Brionglóid
海賊と偽りの姫
記憶の楔
29
会食の場を飛び出したニナだったが、突然胸部に鋭い痛みを覚え、廊下の真ん中でうずくまってしまった。
そういえば、先日彼女の診察をした医者が、しばらくは安静にしろと言っていたことを今更思い出す。しかし普段はもう痛みも引いているので、ニナはつい忘れてしまうのだ。
医者なんてかかったことがないし、どこまで信用していいのかもわからない。誰かにぶたれることも初めてではなく、腫れさえ引けばほぼ元通りだと、彼女はそんなふうに考えていた。
もちろん、怪我が治ればこの屋敷にいる理由がなくなる。さすがにニナも、清潔で温かな寝床と、黙っていても出てくる食事には未練があった。出ていけと強く言われるまではここにいてもいいかな、なんて思っていたくらいである。
が、実際はあの医者の見立ても、あながち外れていたわけではないらしい。
「あーあ、もう。鬱陶しい痛み……っ」
息すらできないほどの痛みは緩やかに去り、ようやく身動きが取れるようになったところで、ニナは脂汗を滲ませながら強がるように呟いた。
じりじりと不格好な動きで壁際に辿り着くと、背を預けて座り直す。ふう、と息をついた。
夜の廊下は人気が少ない。
シュライバー邸は、誰もいない廊下にまで明かりを灯す方針ではないようで、四角く伸びる路の先は闇に溶け込んでいて見えなかった。
深夜まではまだ時間があり、どこかの部屋から時折賑やかな話し声が漏れ聞こえてくる。
こうして暗い中にひとりでいると、ニナにとって馴染み深い感覚が蘇る。
まるで、自分だけが世界から切り離されているような孤独感。ひとつひとつの窓や扉の向こうには温かい家庭があるのに、ニナは暗闇の中からそれを眺めるだけなのだ。
母さえ生きていれば、とは思わない。母の仕事は主に夜だから、当時も陽が昇るまではひとりきりの時間だった。朝になっても、母は帰宅した途端に寝てしまうのだけれど。
孤児院は合わなかった。あれこれと規則に縛られてまで誰かといたいわけではない。
大勢のうちのひとりというのも嫌だった。常に傍にいて、ありのままの自分を受け入れてくれる誰かが欲しかった。
「あの人に会いたいな」
ぽつりと呟く。無性に浅黒い肌の彼と話がしたくなった。
彼だけでなく、あの船の男達は街の連中と何かが違った。口が悪くても、馬鹿にされているわけじゃないことは伝わってきた。
それでニナは確信した。やっぱり自分がおかしいのではなく、街に住む人間が変だったのだ。話が通じる大人はちゃんといた。ニナのことを理解してくれる大人が。
そういう意味ではこの屋敷のエルセもそうなのだが、ニナはやっぱりクラウン=ルースと呼ばれる彼が良かった。
容姿が整っていて、着ている服も上等。地位もあって、沢山の部下を従えている。頭も悪くなさそうだ。感情的になって殴ってくることもないだろう。
あんなに素敵な彼と一緒にいれば、今まで散々だった人生も大逆転できる気がした。馬鹿にしてきた奴らも見返してやれる。
綺麗な服を着て、彼に愛され、大事にされている自分を想像するだけで、気分が高揚する。
これでやっと自分も幸せになれるのかもしれないと、わくわくしていたのに、だ。
「あんな地味な女に引っかかるなんて。男って本当にどうしようもないね」
ニナは口を尖らせた。男という生き物はよくわからない。
母は毎晩目一杯の化粧をし、着古しの一張羅を身に着けて夜の街に繰り出していた。そのおかげで、病気になるまで閑古鳥が鳴くことはそうなかったが、ついた客は薄汚れていて下卑た男も多かった。
彼らはなけなしの金を母と一晩過ごすために費やすのだが、彼らは母を殴ることもあった。それでも母は仕事だから、そんな粗雑な扱いにも泣きながら耐えていた。お前は外に行っていろと言われた後、部屋の中から聞こえてくる悲痛な声を、今でもはっきり覚えている。
すべては生活のためだ。生きることに一生懸命だった母を、ニナは誇らしく思っていた。
だが、あのライラとかいう女は違う。あの女は生きていくためでもなく、ただチヤホヤされたいだけで媚びを売る浅ましい女だった。まったく尊敬できない。
男達は無償だから気軽に彼女に近寄っていくのだろうが、その中にあの彼も含まれているというのが、ニナとしては納得いかなかった。
しかし彼は船乗りだ。陸にいる期間が短くて、偶々価値のある女との出会いがなかったのかもしれない。生前の母に会ったら、彼だって夢中になっただろう――彼を母にとられてしまうのは悔しいけれど。
ニナはまだ若すぎて、母のように男の目を惹きつけることが難しかった。化粧さえできるようになれば、彼だって、もちろん他の男達だって、自分のほうを向くに違いない。女の魅力で生き抜いてきた、あの母の娘なのだから。
それにライラは、ニナの母と同じ仕事をするつもりがないと言っていた。だったら、旦那以外の男は譲ってくれても良いはずだろう。
「そうだよね、独り占めなんてずるいもん」
自らを鼓舞するように呟いたとき、暗い廊下の先から声がした。
「そこに誰かいるのか?」
野太い感じのする男の声だった。反射的にニナの身体が強張る。
走って逃げられるだろうか、でも今は痛みが……。
逡巡しているうちに、相手のほうがニナを見つけて近寄ってきた。暗がりとはいえ、目が慣れてくるとぼんやりとだが相手が見える。
現れたのは、声の印象のとおりの大男だった。だが、屋敷の使用人ではなさそうだった。
「こんなところでどうしたんだね? 風邪を引くぞ」
相手のほうはニナが子どもだとわかると、自分の肩に手をやって外套を外し、彼女にそっと掛けた。
「とりあえず、それを羽織っていなさい。ないよりはましだろう」
「……」
まだ人肌の温もりが残る外套に、ニナは夜気の冷え込みを今更実感する。ぶるりと身震いした。そういえば、吐く息も薄っすらと白い。
「あんた誰?」
座ったままニナは相手を見上げた。
不遜な態度にも臆せず、男はその場に片膝をついて答えた。
「これは失礼をした。俺はロイ・コルスタッド。この屋敷で一時的に世話になっている身だ」
距離が近くなったことで、男の顔貌がなんとなく掴めた。意外に若い。それに身なりもきちんとしていて、ニナの警戒心が少しだけ薄くなる。
どこかで見たような気がしたのはおそらく、屋敷内で何度か見かけていたからだろう。あのライラという女を追いかけ回していた男だと、少し遅れてニナは気づいた。こいつも、あの女の可哀想な犠牲者というわけだ。
「あんたもお客さんか。あたしも似たようなものだよ」
「君の名前を訊いても?」
ロイはやんわりと尋ねた。ニナは少し考えて、どうやら悪い人間ではなさそうだと判断した。
それでも素直に答えるのはなんだか癪だったので、ぼそりと告げた。
「ニナ」
「ニナ殿か。そういえば、新しく少女が滞在することになったと聞いた。君のことだったんだな。挨拶が遅れて申し訳ない」
生真面目に頭を下げるロイに、ニナは面食らった。このところ妙な大人と出会う機会が多くなった気がする。
対等な人間として扱ってほしいと思いながらも、いざそうされると、不慣れでどうしていいかわからなくなるのだった。
戸惑うニナをよそに、ロイは落ち着いた口調で続けた。
「話を戻すが、こんな寒い廊下にいては風邪を引いてしまう。もしよければ、部屋まで送らせていただこう」
「この程度大したことないよ。あたし最近まで、外で暮らしてたもん」
「おお……なんと。苦労をしてきたのだな」
当て擦りではなく、本気でそう思っているらしいロイを、ニナは気味の悪いものでも見るような目で見返した。
どんな人生を送ってきたら、こんなことが言える大人が出来上がるのだろう。
「過酷な環境の野営で、戦う前から音をあげる兵士も珍しくない。君は強いな」
「おじさん、大げさ」
ニナがすっぱりと言うと、ロイはぐっと言葉に詰まった。
「お、おじさん……?」
「あたしからすれば、おじさんだよ」
ロイはまたしても返答に窮した。
「うむ……。女性に年齢を訊くわけにもいかないが、君の雰囲気からすると、おそらく、そうなのだろうな……」
随分苦労して、ロイはそんな結論を捻り出した。それでも衝撃が尾を引いているらしく、語尾が僅かに震えている。
「ええと……、君のことを訊いてもいいかな。この家の縁戚の子なのか?」
気を取り直すように、ロイは話題を変えた。ニナは呆れたように嘆息した。
「違うよ。さっきも言ったじゃない。こんな金持ちの親戚だったら、家なしで生活する必要なかったよ」
「そ、そうだな」
彼の動揺ぶりが少し可哀想になったニナは、そのどうでもいい話に付き合うことにした。
「何日か前、街で頭のおかしい男に襲われてるところを助けてもらったんだ。そのときに怪我をして、ここに連れてこられたの」
「……」
ロイがまた言葉を失った。しかし、続く言葉は動揺で震えたりはしていなかった。
「なんとも痛ましい話だ。ちなみに、その男の身元はわかるか?」
「何年か前にこの街に辿り着いた、流れ者の下衆野郎だよ。でも訊いてどうするの?」
「捕まえて、牢に放り込むくらいのことはできるかもしれない」
ロイは大真面目だった。
しかしニナとしては、ここへ来て生活が一変したのもあり、半分忘れかけていたような話だ。大怪我をさせられたのに、報復をしてやろうなんて今まで考えていなかった。そのことにニナ自身も驚いてしまう。
ただ、あのときも、ライラが男を脅していたことを思い出す。
「牢に放り込むって、そんなに簡単にできるの?」
「簡単ではないかもしれない。一応俺は、木っ端役人みたいなものでね」
「ふうん」
「そうやって捕まえたところで、もちろん、なかったことにはならないが」
まるで、その取り返しのつかないことを自分がしてしまったかのように、ロイは暗い声で呟いた。
ニナも、それが他の相手だったら、そのままにしておいただろう。しかし、このどこか憎めない彼が不必要に苦しむのは違うと思って、彼女は言った。
「誤解させちゃったね。幸い、蹴ったり殴ったりされただけだよ」
すると、ロイは目を眇めた。
「だけ、ではないだろう。暴行も立派な罪だ。それも、君のような年端のいかない子どもに相手に」
一般常識ではそうかもねと、ニナは肩を竦めた。残念ながら、世の中はそれが建前としての役割しか果たしていない界隈がたくさんあるのだった。
「こっちが女であっちが男なんだから、大体はそれ以上のことが目的だもん。まさか、あたしみたいなガキ相手にまで欲情してくるとは思わなかったけど……。そこまで行かなかったから、だけ、なんだよ」
「……」
ロイは嫌悪感を隠さなかった。怖いくらい顔をしかめている。
しかしここでニナを相手に苛立ちを表しても仕方ないと思ったのか、バツが悪そうに視線を落とした。
「それは、不幸中の幸い、と言っていいのか……。なんとか逃げ出せたのは良かった」
「それ以上のことをされる前に、あの女が来たからね」
ニナは面白くなさそうに言った。
ロイは怪訝そうな顔をした。
「女……? 令嬢のことか?」
「ああ、エルセお嬢様じゃないよ。ライラって女と、その旦那。この屋敷にいるから知ってるでしょ」
訂正を入れたニナに、ロイは何故かすぐには反応しなかった。
奇妙な沈黙を挟んで、彼は言った。
「ライラとは、イリーエシアか? 彼女がそう名乗っていると?」
「あの人怪しいよね。既婚なのに平気な顔して男に囲まれて。あんたはイリーエシアって呼ぶし、旦那にはアラベラって呼ばれてるし。でも別のところではライラって名前で呼ばれてる。なんだか詐欺師みたい」
ニナは、暗にロイが騙されている可能性を匂わせた。
ロイはまたしばらく黙っていたが、ニナはそれを、裏切りを知ったがゆえだと思った。
やがて、彼は感情を抑えた声で言った。
「詐欺師ではない。それは俺が保証しよう。彼女は身分を偽る必要があるのだ、身を守るために」
「ほんとに? 嘘くさい」
「本当だ」
ロイはきっぱりと言ったが、ニナは疑っていた。誰だって、自分が騙されていたとは信じたくないものだからだ。
「じゃあ、違う犯罪者なの?」
「逃げる必要があるのは、何も犯罪者だけではない。敵が強大すぎる場合は、身を隠すのも立派な手段だろう。恥じることでもない」
真剣なその言葉もかえって盲目的なものに聞こえて、ニナはふんと鼻を鳴らした。
「あの人、強そうだったけど」
「……? どういう意味だ?」
「だって。あたしを殴ったろくでなし野郎を、直接追い払ったのはあの女だもの」
あのとき、下衆をライラが鮮やかに追い払ってのけたのは、ニナから見ても爽快ではあった。女子どもを簡単に食い物にできるなんて高を括っていた男の鼻っぱしを、若い女が盛大にへし折ったのだから。
それがクラウン=ルースの想い人でなければ、もっと良かったのだが。
「なんだって……?」
ロイは愕然として聞き返し、さっきまで抑えていた感情を爆発させた。
「悪漢に立ち向かったというのか!? なんて危険な真似を……!」
その剣幕に驚いたニナは、ほんの僅かな身じろぎが傷に響いて小さく悲鳴を漏らした。
また怪我のことを忘れていたのだ。
「大丈夫か?」
はっと我に返ったロイが、緊張をはらんだ声で尋ねてくる。
「へ、平気……。もう、折れた肋骨っていつ治るんだよ」
安静にという指示を無視しているのは自分なのに、ニナは涙声で文句を言った。
彼は少し落ち着きを取り戻したらしい。肩の力を抜くように、短く息を吐いた。
「部屋はどこだね? この底冷えなら、傷も痛むはずだ。送ろう、寝台に入ってじっとしていたほうがいい」
肋骨を負傷したなら背負って運ぶわけにはいかないが、と彼は申し訳なさそうに言う。
しかし、ニナはそれがどうにも面白くなかった。
子どもで怪我をしている自分は当然だとして、何故あんな女まで心配してもらえるのだろう。充分、ひとりで生きていけそうなのに。
痛みからくる苛立ちも相まって、ニナの言葉もきつくなる。
「部屋にひとりなんてつまんないもん。痛みでどうせ眠れないし。それよりさ、おじさん。あの女のこと買いかぶりすぎ。あいつ、ろくでなし相手に少しも負けてなかったよ」
ロイは苦々しく嘆息した。それの原因が、聞き分けのないニナに対してなのか、ライラの無茶に対してなのかはわからない。
「……。彼女は気が強いのも確かだが、いつ如何なるときも誇り高くあれと、そういう教育を受けているのだ。君よりも年若い頃から」
「なにそれ。お貴族様みたい」
「……」
ニナの皮肉に、ロイは応えなかった。
その意味を深く考えないまま、ニナは独りごちる。
「でも、そんな感じでもなかったな。どっちかっていうと……、馴染んでた?」
「馴染んでいた……?」
ロイが反応したのに少し安心しながら、ニナは頷いた。
「手慣れてた、って言ったらいいのかな。平然としてたもん」
ロイはまた黙ってしまった。
ニナはそんなふうに沈黙されるのが苦手だった。相手が何を考えているかわからず、不安になるからだ。
だから、相手が何か言うまで待つということをせず、口を開いてしまう。
「疑ってる? 本当の話だよ。優男の旦那は後ろで見てただけ、でもあの女が進んでそうしてるように見えた。立派な剣も持ってたし」
「剣……? 剣だと!?」
今度は掴みかからんばかりの勢いで詰め寄られ、ニナは反射的に硬直する。また胸のあたりがずきりと痛んだ。でも、怖くて痛いなんて言えなかった。
大人の男というだけでなく、ロイは子どもからすれば威圧感を感じてしまう大男なのだった。
しかし、ロイは実際には手も触れなかった。
「まさか」
そう呟いたきり、ロイはただその場で呆然としている。
その様子は尋常ではなかった。大人がここまで狼狽えるという状況は、そうあることではない。
ニナは、自分が彼をそうさせてしまったのかと慌てた。
ライラのことは相変わらず気に食わないが、ロイを傷つけるつもりはなかったのだ。
「おじさん、おじさんったら。何か、その……様子が変だよ。大丈夫?」
自分の痛みはそっちのけで、ニナは訊いた。
ロイは俯いて答えない。
しばらくして、彼は苦悩の滲む声で呟いた。
「彼女に、問い質さなくては」
「こんな時間に?」
「……っ」
振り向いたロイの顔は強張っていた。ニナがそこにいるのを、今気がついたとでもいうように。
ニナは溜め息をついた。
ロイのことは気の毒に思ったが、その反面、雑な扱いをされているようで不愉快だった。
下から睨みつけるようにして、彼女はロイに言った。
「おじさんさ、今日はもう寝たほうがいいよ。こんな時間に突っ込んでって、部屋であの夫婦が何かしてたらどうするつもり? さすがにそれが相当まずいことくらい、あたしでもわかるよ」
嘘だった。
ニナが部屋を飛び出してから、それほど時間が経っていない。夜更けではあるが、バートレットとライラのふたりは、まだエルセ達と会食を続けているはずだ。
けれどニナは、ライラのことばかり気にしているロイが気に食わなかった。そして、ロイの様子があまりにもおかしいので、このままの勢いで行動させるのが不安だった、というのもあった。
当て擦りは抜群の効果を示した。
ロイの表情は暗がりの中でもわかるほど悲愴で、ニナはまたやってしまったと後悔する。
間違ったことを言ったつもりはないが、時々こうやって思った以上に相手を傷つけてしまうのだ。
ロイは落ち着かなげに視線を彷徨わせ、それから雑念を振り払うかのように首を二、三度横に振った。
「……そうだな。ここは君の助言に従うことにしよう。一旦、考えをまとめる必要がありそうだ」
疲れ切った声だった。ロイは、亡霊のような動きでゆらりと立ち上がる。
立ってから、ふと思い出したようにニナを見下ろした。
「ひとりで部屋まで戻れるか?」
「……大丈夫」
むしろ大丈夫じゃなさそうなのはそっちでしょと、ニナは思った。
ロイは随分あのライラという女に入れ込んでいたようだし、その彼女に裏切られたのなら、この落ち込みぶりも仕方ないのかもしれない。
素敵な女性だと思ったからこそ、惚れたのだろう。それが何もかも偽りの姿だったなんて。
やはりライラは、とんでもない詐欺師だ。
「そうか。では先に失礼する。君も、あまり遅くならないうちに戻りたまえ」
そう告げて、ロイは複雑な表情のまま去っていった。
その背中が闇に溶けるのを見届けてから、ニナは外套を借りたままだったことを思い出した。
路上生活をしていた頃なら、翌朝には古着屋に売ってしまおうとほくほくしていたろう。こんな上等な生地の外套なんて、いくらで売れることやら、と。
でも、これは明日早めに返すつもりだった。ロイはいい人なので、これは盗まないであげるのだ。
そして、ルースという名のあの人も、ロイと同じように早く目を覚ませばいいのに、と思った。