Brionglóid
海賊と偽りの姫
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記憶の楔
26
シュライバー家の使用人達は、客人であるベインズ夫妻とすっかり打ち解けていた。
それは食事の場で世話をする給仕女や、毎朝寝具を回収にくる洗濯女に限らない。この屋敷に長く務めているという、中年の煙突掃除夫もそのひとりだ。
彼は敷地内を自由に歩き回ることを許されてはいなかったが、今日はどうしても話したいことがあったらしい。辺りに主家の人間がいないことを確認してから、廊下を歩いていたライラに声をかけてきた。
「あなたがお医者様に口利きをしてくださったおかげで、娘の発疹が消えてきたんです」
訛の強い公用語で、男は言った。ライラはそれを聞いて微笑んだ。
「それはよかった」
「嫁入り前でしたからねぇ。親としては可哀想で仕方なかったんですが、今まではどうしてやることもできなくて。私らの身分じゃ、本来あんなお医者様に診ていただくことなんて無理ですから。本当に、アラベラさんにはなんとお礼を言っていいか……」
感極まった男の目には光るものがある。
他人の喜びに触れたことで、ライラの心もほんのりと温かくなった。
「私は、診察の必要な人がいると伝えただけですよ。ジェイクはもともと、身分で患者を選り分けることはありません。費用も無理を言うことはなかったはず」
「そのとおりです。いいお医者様をご紹介くださって、本当にありがとうございます」
「とても喜んでいたと、私からも彼に伝えておきます」
何度も繰り返して頭を下げる男に、ライラは頷きを返した。
すると今度はそこへ、畑の管理をしている青年が駆け寄ってきた。
「アラベラさん! さっき料理人に会ったので、夕餉の献立に菊苦菜のグラタンを入れてもらいましたよ。お好きだって仰ってたでしょ」
青年の手には、土のついた野菜籠がある。中身が空であるところを見ると、台所に食材を届けた帰りなのだろう。
ライラは振り向きざま微笑んだ。
「本当ですか? ありがとう、楽しみです」
「今が旬ですからね。俺が育てたやつなんで、きっと美味いですよ!」
青年もまたはにかんだように笑った。
シュライバー家は商人の家なので、使用人がたくさんいるとは言っても、貴族の屋敷ほど堅苦しさはなかった。
ライラ達のように、何日か滞在する客も珍しくはないらしい。エルセが来客の差配に長けているのもそのせいだろう。
使用人には数ヵ国語を嗜む者もいて、外国からの来訪者であっても屋敷内で不自由はしなさそうだった。人の出入りが多いことに慣れた彼らは、ライラ達にもとても気さくに対応してくれた。
使用人達と軽く談笑をしてから別れたライラは、廊下の先に佇むニナを見つけた。
外を眺めているふうを装っているが、実際はライラ達の様子を窺っていたのは明らかだった。
「エルセさんを探しにきたのか? あいにく今は出かけているそうだよ」
「浮かれちゃって、いい気なもんだね」
何気ない口調で話しかけたライラに対し、ニナはむすっとして顔をそらした。
思いもよらないことを言われたライラは、驚いて目を瞬く。
「浮かれ……私が?」
「あーあ。全然気づいてないようだから、教えといてあげる」
ニナは演技がかった仕草で、呆れたとでも言うように首を振った。
「あんたが皆にチヤホヤしてもらえるのは、そうやって化粧して綺麗な服を着て、男に媚びてるからだよ」
ライラはさらに驚いたが、既視感もあった。ふむ、と考え込む。
「このところ、同性からそういう言いかたをされることが妙に増えたな」
「あんたを見てるとわかりやすいもん」
「わかりやすい? そういうことを言うのは、決まって私のことをよく知らない相手なんだけどね」
ライラは苦笑を浮かべた。
彼女としては媚びているつもりもなければ、そうする必要も特にないのだった。そして海賊達もエルセ達も、そのことをよく承知してくれていた。
すると、ニナはふんと鼻を鳴らした。
「あんたのことなんか別に知りたくもない。結婚してるのに、いろんな男に愛嬌振りまいてさ。そこだけ知ってればもう充分でしょ」
ニナは顎を突き出して、ライラを蔑むような目で睨みあげる。
「あんたのやってることは正直気持ち悪いし、むしろ可哀想って思う」
「可哀想?」
「あのさ。男達にどう思われてるか、本気でわかんないの? それなのに一生懸命めかし込んで。あたしだったら、男にそういう目で見られるだけでも耐えられない!」
ニナは苛立たしげにそう吐き捨てた。
ライラは言われた言葉を胸のうちで反芻し、彼女なりに導き出した解を口にしてみた。
「母上の生業に抵抗があったのか?」
「……っ。母ちゃんは仕事でやってただけだよ。あたしとふたりで生きていくために、仕方なくしてたことだもん。あんたと一緒にしないで」
ニナが傷ついたような顔をしたので、ライラは答えを外してしまったことを知った。
しかし少女の言うことはどれも遠回しで、主旨が見えない。化粧をしたライラは侮蔑の対象でも、娼婦だった実母についてはそうではないらしい。
いや、肉親に対しては、どうしても嫌悪感を抱けないというのもよくある話だ。多感な年頃の少女が、成人した異性を過剰に拒絶するのも頷ける。
彼女を傷つけるつもりはないのだが、どこに落とし穴があるかわからず、ライラは半ば途方に暮れながら口を開いた。
「私がしているのは世間話程度で、母上の仕事内容とは大分異なるぞ」
「お金出す価値もないと思われたんだね、残念。あんたが娼婦になったって、誰も寄り付かなくて毎晩独り寝する羽目になりそう」
意地悪げに言うニナに、ライラは肩を竦めた。
「そういう仕事に就く予定はないから、構わないけどね」
「へぇ、じゃあ無料でもいいから相手にしてほしいんだ?」
「無料で相手に、というか」
なんだか変な話になってきたな、とライラは困惑した。
世間話をするのに金銭は絡まないので、間違ってはいないが、乞うてしてもらっているものでもない。
「親切にしてもらって感謝しているし、ここの皆とは友好的な関係でいたいと思ってるよ。お金の話ではないね」
「ふん。いい人ぶっちゃって」
ニナは鼻で笑った。
「あんたの周りに集まってる男なんて、実際は下心だらけ、欲望まみれなんだから。だから優しいんだよ。金で女を買う下衆と大して変わんないよ」
「……」
ライラは僅かに眉根を寄せた。
ニナの言うことは、本心というよりはその場の勢いから出た言葉ばかりだと、とっくに見抜いていた。
しかし、だからこそ安易に強い言葉を選びがちで、その影響の大きさに本人は気づいていない。危険だな、とライラは思った。
どうせ子どもの言うことだからと、受け流すこともできた。しかし、矯正を担うはずの親がいないのであれば……。
ライラは、はあ、と嘆息した。
「それじゃ、お前が乗ろうとした船の連中はほとんどが、欲望まみれの下衆ということになるな。そんな船に何ヶ月も乗って、南へ行くつもりなのか? そういう目で見られるだけでも耐え難いのに?」
あくまでも淡々とした口調でライラは言った。
しかしそれでも、少女は思い切り殴られたような顔をした。それまでのライラの態度から、反論されるとは思っていなかったのだろう。
「全員がそうだなんて言ってないじゃない」
ニナの勢いが少し落ちた。
ライラもそれには気づいた。成人男性に対する嫌悪感よりも、南に行きたい気持ちのほうが勝るのだろうか。
やっと話の緒を見つけたライラは、もう少し探ることにした。
「全員ではないだろうな。でも大多数はそうだろう。あそこは僧院や教会ではなくて、海賊船だ」
「海賊だって、ちゃんとした大人もいるよ」
「ちゃんとした大人、ね……。だとしたら、スタンレイかな。彼は愛妻家だから」
ライラは面倒見のいい航海長の名を出してみた。普段温厚な彼なら、ニナからも下衆呼ばわりされずに済むかもしれない。
逆にいうと、他の者は所帯を持っていたとしても、娼館や酒場遊びくらいは皆嗜んでいるようだった。
しかし、ニナはむきになって言った。
「他に話ができる人もいたもん」
「彼以外に? 高級船員やそれに近い者は、大体聡明だが……」
他に誰かいたっけと、海賊達の顔を思い浮かべていたライラは、そこでふと気がついた。
先日バートレットが言っていたのを思い出したのだ。
シュライバー夫人がライラに対してつらく当たるのは、彼女が目をつけた男達がライラの周辺に集まっているからだと。
では、この少女の場合はどうだろう。
そう考えて、この手のことが苦手なライラにしては意外すぎるほど、勘が鋭く働いた。
どういう表情をとればいいのかわからないまま、彼女は言った。
「ルースは確かにいつも涼しい顔をしているが、正真正銘、生身の男だぞ」
「……」
ニナが俯いたところを見ると、図星だったらしい。
しかしやっと理由がわかっても、代わりに形容し難い靄がライラの中に生まれていた。できれば味わいたくなかった嫌な感情だった。
重苦しさを逃がすように、ライラは軽く溜め息をついた。
「しかも彼は海賊だし。あの年齢まで女を買ったことがないというのも、現実味のない話だ」
「あの人はそんな無意味なことしないよ」
咄嗟にニナは反論したが、もちろん根拠などないことはライラも承知している。
ニナの言葉は半分以上が願望だ。願望が先にあって、補強するような理由の後づけを繰り返すから、どんどん事実から離れていく。
支離滅裂で、おそらく本人も自分で何を話したか、正確には把握できていないはずだ。一貫性なんて、ニナにとってはそれほど重要でもないのかもしれないが。
欲望をあらわにする男は嫌いでも、好意を抱いているルシアスは別だということであれば、この掴みどころがないと思われた話もうっすらと形が見えてくる気がした。
ライラは疲労感に苛まれながら、こめかみを指で揉みほぐした。
「お前がそうやって突っかかってくるのは、ルースが私に入れ込んでいるからか。その、ちゃんとした大人の彼が、私程度の女に引っかかるって?」
「どうせあんたが誑かしたくせに!」
案の定ニナは眦をつり上げる。ライラは呆れたように軽く上を仰いだ。
「あいつ、ここでそんな世間知らず扱いされてると知ったら、どういう反応をするだろう」
「最低。自分が誑し込んだ上に、そうやって見下すの?」
「誑し込んでもいないし、見下してもいない。私は彼を知ってるだけだ」
ライラはきっぱりと答えた。
しかしそれがかえってニナには癪に障ったようだ。ニナは最初の一回以降、ルシアスとほとんど接触できていない。知っているだけという点は、彼女の痛いところをついていたのだ。
ニナは再び睨みつけてきた。
「それであたしに勝ったつもり? そうまでして気持ちよくなりたいわけ?」
「一から十まで疲れる会話だな……」
ここではベインズ夫妻という偽装をしている以上、実はルシアスと恋人同士だなどと打ち明けるわけにもいかない。
ライラはうんざりしながら言った。
「じゃあどう言えばいいんだ? 実際に私は、彼とはそこそこ古い知り合いだ。ルースは女に劣情を抱かないような清廉潔白な男でもないが、欲に負けることもないし、私ごときに誑かされるほど馬鹿でもない。そういう彼を知っている、と言っているだけなんだが」
ニナは言葉に詰まった。
ライラの語るルシアスは、確かにニナの中にある彼の印象と重なった。
しかし、卑怯な手段に騙されるような人じゃないのなら、ルシアスが自らの意思でライラを選んだことになる。埠頭でレオンはライラのことを「頭領の大事な人だ」と明言していたのだから。
ニナとしては、それを受け入れるわけにはいかなかった。けれど、反論すればルシアスを貶めることになってしまう。
顔を赤くして下を向いてしまった少女を、ライラは溜め息混じりに見ていた。
「これ以上話しても平行線だろう。そちらがどこかで聞きかじった〝大人〟や〝男女〟をもとに思い込みで話している限りは、私の言っていることはいつまでも理解できないよ」
「こっちが子どもだと思って、勝手に決めつけないでよ。汚い人間関係なんて、あたしは嫌になるほど見てきてるんだから!」
視線を下に落としたまま、ニナはそれでも反抗するのをやめない。
ライラは苦笑した。
「さすがにもうわかるさ。世間を傍から眺めてきてはいても、誰かときちんと向き合った経験が少ないことくらいね」
そこへ、誰かから聞いたのか、建物の奥のほうだというのにバートレットが探しにきた。
ライラの姿を見つけるなり、大股で近づいてくる。
「アラベラ! ここにいたのか。部屋にいないから心配した」
「ごめん、すぐ戻るつもりだったんだけど」
苦笑を微笑に置き換えたライラを見て、バートレットはホッとした顔になる。
少なくとも周囲にロイやシュライバー夫人の姿はなく――。
「人と向き合う経験って素晴らしいんだね。あたしには、手当たり次第男を食い散らかしているようにしか見えないけど」
突然皮肉を投げつけてきた相手を見て、バートレットは顔をしかめた。
それから彼は、呆れた様子でライラを見る。
「またこの話題か。お前のどこをどうすればそう見えるのか、いい加減俺も知りたくなってきた」
当のライラは、まるで他人事のように肩を竦めてみせた。
「私は自ら男達に媚びていて、相手を選ばず手当たり次第なんだそうだ。おそらく夫人にもそう見えているのだろうな」
「起きている間は可能な限り俺が横にいるのに、どうやったらお前が他の男に手を出せるっていうんだ?」
バートレットの疑問に答えたのはニナだった。
「あんたの奥さんが一枚上手なんだよ、さっきだって他の男達に囲まれて嬉しそうだった」
「男達に囲まれて……?」
思わず訊き返したバートレットに、横からライラが補足した。
「アントニーさんやサムエルさんと話をしてたんだ」
相手の名前を聞いて、バートレットはすぐに納得した。
「娘さんの発疹の件か。彼女の状態は?」
「快方に向かっているそうだよ。ジェイクにお礼を言ってた」
「そうか。サムエルさんは?」
「夕餉の献立に菊苦菜グラタンがあるって教えてくれた。この前、畑で育てているのを見せてもらったんだ」
なるほどと軽く頷いてから、バートレットははたと我に返り、そしてわけがわからないという顔になった。
「その話のどこに媚びが入ってるんだ?」
「にやにやしてた。あんた以外の男に」
すかさずニナがそう告げ口をする。
おそらく夫である彼に言うことで、ライラの立場を危うくしたかったのだろう。さきほどやり込められてしまって、悔しい思いがあるに違いない。
しかし、それを聞いたバートレットは逆上したりはしなかった。
「……なんとなくだが、状況は読めた」
独り言のように呟いてから、彼はやや同情混じりの視線を妻に向けた。
「お前も、人が好いにもほどがある。こんな不毛な話に付き合ってやるなんて」
「結論が出そうにないから、切り上げるところだったんだよ。そこへ丁度、あなたが来てくれたわけだ」
「役に立てたなら嬉しいが」
皮肉っぽい笑みで返し、それからバートレットはニナに向き直った。
少し屈み、彼は少女の目線に合わせて言った。
「結論だったら、この場はとりあえず俺が出してやろう。伴侶が良しとしているものまで、第三者がとやかく言うものじゃない。夕餉の献立に嫉妬するほど、俺は狭量でもないぞ」
バートレットが狙いどおりの反応を示さなかったのが、ニナは面白くなかったようだ。
唇を尖らせ、悔しそうに「何さ。どいつもこいつも」と吐き捨てると、その場を走り去った。