Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

記憶の楔

24

 その夜、ニナの診察を終えたジェイク・マッキンタイアは、エルセに伴われてライラ達のもとへとやってきた。
 部屋で出迎えたライラとバートレットに、彼は苦さの勝る苦笑を向けた。
「話には聞いてたが、確かに扱いづらいガキだな。ああ言えばこう言う、会話をするだけでえらく苦労したよ」
 疲れたような溜め息をつく彼にバートレットは椅子を勧め、その間にエルセが暖炉で温めていた葡萄酒を人数分の木製の杯に注いでいく。

 差し出された杯を自然な仕草で受け取ると、ひと口含んだジェイクは気を取り直したように告げた。
「打撲傷は言うまでもないとして、眼球や鼓膜はとりあえず無事。ただ肋骨が折れてた。派手に殴られたそうだが……。頭部の衝撃なんかは特に、後から異常が出てくることもある。可能であれば、しばらく安静にさせて様子見だ」
「そうか」
 ライラは心配そうな表情で呟いた。武術という側面からではあるが、人体の知識も多少持っている彼女にはジェイクの懸念が理解できた。

 酔っ払いの喧嘩でうっかり相手を殺してしまった、なんていう話は珍しくないが、だいたいが頭部を強打したことが死因だった。刃物や鈍器を用いた場合は、うっかりではなく明確な殺意になる。ついカッとなって、突き飛ばした勢いか何かで相手が転倒し、打ち所が悪くて……たったそれだけで、人はあっさり命を落とすのである。
 ジェイクのほうはさすがに慣れた様子で、事務的な口調で続ける。

「それから、当たり前っちゃ当たり前だが、怪我以前にひどい栄養失調を起こしてる。骨がくっつくまで通常ならひと月かふた月、しかしあの状態だともう少しかかるかもしれないな。費用はギルバート持ちだったか? 贅沢させろとは言わんが、この際だ。しばらくはまともな飯を食わせてやれ」
 ニナの骨ばった身体つきを思い、ライラが「わかった」と(こた)えるのに被せるように、エルセがきっぱりと言った。
「費用についてはお構いなく。あの子は私達が責任を持ってお預かりします」

 ライラとバートレットは驚いて彼女を見た。ギルバートは彼女を巻き込むことに否定的で、エルセもそれは知っていたはずだからだ。
 しかし、ギルバートとエルセの微妙な関係を知らないジェイクは、彼女に向けて落ち着いた口調で告げた。

「絶対安静までは必要ありません。ただその間は、激しい行動は慎ませるように。骨の位置がずれるだけじゃなく、他の病にもかかりやすい時期です。……骨の癒着まで俺が()られればいいんですがね。そうもいかないので、代わりの医者を探したほうがいいでしょう」
「わかりました。ありがとうございます、先生」
 エルセは生真面目な表情で礼を言った。

 彼女が何かを決意したのはライラも感じ取っていたが、それがどうしてギルバートの意思に背く行為に繋がるのかがわからなかった。
 ライラから見た限りでは、エルセは少なくともギルバートを好意的に見ていると思っていたのだ。
 もともとエルセは海賊が嫌いで、特にギルバートのような荒っぽくて粗野な大人の男は苦手だという。それが、警護する側とされる側になり、最近は打ち解けていたように見えていた。ここにきて、急に反目し合うようになる何かがあったのだろうか……。

 ライラがそうやって悩んでいる間に談笑が終わり、ジェイクが帰船のため立ち上がった。
 はっと我に返ったライラの横では、ジェイクに(なら)ってバートレットも席を立ったところだった。

「外まで送りましょう、馬車ももう来ていると思います」
「そろそろ辻馬車の御者と顔見知りになりそうだ」
 肩を竦めた船医(サージェン)に、ライラは小さく笑った。
「昼間も来てたものな」
「医者って職業柄、患者がいる以上しかたないがね」
 ジェイクは苦笑を返したが、往診を嫌っている様子は欠片もない。

 見送りのために彼らは連れ立って玄関へと向かった。エルセが案内として先頭に立ったのだが、玄関広間の手前まで来たところで彼女は足を止めた。
「お母様」
「マッキンタイア先生」
 彼らの行く手に佇んでいたシュライバー夫人は、エルセの後ろにいたジェイクに微笑みかけた。
「もうこんな時間です、今夜はどうぞ泊まっていってくださいませ」

 まるで自分の娘など視界に入っていないかのような態度に、一同は鼻白んだ。が、ジェイクはすぐさま紳士的で穏やかな表情の仮面を装着した。

「ご親切にどうも。ですが、戻って明日の分の薬も揃えなくては」
「まあ、なんと勤勉な。けれど、少々働きすぎではありませんか? あなたが倒れてしまっては元も子もありません」
「ありがとうございます。ご助言に従って、今日は早めに休ませていただきますよ」
「馬車の移動も疲れた身体には堪えるはずです。せめて、休憩をなさっていってください。先生にお世話になっている立場で、このままお帰しするわけには参りませんわ」

 シュライバー夫人は、口では気の(こまか)い女主人のようなことを言いつつも、娘どころか他の面々のこともその目には映っていないようだった。背の高いジェイクを一心に見つめ、今にも彼に凭れ掛からんばかりだ。
 バートレットはあからさまに苦い顔をして、その様子を睨むように見ている。
 エルセは、客人の面前のことで困惑と羞恥でいっぱいになったのか、顔を赤くして俯いてしまっていた。良くないことと認識しつつも、母に対して物を言う権利など、彼女には認められていなかった。
 ライラもまた困惑していたが、こちらは肉親ではないのでまだ余裕がある。彼女の目には、ジェイクの横顔は泰然として映った。

 彼女は傍らからさりげなく告げた。
「馬車には一旦、その辺を回ってきてもらうよ」
 ジェイクが振り向く。それから彼は小さく笑った。だがそれは、夫人に向けるような行儀の良い笑みではなく、普段の彼らしい皮肉めいた微笑みだった。
「すまんな。すぐ済む」

 夫人とジェイクが応接室に向かうのを尻目に、ライラはさっさと身を翻した。玄関のほうへ歩いていく彼女を、一瞬迷いつつバートレットが小走りで追いかける。
 一方、応接室のある廊下の先からは、ロイ・コルスタッドがやってきたところだった。話し声に気づいて部屋から出てきたらしい。
 足を止めて目礼をした彼に、すれ違いざま船医(サージェン)も会釈を返す。

 室内に消えた背中を見送りながら、ロイは近くにいた使用人の女に尋ねた。
「彼は?」
「このところ、奥様がお世話になっているお医者様です。『天空の蒼(セレスト・ブルー)』の船医(サージェン)をなさっているそうです」
「……。そうか、ありがとう」
 ロイは閉ざされた扉をじっと見つめ、呟くように礼を言った。


 明けて次の日。消えた葡萄酒の行方を追う海賊の面々は、昨夜の酒が抜けきっていない体で再度上陸した。
 客のふりをして何軒かはしごする計画に、当初は男達も乗り気だったのだ。
 聞き込みをするのに、まさか何も注文しないわけにもいかない。それはルシアスもわかっていて、事前に男達にまとまった軍資金を渡していた。

 気兼ねせず酒を飲むことができ、しかも支払いは船持ちである。こんないい仕事もないと、彼らは意気揚々と繁華街に繰り出した。
 しかしすぐに、話がそう簡単でもないと悟ることになった。
 店の関係者達は皆、その場限りの雑談なら気軽に応じるものの、仕入れた酒の流通経路や価格の話となるとうまくはぐらかしてしまう。これはどこの店でも一緒だった。

 夜明けが近くなり、軍資金が半分を切る頃になって、さすがに男達は焦りはじめた。
 一晩散財して、ほとんど手がかりが掴めなかったのである。

「予想してたよりキツいな」
 欠伸を噛み殺しながらギルバートはぼやいた。酒場のある界隈に向かうその足取りは重い。
 ひと眠りはしたものの、昨夜の酔いが醒めきっていなかった。大量の酒を飲んだ翌日は怠惰に朝寝といきたいところだったが、仕事である以上そうもいかない。

 カルロが同じように並んで歩きながら、気怠さを払うように腕を上に振り上げて伸びをした。
「そりゃ、誰彼構わずペラペラ話すわけもない。それも一見(いちげん)の客相手に」
「長期戦覚悟、ってか? こんなことに時間かけてられないだろ」
「最後に寄った店の、なんて言ったかな。赤毛で小柄の……ハンナだったかな。あの子はもう一押しでいけそうだった」

 主計長(パーサー)が言うと、ギルバートは信じられないというような目で彼を見た。
「寝台に引きずり込むのは無しだって、頭領にも航海長(マスター)にも散々言われたろうがよ」
「今ここで大事なのは時間と予算だ。いざとなったら手段なんか選んでいられない」

 カルロはあっさりと応える。この男、普段から神経質そうな外見を裏切らない仕事ぶりを見せているが、男女関係においては例外だった。
 いや、この髪の毛一本の乱れも許容しない美意識と、狙った相手を籠絡する際の細やかな手管については、見た目どおりと言ってよかった。

 ただし、彼がひとりの女性に溺れるなんていうことはない。お互いが割り切った関係を好んで、一夜限りの恋をうまく愉しんでいるようだった。
 ルシアス達が色恋を手段として講じることを禁じているのは、綺麗さっぱり終わらせるのが難しく、後で面倒な事態になりやすいからである。そういう意味では、カルロは後腐れなく目的を達成することには長けていた。

「とっとと解決しなきゃ、ライラ達も戻ってこれないんだ。冬が近いのも事実だし面子(めんつ)も大事だが、ルースの身にもなってみろ。やっと手に入った自分の女を、いつまでも他の男に任せっきりなんて考えられるか? 普通の男なら発狂してる」

 淡々と言うカルロの横顔を、ギルバートは凝視した。
〝遊ぶなら大人の綺麗なやり方で〟を信条とする男の口から、そんな言葉が出てくると思わなかったのだ。

「……まるで、そういう経験があるみたいな言い方だな?」
「この年まで船に乗ってりゃ、そういうこともある」
 カルロはそう言って、作ったような笑みを浮かべた。
「そして俺のときは、発狂手前で逃げたのさ」
「……」

 ギルバートは、そんな彼の顔をしばらく見つめていたが、やがて馬鹿馬鹿しいとでもいうように鼻を鳴らし、視線を進行方向に戻した。
「ライラの傍にいるのは、あのバートレットだぞ」
「関係ないね。惚れた女の近くにいる男は、全部敵に見えてくるもんだ」
 カルロはあっさりとそう返す。

 ギルバートはしばし考え、それから諦めたように深い溜め息をついた。
「俺には難しすぎる話だな」
「わからんなら、そりゃ幸せなことだ。実際その立場になったら、しんどすぎて身がもたんよ」
「……」
 ギルバートは更に渋面になった。
 ゆるく首を振り、無理やり話題を変えた。

「とにかく、早いところ片付けるか。何かとっかかりさえ掴めればいいんだがな」
「俺は昨日の店にもう一度行く、アンナを懐柔してみよう。ここが地元だと言っていたからな、何か話が聞けそうだ」
ハンナだろ。女の名前を間違ったら半殺しにあうことくらい、俺ですら知ってるぞ」
 大丈夫かよと、ギルバートは呆れ返ってそう言い、何気なく視線を通りに流した。

 彼らを一台の馬車が追い越していったのを、酒精(アルコール)の残った頭がぼんやりと認識する。艷やかな赤っぽい木材で作られた箱馬車で、辻馬車ではない、ということが遅れて理解できた。
 この辺りは言うまでもなく治安の良くない界隈で、自前の馬車を持つような身分の人間は滅多に来ない。
 いや、来ていたとしても、馬車で乗りつけるなんて真似はしなかった。地味な外套を頭からすっぽり被るとか、帽子で顔を隠すとか、軽い変装をした上で隠れるようにして訪れるような場所だった。

 その見事な仕立ての馬車にギルバートが違和感をそれほど覚えなかったのは、見知ったものだからだ。彼自身がそのことに気づくのに、少し時間がかかった。
 車体の後方部分に、金の塗料で立派な紋章が描かれている。貴族のものほど仰々しくはないが、誇りを感じる堂々とした意匠だ。

 馬車は彼らの行手のずいぶん先で停まった。御者が降りてきて車体の側面に回り、恭しく扉を開ける。
 その光景を眺めていたふたりだったが、降りてきた人物を目にした途端、ギルバートは息を呑んだ。

 派手ではないものの、上等な生地で仕立てられた衣装。冬物の外套の袖には毛皮が贅沢にあしらわれている。大きな羽飾りのある鍔の広い帽子で顔はよく見えなかったが、そもそもその帽子をギルバートは何度か目にしたことがあった。
 エルセが、外出時によく身に着けていたからだ。

「は……!?」
 ギルバートが思わず漏らした声に、カルロが驚いて振り向く。
「どうした?」
 しかしギルバートは目を見開いて愕然としたまま、返事もしない。
「ギルバート?」
「……なんで、こんなとこに……?」
 ようやく、うわ言のような呟きが返ってくる。

 その視線が目の前の馬車に固定されていることを知ると、カルロは数瞬考えてから言った。
「あれは、もしかしてシュライバー家の馬車か? ってことは、あのお嬢さんはしばらく前にヴェーナの騎士殿と船に来た娘か」
 そしてもう一度ギルバートを見て、彼の様子から異常事態を察したカルロは苦笑いを浮かべた。
「まだ陽が高いとはいえ、ここはいいとこのお嬢さんが来るような場所じゃないな。お忍びにしちゃあ目立ちすぎてるし、意図が読めない。誰かをおびき寄せる餌のつもりならまだいいが……」

「そんな悪党めいた真似する娘じゃない。……できもしない」
 ギルバートは苦々しく応える。カルロは再び考えた。
「ってことは、お嬢様のお転婆が行きすぎた? 彼女のお()りはお前の役目だったよな」
「正式な契約じゃない。そもそももうお役御免になったと思ってる」
「じゃあ放っておくか」

 カルロがわざと楽観的な口調で言うと、ギルバートの弾丸のような視線が飛んできた。食いしばった奥歯の隙間から、呻くような声でギルバートは言った。
大事(おおごと)にしたくない」
 カルロは気軽に頷いた。
「じゃあ俺は予定どおり酒場に行くとしよう。お前の分の飲み代も頂くが、構わないよな?」
「好きにしやがれ」

 ちっ、と舌打ちしたが、ギルバートは酒が飲めないことが悔しいわけではなかった。
 苛々した彼のその様を見て何を思ったのか、カルロはにやにや笑いながら言った。
「もし万が一、応援が必要な事態になったら向こうのライフェン通りに行け。運河の係留所に、それぞれティオ達が待機してるのは知ってるな?」
「ああ、知ってる」
「それと」

 さらに続けようとしたカルロを、まだ何か言うつもりかと、うるさげにギルバートが睨む。
 まったく気に留めない様子で、カルロは言った。
「小娘相手にキレ散らかすなよ。そういうのは父親の仕事だ。お前は彼女の父親になりたいわけじゃないんだろ?」

 ギルバートは目を丸くした。それから、我に返ったように、特大の溜め息を吐いて項垂れた。
「これが怒らずにいられるかよ。無茶にも程がある。何やってんだ、あのお嬢さんは」
「じゃあここは静観しろ。ただ怒鳴りに行くだけなら必要ない。彼女もそんなの欲していないはずだ。口やかましい父親なんて、ひとりいれば充分だからな」

 静観と聞いて反論しようと顔をあげたギルバートは、そこにやけに真剣なカルロの表情を見て怯んだ。
 それから彼は、幾分冷静さを取り戻した声音でぼやくように言った。

「……。じゃあどうしろって言うんだ。ほっとくわけにも行かないだろう。あの娘が何を求めてるかなんて、俺にはわからん」
「あの年の娘が何を求めているかって、そりゃあお前……」
 カルロは口元にかすかな笑みを浮かべながら言った。

「正義の味方か白馬の王子様だろ」