。ありがとう、お嬢さん(ユフラウ)
……

 向けられた微笑に、エルセはすぐには言葉が出てこなかった。
 こんなに晴れやかな、柔らかい笑顔を持っている人だったなんて。普段の彼は精悍で凛々しくて、男らしい戦士のような人だった。
 新しい一面を知るたびに心が揺さぶられる。どんな表情も素敵だなんてずるいと思ったが、今日のこの微笑みの代償は彼との別離なのだった。

 泣きたい気持ちを堪えて、エルセは精一杯の笑顔を返した。
「良かったです。お役に立てて」
 その一言を言うのがやっとで、彼女は視線を床に向けてしまう。
「私なんかに何かができるなんて、これまで思ってもみませんでした。数日でしたけど、その間にたくさん勇気をいただきました。むしろ私のほうが、皆さんにお礼を言いたいくらいです」

 最後のほうは、声が震えてしまった。
 ぱたぱたと、床に零れ落ちた涙に気づいたライラが彼女に寄り添う。
「エルセさん」
「ご、ごめんなさい。こんな……恥ずかしい。困らせてしまいますよね。ごめんなさい」

 エルセは俯いたまま、両手で顔を覆った。ライラがその背中を優しく撫でる。
「大丈夫、誰も困ったりしませんから」
「心の準備がまだ……。これでお別れなのかしら、って思ったら、私……
 エルセは声を殺すようにして静かに泣いた。

 男ふたりはこの状況にどうしたものかと、困り果てて立ち尽くしていた。
 ギルバートは気まずげな様子で、彼女を直視できずに僅かに視線を逸らしてしまう。
 バートレットは、嗚咽を漏らすエルセを痛ましそうに見つめながら、ゆっくりと言い含めるように告げた。

「慰めにならないかもしれませんが、今すぐ出港ではありません。準備が整うまで、あと何日かはこの街にいます」
 その言葉に、ライラがホッとして振り向く。
「良かった、私も急に話がまとまって戸惑ってたんだ。街を出る前に、せめてもう一度くらい、ゆっくり話ができたらと思っていたから」

 すると、それを聞いたエルセが泣き顔のまま顔をあげた。
「まあ! 賛成です、ぜひ! モレーノ船長もお呼びしましょう、前みたいに皆で、お昼を食べながら他愛のない話をして……
「ええ、いいですね」
 ライラが微笑むと、エルセは涙も拭わず、彼女に縋りつかんばかりの勢いで言った。

「アラベラさんに似合いそうな服が、まだたくさんあるんです。一緒に見たい絵もあるの。食べていただきたいお菓子も!」
 そう言っている間にも、またぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「外商を呼んで、何か……お揃いのものを買いませんか? 手巾(ハンカチーフ)でもリボンでもいいです。お互いの思い出が欲しいわ、いつでも思い出せるように」

 くしゃくしゃの顔で泣きながら懸命に言連ねるエルセを、ライラはそっと抱きしめた。
「全部やりましょう。忙しくなりそうだから、今夜のうちに計画を立てないと」
「はい……はい!」
 エルセは何度も頷くと、堪えきれなくなったのか、ライラの胸に顔を(うず)めて啜り泣いた。

 旅をするライラも、去る者より見送る者のほうがつらいのを経験上知っていた。しかし今回は船旅である以上、またすぐ会えるなどと軽くは言えなかった。
 別れは慣れているけれど、友人のもとから離れるのは初めてだ。
 旅立ちを前にこんな焦りに似た気持ちになるのも今までにないことで、ライラはこれが寂しさなのかと思った。
 涙こそ流れないものの、エルセの気持ちに共感する部分もあって、彼女はエルセとの残った時間を大事に過ごそうと心に決めた。

「どこに行くんです?」
 ライラがエルセを慰めているのをしり目に、ギルバートが音もなくその場を離れたのを、バートレットが目敏(めざと)く見つけた。
 廊下に出てすぐのところで呼び止めると、ギルバートは決まり悪そうな表情で振り返った。

「戻る。こちとら甲板長なんてもんを引き受けちまってるからな、出港までやらなきゃいけない仕事は山積みだ」
 別に嘘をついたわけではなかったが、それでもバートレットは(とが)めるような眼差しを彼に向けてくる。
 ギルバートはそれを無視することができずに、大きな溜め息をついた。
……。何が言いてえんだよ」
「いいんですか? 彼女は謹慎中です。出港するときも、おそらく、見送りに来たくても来られないでしょう」
 バートレットは淡々と告げた。

 後ろめたさのあるギルバートには、それだけで充分意味が伝わった。
 彼とてまったく自覚していないわけではないのだ。気づいていないふりをしていただけで。
 エルセの涙を見ると心が痛んだが、この先どの(みち)を辿ってもそれを無にできない気がした。行く手にはあまりに障害が多く、それを乗り越えるには彼は年を取りすぎていて、分別がありすぎた。
 そして人生を通して諦めることにも慣れ、もはや麻痺した彼の心は、逃げることすら正当化してくるのだ。

 しかし、自他ともに認める単純人間だったはずが、三十も半ばになると僅かばかりでも感受性が芽生(めば)えるらしい。
 向けられた想いの強さと純度に、胸の奥底で何かが揺さぶられていた。それに蓋をして黙殺することができないほどに。

「ふん。他にどうしろっていうんだ」
 ぼやくように呟いて、彼は身を翻した。

読んだ感想などいただけると嬉しいです。