Brionglóid
海賊と偽りの姫
記憶の楔
20
部屋に戻ってきてから、バートレットはジェイクと何を話したのかを説明してくれた。
それによると、ジェイクは夫人から、下船してシュライバー家専属の医師にならないかと誘われているらしい。
しかしライラも、シュライバー夫人の態度から何となく予想はついていたので、今更驚くということもなかった。
「随分気に入られたなあ。ジェイクと夫人は、まだ数回しか会ってないだろうに」
卓に行儀悪く頬杖をついたライラがそう感想を漏らすと、向かい側に座ったバートレットは軽く肩を竦めて補足した。
「彼は職業の割に偉ぶることもないし、人当たりがいい。それ以前に、あの人はもともと女にモテる」
「なるほど」
ジェイクは優れた医師というだけでなく、男振りが良いのはライラも認めるところだった。加えて彼は博識で、年の離れたライラとでも話を合わせることができる。同年代のシュライバー夫人にとっては、尚のこと魅力的な相手だろう。
不愉快そうに目を細めて、バートレットは言った。
「あの夫人はとんだ食わせものだ。淑女のふりをしてるが、中身はまったく違う。旦那が留守がちなのをいいことに、子どもや使用人の目のある中であんな振る舞いをして……」
「子どもって言ったって、ふたりともほとんど大人だ」
ライラは苦笑いを浮かべる。
「それにきっと、シュライバー氏が留守がちだから、じゃないかな。よくある話だ、心細くて頼る相手が欲しいんだよ。女性一人で守るにはこの家は大きすぎる」
「そうだとしても、手当り次第じゃないか。それだけの熱意と行動力があれば家だって守れるだろ」
ふん、と鼻を鳴らしたバートレットを、ライラは意外そうな目つきで見やる。
「珍しいね、バートレット。普段のあなたは女性に優しい人なのに」
「女だったらなんでもいいわけじゃない」
突き放すように言ってから、バートレットは急に押し黙った。
それから彼はライラから目を逸らし、苦い表情で呟くように言った。
「お前には言わないでおこうと思っていたが……ここまで来たら謝らなくては。俺も最初、声をかけられたんだ」
「え……、そうだったの?」
思わず声を上げたライラに、バートレットは重苦しい頷きを返す。
「意図が読めなくてその場で断った。今思うと、あの女がお前にやたらと絡んでくるのは、そのせいもあるのかもしれない。お前に影響が及ぶところまで読めなかった、俺の失態だ。ジェイクのように、適当に受け流しておくべきだったんだ」
その言い分に慌てたライラは、頬杖を外して口を開いた。
「ち、ちょっと待った。考えすぎじゃないか? 妻帯者が他の異性の誘いを断るのは別におかしい話じゃない。夫人だって、そのくらいのことはわかってるはずだ」
しかしバートレットは首を横に振る。
「俺個人に、特に思い入れがあったわけじゃないんだろうよ。だが、コルスタッドもお前を意識しているし、ジェイクも主治医として夫人よりお前を優先している。彼女が声をかけた男が、全員お前の周辺に集まってるんだ。面白くはないだろうさ」
バートレットの言い分を真に受けたわけではなかったが、ライラにも納得できる部分はあった。
だから、彼女も複雑な表情で嘆息した。
「全員私の関係者なんだから当たり前だ……と、正論を言ったところで仕方ないか。そうか、その視点で見れば、確かに私の存在は目障りだろうね」
「……。お前はこの手の話について、驚くほど無頓着だな?」
バートレットが少し咎めるような口調で言う。それで彼に迷惑がかかっているのを自覚していたライラは、反発せずに答えた。
「苦手分野なのは認めるよ。恋や愛なんて、無縁の人生だと思ってたから。誰にどう思われているかとか、ずっと考えないようにしてきたんだ」
「それは……今も?」
バートレットの問いかけは、少しだけ掠れていた。その意味を理解しないまま、ライラは弱い笑みを返す。
「そうだね。変な話なんだけど、自分を追い込むと同時に保身の意味もあったんだ、思えばね。人と向き合うことから逃げていた。あなたのように、相手の細々した部分にまで気づける人は尊敬する」
率直にそう打ち明けてから、彼女は気を取り直して言った。
「ねえ、午後から一緒に外に出ないか?」
「え?」
突然の提案にバートレットが声を硬くすると、ライラはすかさず続けた。
「ここ数日考えてはいたんだ、そろそろ潮時じゃないかって」
「潮時……屋敷を出る、ということか?」
ライラは頷いた。
「急には無理だけど、近いうちには。だいたい、ここにこんなに長居するなんて、当初誰も考えていなかった。コルスタッドもあのとおり焦れてきている。夫人だって、気に食わない相手が自分の家にずっと居座っているんだから、落ち着いてなんかいられないよ。不毛な対立は私だって不本意だ」
「だが、ジャック・スミスの件はどうするんだ?」
彼が否定ではなく検討を選択したことに内心安堵しながら、ライラは言った。
「ジャックが危険だというのは、私がルースの弱点になるからなんだろう? あなたが横にいる状態なら、すぐ私とルースを関連づけて考える人はいないんじゃないかな」
「それはそうだが……」
バートレットはまだ、迷いの残る様子だった。
無理もないことだ。彼にとって上からの命令は絶対だし、ライラの安全についても身を粉にしてきた。
ただしライラからすれば、この屋敷でじっとしていることが、すべてを解決する方法にはもう思えなくなっていた。変化を起こすときがもうそこまで来ている、と。
彼女はやや身を乗り出し、バートレットを見つめた。
「アラベラを名乗ってはいても、どこで勘付かれるかわからない。出歩くにしても、最小限に抑えたほうがいいのは理解してるよ。……もちろん、あなたはルースの意向に従わなくてはいけないから、無理にとは言わないけど」
バートレットは小さく頷いた。
「そのとおりだ。俺は、頭領の命令に背くわけにはいかない」
はっきりとそう言ってから、彼は微かに視線を下げてやや考え込んだようだった。
ライラと関わるようになって、彼にはこういったことが増えていた。
以前はルシアスの決定に自分の考えを挟むなど、一切なかったのだ。考えたとしても、いかにその命令を効率よくこなすかということくらいで。
しばらくして、バートレットは目線を正面の彼女に戻した。
「どうしてもというなら、ディアナのところはどうだ? ここから近いし危険も少ないだろう。俺達はまだ彼女のところに籍を置いたままのはずだ、行く理由として不自然でもない」
ライラが驚いて彼を見つめると、バートレットは苦笑交じりに嘆息した。
「俺も、お前が不当な扱いを受けるのは見ていて良い気がしない。当然船に報告もするが、頭領だって、お前のこの状況を静観はしないと思う」
「ありがとう、バートレット!」
妹分の我が儘を受け入れてくれた彼に、ライラは満面の笑みを向けた。
「やはり、商館で関わっている者はいないようです」
船長室でスタンレイからその報告を受けたルシアスは、軽く嘆息した。
例の、食料庫から消えた葡萄酒の行方についての話である。
彼らは自分達の持っている流通の人脈はもちろん、シュライバーの伝手も使って隈なく当たったが、怪しい人間は出てこなかった。
それもそのはずで、あんな半端な量の葡萄酒の不正取引をするより、こちらと懇意にして通常の取引をしたほうが断然得なのだ。そして、この街では顔役のシュライバーを敵に回すなんて、馬鹿なことを考える商人もいないだろう。
そこまでのことは最初からわかっていたし、このまま丁寧に詰めていけばそのうち真相に手が届くこともわかっていた。
「手間をかけさせてくれるものだ」
ルシアスは忌々しげにそう呟いた。
すると、同じくスタンレイの報告を聞いていたギルバートが言った。
「予想はしてたろうよ。諦めて地道に行くしかないな」
「……。そこまで時間をかけていられない」
ルシアスの返答に、ギルバートは嘆息する。
「あのなあ。俺達にとって、この件を不問にするというのはあり得ない話だろ」
「商館との繋がりが強くない店は、もう絞り込んであります」
と、ギルバートの言葉にスタンレイが付け加える。
「一件でも当たりがあれば、関与した人間も明らかになるでしょう。並行して船内の調査も続行しますが、いずれにせよ迅速に進めます」
「……」
ルシアスは硬い表情のまま、感情を抑え込むかのように目を閉じた。
彼はライラの状態について、日々シュライバー邸に赴いているジェイクから報告を受けていた。
彼女は、単純な記憶喪失ではなさそうだという。
ロイ・コルスタッドと接触するたびに強い動揺があり、失っている記憶も彼に関することだ、とは本人からも聞いていた。
ジェイクが指摘したとおり、彼女と似た症状を示す人間はルシアスにも覚えがあった。
それは主に、船上で厳しい処罰が行われた場合や、激しい戦闘があったあとに発生した。
特に海上での戦闘というのは、砲撃戦が中心である。
飛んできた砲弾が掠めただけでも、人の形を留めていられない。千切れた手足や内臓が辺りに散らばり、砕けた骨片が爆風を受けて壁一面に突き刺さる。
その光景を目にしたとき、意識を即座に切り替えて自衛できればいいが、それに失敗すると人の心は許容量を超えて狂う。
男らしく気を強く持てとか、そういう次元の話ではないのだ。むしろ、そこで完全に発狂できたなら幸運と言うべきだろう。
大体は中途半端に理性が残ってしまって、苦しみとともに残りの人生を生きることになる。平穏な日常の中ですら少しのきっかけで暴走する、壊れた心を抱えて。
そうなるともう、乗組員としての仕事はできない。
ジェイクから話を聞くに、ライラの症状はそれに近かった。
彼女の場合は記憶の喪失がいい方向に働き、「きっかけ」を感知しづらいことで暴走を抑えられているらしい。つまり、記憶がないことで、ライラの心は何とか守られているわけだ。
急激な症状悪化も見られないとのことだったが、それでもジェイクには、早くライラを連れ戻すよう言われている。ロイから一刻も早く引き離せ、と。
ルシアスは瞼をあげ、スタンレイとギルバートを順に見た。
「わかった。店を廻るなら人手が必要だ、俺も行く」
ルシアスの言葉に、スタンレイが苦い表情になる。
「確かにライラの言うとおり、あなたとの繋がりさえバレなければ、彼女が危険に合うことは避けられますがね。あなた自身が危険であることに変わりはないんですよ、頭領」
「そんなもの、いつものことだ」
「聞き分けのないこと言わないでくださいって」
スタンレイはわざとらしい溜め息をついた。
「彼女だって、あなたに危険が及べば駆けつけるつもりなんです。でもそれは最悪の事態だとわかってもいるから、あなたに動くなと言ってきてるんですよ。ライラのほうがよほど冷静じゃないですか」
「これが冷静でいられるか。この話が始まってもう六日も経ってる!」
苛立ちもあらわにルシアスは吐き捨てる。
もう六日とはいうものの、日中商売のために各自忙しくしている商人達の証言を集めて回答を出すのなら、このくらいは妥当だ。いや、むしろ早いほうかもしれない。
問題はライラだった。
この日バートレットから、シュライバー邸の現状について報告が届いていた。屋敷に長居したことでの弊害が出てきているという。
シュライバー邸からそろそろ場所を移すべきという意見は、彼らにも異論がない。ただ、船側の受け入れ態勢がまだ整っていないのだ。
困り果てたスタンレイの横から、ギルバートが言った。
「しかしスタンレイ、ジャックが鳴りを潜めてもう何日になる? 奴はルースを狙うというよりは路銀目当てだった、本人もそう言ってた。ならこの数日に、何か動きがあってもいいはずだろ」
「金策の目処がたったと?」
眉をあげて訊くスタンレイに、ギルバートは頷きを返す。
「そもそもあの男はファン・ブラウワーに雇われてたんだろ? ひと冬過ごせるくらいの、充分な報酬を支払われた可能性だってある」
「随分楽観的な視点だ」
「考えてもみろよ。こっちだってあの男を探してるってのに、手がかりひとつない。金に困ってる奴がそこまでじっとしてるか?」
ギルバートの言い分に、スタンレイは意見を伺うようにルシアスを見る。
ルシアスもギルバートに同調した。
「金が手に入って暴れる必要がなくなったか、既にこの街を出たか。その辺だろうな」
「では、危険は去ったと判断する、ということですか?」
スタンレイが確認すると、しかしルシアスは軽く首を振った。
「もちろん確定じゃない。もし俺を狙う理由が他にもあるなら、俺が表に出た瞬間に奴も顔を出す可能性もある。だが今は、そんな低い可能性に構っていられない」
スタンレイは深い溜め息をついた。
彼も、ルシアスの焦りがわからないわけではなかった。
スタンレイにも郷里に残した妻子がいる。愛する者の苦境を知りながら傍に行けない時間とは、拷問にも等しいものなのだと知っていた。
それでも船乗りという仕事を捨てなかったのは、彼が自分で考え抜いた上での選択だし、物理的に手の届く位置にも居ないのである程度諦めもつく。
しかし、ルシアスとライラはそうではないし、何よりふたりはまだ恋を始めたばかりだ。割り切れる段階にないのは明らかである。
目的のために私情を挟むな、と言うことは簡単だが。
「仕方ありませんな。今は葡萄酒問題を解決するのを最優先にしましょう。ですが念のため、ライラとの接触は出港まで避けることです」
「わかってる」
ルシアスは小さく頷く。スタンレイは気を取り直すように、片手を頭髪に突っ込んでがりがりと荒く掻いた。
「この際逆手に取りますよ。あなたが直接動くことで、この件に関わった連中に揺さぶりをかけます。それで自分らが一体何をやらかしたか、軽い頭でも気づいてくれりゃいいんですがね」
「どうせ、深く考えずに魔が差したってとこだろうがな」
スタンレイの言葉を受け、ギルバートも若干苦い表情で言う。
食料庫の葡萄酒を盗難することは明らかな犯罪であり、許されることではない。しかし、単純な罪の面だけが問題なわけでもなかった。
航海というのは、乗組員の協力なくして成功はあり得ない。
だが平の水夫であるほど、給料以上の働きをしたくないものである。嵐が来れば船と積荷をあっさり捨て、我先にと小型艇に飛び乗って脱出しようとするだろう。
今回の葡萄酒騒動も、流れとしてはおそらく一緒だ。自分個人の利益や目的を優先し、それによって発生した船や雇用主への損害などお構いなし、という心理が根本にある。
しかし、嵐で必ず船が沈むわけではない。航海中に起きた突発的な事象についても、とりあえずはその場で対応せねばならないことだって、いくらでもある。積荷を守って航海を成功させなければ、乗組員への賃金も支払えないのだ。
この意識の差を埋めるためにはどうしたらいいかというのは、どの船にも共通した課題だった。
海賊船に限らず最近の船で過度な体罰が常態となっているのも、ただの憂さ晴らしだけではない。見せしめを行うことによって、乗組員の手綱を握ろうとしているわけだ。
しかし過度な締め付けは反発を呼び、そこへさらなる処罰が必要になり、悪循環が生まれる。
ルシアスをはじめとした『天空の蒼』の高級船員達は、それを避けるために日々苦心しているのだった。自分達の大事な居場所を地獄にしないために。
「ちょいと、甘い顔しすぎたのかもな、俺達も。最近は特に、こういったつまんねえ厄介事が増えてきた」
ギルバートが、不機嫌そうに目を細めて呟いた。
「水夫ども、ここじゃ自分がどんな我が儘も許されるお姫様だと勘違いしてやがる。他の船でこんなことしてみろ。行儀の悪い手は拳銃でぶち抜かれるか、斧で切り落とされちまう。忘れちまったのかねぇ……」
ルシアスは何も言わなかったが、反論する気配もない。
スタンレイも短く嘆息し、それから気を取り直したように表情を入れ替えた。
「とにかく、船内で関わった者の洗い出しを急ぎましょう。処分の方法については、そのときにまた」
「それでいいだろう」
応えるルシアスの横で、ギルバートが再度口を開いた。
「俺は事を始める前にシュライバー邸に行ってくる。しばらく顔を出してないからな、ライラ達にもこの話を伝えてこよう」
「だったらリックも連れて行ってくれ。一応連絡役の要だ、あいつにも話を通していたほうがいい」
そう告げたスタンレイに「わかった」と頷いてから、ギルバートはルシアスを見た。
「ライラに何か伝言はあるかい?」
ルシアスは軽く動揺したようだった。珍しい、と思いながらギルバートが待っていると、彼は少し悩んだ様子を見せてから言った。
「……無茶をするな、とだけ」
「了解」
彼の恋人の人となりを思い浮かべ、ルシアスがどんな思いでこの言葉をひねり出したのかを想像してしまって、ギルバートは苦笑の交じる声で短く答えた。