Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

記憶の楔

22

 ディアナが滞在している宿を出たライラとバートレットは、帰路につくにあたって、少し迂回することにした。
 といっても、何か用事があるわけでもなく、ただ街を見て歩こうという程度の話である。数日とはいえ屋敷に篭りどおしだった二人には、それでも充分だった。

 ディアナの宿は、街の中心部に近いながらも閑静な場所にあった。
 ヴェスキアの中央部を形成する旧市街から、運河ひとつ挟んだ先の比較的新しい地区だ。通りは街路樹や庭木で緑があふれ、道路も綺麗に掃除されている。野良犬や物乞いの姿もなかった。

 そこから橋を渡って旧市街に戻ると、今度はどこもかしこも隙間なく煉瓦で覆われた風景が広がる。ヤースツストランドは木材が豊富な国だが、大昔に街を襲った大火災の教訓から、外側を煉瓦で覆う様式になって今に至るそうだ。
 徒歩の範囲でがらりと変わる街の雰囲気は、他所(よそ)からの来訪者の目には興味深く映った。

「この辺もだいぶ変わった」
 バートレットの呟きに、ライラは顔をあげた。彼は苦笑混じりに続ける。
「俺が初めて来たときは、酷いもんだった。もっと薄汚れていて、こんな風にお前と散策なんてする気にもなれなかったろうよ」
「そうなのか。私はこの街に来るのは今回が初めてなんだ。綺麗な街だし、汚れている姿は想像できないな」

 ライラは周辺にさっと視線を流す。
 街路も煉瓦が敷き詰められていて、ごみや泥濘はない。路に溜まりがちな馬糞も、定期的に除去されているようだった。そのせいか、こういった街の中にありがちな悪臭も特に感じられない。

 これは各地を渡り歩いてきたライラからすると、とても珍しいことだった。大体の都市では、人々は窓から生ごみや汚物を投げ捨てるものだからだ。

商業組合(ギルド)が力を持ってから、街が整備されるようになったらしい。規律を守れない奴は組合にいられなくなるとか」
 そんな他愛もない話をするバートレットは、どことなくゆったりとしていた。

 彼も清潔な街を好ましく思っているのだろう。それ以上に、シュライバー邸ではロイを警戒して気を張り詰めどおしだったので、今は肩の力が抜けているのかもしれない。
「この街では、商業組合(ギルド)に加入していないと商売が許されないそうだ。加入するにも技能の審査があって、それで職人の質を一定以上に保っているんだろう。そこに合格したとなると一人前として箔がつくし、一度入ったら追い出されたくもない。よくできた制度だよ」

 バートレットによると、組合員には加入費が課され、規律を守る義務もありと、負担も軽くはないらしい。
 しかし加入が叶い、ヴェスキアで商売ができるとなれば利益は大きい。社会的地位も向上するが、その価値を落とさないため、そこに居続けるための義務だとすると、組合員達も軽視はしないというわけだ。

 もちろん治安や衛生における条例が、街にないわけではない。むしろどの街にもあるが、ちょっとしたことであれば犯人を探し出して追求することもないし、見つかっても少しの罰金で済む。
 住民達は日々の生活に追われているのを理由に、細かな規則を嫌う傾向があった。自治体側は人々にどうやったら規則を守らせられるか、常日頃から頭を悩ませてきたのだ。

「他の街も、ヴェスキアほど豊かになれば綺麗になるんだろうか」
 ライラがぽつりと呟くと、バートレットは軽く肩を竦めた。
「多少は改善するかもな。ただ、この街ですら限界は見えている。街が経済で潤いだすと、金と仕事に惹かれて労働者があちこちから集まってくるからな。こいつらは商業組合(ギルド)に入ることはないから、規律を守るという意識が低い。こういうのが増えると、結局街は荒れる」

 そう言って、バートレットはすれ違う外国風の労働者達をちらりと見た。
 二人が今歩いているのは、旧市街の酒場の多い地区だった。街路は狭く、馬車が通るほどの幅はない。とはいえ、この辺りはまだ治安の良いほうだった。

 ディアナが滞在する宿よりは安いというだけで、真面目に働いて故郷に仕送りをするような者が利用する場所だ。昼間から酒を浴びるように飲んで騒いで、殴り合いの喧嘩をし、目についたものを気まぐれに叩き壊し……なんて光景は見当たらない。少なくとも、表から見える部分はそうだ。

 通りに時折見られる、細く目立たない路地を入っていった先はまた別だった。
 奥まった場所にある昔ながらの宿は、酒と麻薬と女の売買が盛んなところでもあった。運河沿いに並ぶ船乗り向けの安宿も同様で、魂売り(セール・ヴェルコーパー)の多い地域である。

 もちろんバートレットは、そんな場所にライラを連れていくつもりは毛頭なかった。
 今のライラは、ベインズ夫人の偽装を続けている。くるぶし丈の外出着で中に入れた腰枠(フープ)も小さめだが、普段の彼女と比べれば何倍も淑やかな姿である。背筋を伸ばした歩き方はいつもどおりだが、今は凛とした淑女にしか見えない。
 不思議なもので、それだけで彼女に対して妙に保護意欲を掻き立てられるのだった。

「この先に広場があって、昼間は舶来品を扱う露店が並ぶんだ。少し覗いていかないか?」
 バートレットは、さり気なく彼女の手を取った。通りを行く男達の目が、彼女に引き寄せられているような気がしたのだ。
「へぇ、楽しそうだな」
 そんな彼の思惑など露知らず、ライラは微笑む。
「この時間だ。広場に寄って帰れば、ちょうど夕方に……

 そこまで言って、ライラは不自然に言葉を切った。何かに気づいたように振り向く。
 彼女の傍らにいるようになって、こういったことに慣れてきたバートレットも、驚きはしない。
「どうかしたのか?」
 小声で尋ねてくるのに、ライラは小さく頷いた。
「悲鳴だ。声がまだ若い」
「悲鳴?」

 バートレットは足を止めて耳を澄ますが、通りを行く人々のさざめきがあるだけで判別できない。しかしライラのほうは、僅かに目を細めた。
「煉瓦だから響くんだな。意外と距離があるのかも」
 言うが早いか、彼女は来た路を足早に戻り始める。バートレットは疑問も挟まず彼女について行く。

「どんな感じだ? ただの喧嘩ではなくて?」
「わからない」
 ライラは躊躇うことなく細い脇道に入っていった。どんどん足を早める。
 バートレットもそれ以上は口を出さない。
 やがて、彼の耳にもかすかに聞こえてきた。少女の泣き叫ぶ声が。

……⁉」
「もう少し先だな。間に合えばいいけど」
 独り言のように呟きながら、ライラは服の裾をぐいっと雑に掴み上げると、とうとう走りだした。
 こういうことを想定していたわけではないが、ライラは靴だけはいつもの革靴を履いていた。

 薄暗い角を曲がれば、煙草の煙のような薄靄が漂う怪しい小径(こみち)が出現する。草を燃やしたような、それでいてどこか甘さも感じる怪しげな臭いが立ち込めていた。
 お世辞にも身なりの良くはない男が何人か、壁に寄りかかったりへたり込んだりしていた。暗い中でも、その目が奇妙なほど虚ろに見える。
 誰かが泣き叫んでいても、彼らの耳には届いていないようだ。あるいはこれが、この界隈の日常なのか。

 男達を避けながら、二人は奥へと進んだ。声がかなり鮮明に聞こえる。
『やだ、離して! この嘘つき野郎!』
 地元の言葉で少女が泣き叫んでいる。それと同時に、何かが倒されたような大きな物音。
『キャンキャンうるせえよ。すぐ済むから暴れんな、雌ガキ!』
『痛い! やめてったら、痛いーっ! 離してぇ!』

 男の声が聞こえたあたりで、ライラの顔から表情が消えた。
 物音が立て続けに響き、その都度少女の声が止まる。殴り飛ばされているのだ。
 バートレットも呼吸を浅くし、身構えた。

 男が女を折檻(せっかん)するのはよくあることだが、これはさすがに度を越していた。放っておけば彼女は殺されてしまうだろう。
 場所を特定して乗り込もうと二人が探すまでもなく、目の前の扉が勢いよく開いた。
「助けて、誰か!」
 半裸の少女が路地に転がり出てきた。酷く殴られたのか、顔は血だらけだ。
 そしてその言葉は、公用語だった。

 ライラが差し出してきた右手に、バートレットは帯刀していた剣を渡す。
 ライラは鞘から愛剣を抜き放つと、少女を追って出てきた男の目前に切っ先を突きつけた。
「そこまでだ」
……っ」
 思いも寄らない第三者の介入に、男は怯んで一瞬動きを止めた。
「なんだ、お前ら!」

 少女のほうは、バートレットが脱いだ外套を羽織らせて背に庇っている。が、彼女も突然のできごとに唖然としていた。
 ライラは向けた切っ先はそのままに、男をまっすぐ見つめて淡々と答えた。

「誰だっていいだろう。下がれ、もうこの子に構うな。さもなくば、このままお前を捕らえて牢に叩き込む」
 男は、自分と対峙している相手が身なりの整った年頃の娘だと見て取ると、せせら笑おうとした。
「冗談だろ、お前みたいなお嬢ちゃんに何ができるって……
「では試してみるか? 私は構わないが」
 ライラが動じるどころか切っ先をぐっと近づけたことで、男は顔面蒼白になった。

「ま、待て、(ねえ)さん! 誤解だよ、頼むからその物騒なもんをしまってくれ! そいつとは知り合いなんだ。ガキだから、駄々こねて泣き喚いてるだけだよ。元々つまんねぇ嘘ばっかつく悪ガキなんだ!」
 へらへらと男が言うと、バートレットの後ろから少女が猛然と反論した。
「嘘だ! どっちが嘘つきだよ、本当はジャックなんか知らないくせに! あたしのこと騙して……!」
「ジャック……?」
 バートレットが思わず訊き返す。が、ジャックなんて名前はあり触れていて、彼が思い浮かべた相手とは限らなかった。

 ライラもそれについては同様に考えていて、ひとまず目の前の小悪党の件を片付けることにした。
「だからといって、ここまで酷く殴りつける必要がどこに?」
「そいつは、娼婦が仕事の片手間で育てたガキだ。(しつけ)がなってないなんてものじゃない。その親もくたばっちまってな。だから代わりに、世の中を教えてやる大人が必要なんだよ」
 男は薄ら笑いを浮かべて適当に答える。が、またしても少女がその言葉に噛み付いた。
「あんた、今度はあたしの母ちゃんまで馬鹿にする気!?」

 口論が始まりそうになったところへ、「とにかく」とライラは声を割り込ませる。

「ここでこのまま騒いでいれば、私がやらなくてもどうせ誰かから通報される。役所の脇の牢屋でしばらく頭を冷やしたいなら、それでもいいさ。身寄りのない子どもの面倒を見ようという立派な御仁だ、きっと人望もおありだろうよ。身元引受人もすぐ駆けつけてくれる」
「ち……っ」
 男は悔しげに舌打ちした。

 目の前の女は中流階級程度の淑女に見えるが、男が慣れ親しんだ界隈について妙に詳しいようだった。剣の構え方も堂に入っている。
 ここは本格的な面倒事になる前にと、彼は退くほうを選択した。

「わかったよ。そんな小便臭いガキに大して用はねえ。こっちにしてみれば、単なるお遊びさ。とっとと連れてけ」
「ご理解感謝する」
 そこでようやくライラは剣を鞘に収めた。

 緊張状態から抜け出した男は安堵から深く息を吐いたが、そのこと自体に腹が立ったようで、忌々しげに悪態をついた。
「くそったれが。面白くねえ」
「ああ、そうだ」
 薄く笑みを浮かべて、ライラが男に言う。

「元から知り合いという話だったが、後々逆恨みをしようなんて思わないことだ。そうなったら、私はお前をどこまでも追いかけて狩ってやる。いくらここが掃き溜めだったとしても、(クズ)は少ないに越したことはない」
……っ」
 その剣呑な微笑に男は息を呑む。
 そして、怯えたように小走りで通りを去っていった。時折、道端に座り込む連中に躓いて怒号を浴びながら。

 その様子を見送ってから、バートレットがライラに視線を移した。
「あんなのを見逃してやるなんて。お尋ね者でなくとも、有罪が明らかであれば捕縛できるんじゃなかったか?」
「あの程度をいちいち捕まえてたら、街の人口が変わってしまうよ。牢獄だって部屋数に限度がある。ま、懲りないようであれば次は遠慮しないけどね」
 肩を竦め、それからライラは、バートレットの後ろに佇む少女を痛ましげに見た。

「それにしても、随分こっぴどくやられたものだ。夜になったら腫れて痛むだろう。どこかで手当しないと」
「どこかってどこだ。身寄りがないなら、教会か孤児院あたりか……?」
 バートレットの呟きに少女は怯えたような顔になり、彼に縋った。
「嫌、嫌だ。あそこの連中なんて、あたしがもっと酷い目にあっても笑って見てるだけなんだから! あたし可哀想な子じゃないもん、娼婦の子だから……だから……っ」

 再びぽろぽろと涙を零しだした少女に、バートレットとライラは困ったように顔を見合わせた。

 少女は悪漢に対しては果敢に反論していたが、大人の男に力で痛めつけられて、怖くないわけがない。ここで緊張の糸が切れたのかもしれなかった。
 浮浪児にしては身だしなみにも気をつけていただろうことは、無惨に破かれた彼女の服装からもわかる。髪だって乱れているが、元々は……
 この子には、そんなことに気をかけてくれる親は、もういないのに。

……とりあえず、戻りがてら考えよう」
 ライラが溜め息混じりに言うと、バートレットも異論がなかったらしく、少女の肩に手を添えて歩くよう促した。
 三人は路地をそのまま通って別の通りに出た。散策のために迂回していたので、そのほうがシュライバー邸に近かったからだ。

 少女はすっかり意気消沈していて、下を向いたままだ。
 ライラが手巾(ハンカチーフ)を貸したところ、ずっとそれを顔に当てて啜り泣いている。仕方なく、バートレットが少女の背中を手で支えるようにして歩かせていた。
 そうやってしばらく歩いていると、行手に見知った人物が現れた。

「あれ? ライラさん……と、なんでお前!? え、なんで? なんで一緒なんですか!?」
 リックが、ライラ達二人が連れている少女を見て、驚きの声をあげた。彼の傍にはギルバートもいて、こちらも不可解そうな表情で少女を見ている。
 彼らはシュライバー邸を訪れたものの、ライラ達がディアナのところに向かったと聞いて追いかけてきたのだった。

 ギルバートは大股で近づいてくると、尋常でない様子の少女を一瞥してからライラ達に尋ねた。
「何があった?」
「ディアナのところに寄った帰り道で、悲鳴が聞こえてね。顔見知りの男に連れ込まれそうになったらしい」
 ライラが淡々と答える。それを聞いて、リックは表情を歪めた。

「じゃあ、あの後すぐってことか? だから俺、一人でうろつくなって……
……っ」
 少女が怯えたように身を縮こませたのに気づいて、バートレットは静かに諌めた。
「リック、責めてやるな。この子はもう充分つらい思いをしてる」
「はい……
 リックは大人しく引き下がった。
 彼も責め立てたいわけではないのだ。気にかけていた少女のこんな痛ましい姿を見て、動揺しただけだ。

 ライラは、ギルバートに視線を戻した。
「この子と知り合いなのか?」
「俺個人じゃない。積荷の大騒動の最中に、船倉(ホールド)にこいつが忍び込んでたんだ。葡萄酒とは別件だがね」
船倉(ホールド)に? またなんで」
「街を出たいんだとよ」
 ギルバートは(おど)けたように肩を竦める。

 それを受けて、ライラは少女を見た。少女は俯いたまま何も言わない。
 ライラは再び顔をあげた。
「ルースはなんて?」
「その場で却下。でも当のこいつがしつこくてな。まったく、厄介事ばかり持ってきやがる」
 ギルバートは溜め息を吐くが、言葉ほど憎々しく思っているわけではなさそうだった。
 ライラとバートレットは事情を知らなかったが、何となくギルバートの気持ちを察した。

「とにかく、こまかいことは一旦置いて、この子の手当をしてあげたいんだ」
 ライラはギルバートをまっすぐ見つめて訴えた。
 ギルバートは改めて少女の無惨な顔を見、眉間に皺を寄せて目を伏せた。見ていられない、とでもいうように。
 しかし、彼はライラの案を否定しなかった。

……ジェイクを呼ぶか? 場所はどうする?」
「着るものも必要だろう。エルセさんの協力を仰ごうと思う」
 ギルバートはすぐには応えなかった。
 少し躊躇った様子で、それでも最終的には苦々しい声で「いいんじゃねえの」と言った。