Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

記憶の楔

18

 シュライバー邸には来客用の食事室があって、大きな窓から自慢の中庭が見渡せるようになっていた。
 残念ながら今朝は空も雲で覆われ、窓硝子は湿気で曇って外の様子もよく見えない。先ほど、掃除婦が雑巾で大雑把に結露を拭っていったが、あっという間に元通りだ。

 ただでさえ屋内に籠もりきりのライラは、朝から気が沈むのを感じていた。せめて天気くらいは晴れていてほしかった。

 北方の海沿いにあるこの国は、北風が吹き始めると一気に気温が下がる。そして、年間を通して湿度が高い。秋は特に降雨量が増え、霧の出る日も多くなるということだった。
 客人が寒い思いをしないようにと、小さな食事室には行火(あんか) が設置されていたのだが、湿った空気が温められて肌に纏わりつくようだった。

「毎食贅沢をさせてもらえるのは良いが、この湿気は勘弁してほしいな」
 ライラの向かいの席についたバートレットが、焼き立ての白い麵麭(パン)をちぎりながらそう呟いた。

 食卓には他にも、根野菜と乾酪(チーズ)の天火焼き、半熟卵を乗せた法蓮草、牛肉と玉葱の汁物なんかが並んでいる。航海中の船で一般水夫がありつける献立ではないどころか、庶民の朝食でこんな品数が出されることもない。ふわふわで柔らかい真っ白な麵麭(パン) なんて、買うこともないだろう。

「まるで真夏の船室だ。せっかく陸にいるのに、海を忘れるなと朝から釘を刺されている気になる」
 やや元気のないライラに、彼はそう言って軽く笑ってみせた。
 籠に追加の麵麭(パン)を盛ってきた給仕の若い娘が、その様子を目にして「あら」と声を出す。

「よその人はこの街のこの気候に滅入ってしまうようですけど、船乗りさんでもそうなんですね」
「自分は大丈夫です。ただ、妻の体調が気がかりで」
「まあ! ベインズさんは相変わらず奥様思いでいらっしゃいますね!」
 娘が感心すると、温めた葡萄酒(ワイン)を運んできた中年女も、明るく笑いながら同調してきた。
「ほんと、うちの旦那と大違い! ベインズさんの半分でいいから、あたしに優しくしてほしいものだわ」

 雇用主の客人とはいえ庶民の夫婦とあって、彼女達はいつも気さくに話しかけてきた。もちろん、主人の目の届かない場所でのことだが。
 特に中年女のほうは、稼ぎ口を探して夫婦揃って移住してきたそうで、公用語が得意だった。

 使用人の彼女達の間で、もともとバートレットは噂の的だったのだ。
 上背があって、金貨のような濃い金色の髪に、流氷のような冴えた瞳の若い男というだけでもかなり目立つ。一見人を寄せ付けなさそうなその彼が、甲斐甲斐しく妻の世話をする姿は、更に目を引く光景だった。
 女性に慎ましさを求めるこの国では、夫婦でも男女が別で食事をとることだって珍しくないのである。そこをバートレットは、妻の体調不良だとか異国人だからとかいう理由をつけて、無理やり夫婦の食事空間を確保したのだった。

 中年女は、大人しいままのライラに視線を移した。
「昨夜は眠れました? 申し訳ありませんね、ここは普段火を使わないから、朝はどうしてもジメジメしてしまって。お部屋は暖炉があるから、もう少しカラッとしてたと思いますけど。お食事も、お部屋に運んだほうがよかったでしょうか?」
「大丈夫です、御婦人」
 ライラは小さく笑みを返す。

「私がこちらでの食事を希望したのです。部屋に閉じ籠もってばかりというのも、気が滅入ってしまうものですから。和やかな朝食で、楽しませていただいています」
「そう仰っていただけるならよろしいのですが」
 女は慈愛に満ちた眼差しを彼女に向けた。
「なんでもお申し付けくださいね。アラベラさんが仲良くしてくださるお陰で、エルセお嬢様もこのところずっと、楽しそうにしてらっしゃるんです。それで、私達も嬉しくって。シュライバー様がお許しになる間は、どうぞゆっくり療養なさってください」

 中年の給仕女の態度は、接客としてというより、どことなく母性を感じさせるものだった。おそらく主家の娘エルセに対しても、単なる雇用関係だけではない思いを抱いているのかもしれない。

 しかしその対応を受けたライラのほうが、一瞬だけ顔を強張らせた。
「……。重ね重ね、ありがとうございます」
 さっと頭を下げたライラに、バートレットは生真面目な表情で言う。
「アラベラ。やはり顔色が良くないようだ。食事が終わったらもう一度横になるといい」

「そうですね、それは疲れが残っているお顔ですよ」
 中年女のほうも、心配そうな溜め息をつく。
「あとでこの葡萄酒(ワイン)をお部屋にお持ちします。肉桂(シナモン)丁子(クローブ)に、蜂蜜も入れてあげましょうね。そうすればぐっすり眠れるはずですから」
「何もかも、お気遣い感謝いたします」
 律儀に礼を言って、食事を済ませると、ライラはバートレットと共に食事室を後にした。

「よく眠れていないのか?」
 廊下を歩きながら訊かれて、ライラは傍らのバートレットを見上げた。
 その顔を見て、彼は僅かに眉を顰める。
「目の下に隈が出てる」
「……夢見が悪くて」
 ライラは誤魔化すように作り笑いを浮かべた。

 夫婦ではあるが、彼らが滞在している部屋は別になっていた。ここでは食事だけでなく、寝室も男女別というのが一般的で、今の彼らの立場からするとその習慣は非常にありがたかった。当然ながらバートレットも、そこは妻のために同室になどとは言わず素直に受け入れている。

 ただ彼は、可能な限りの時間をライラの傍らにいることに費やしていた。ジェイクの訪問以降は特に、片時も離れずという言葉がぴったり当てはまる。

 働き盛りの男が昼間から妻の横に張り付いているのは異様でしかなかったが、彼にとってこれは頭領に命じられた仕事の一環だからか、本人は一向に気にする風でもない。
 そして、ライラのどんな変化も見落とさないよう、常に神経を尖らせているのだ。

 バートレットは、今出てきた食事室のほうをちらりと振り返ってから、呟くような小さい声で続ける。
「彼女がどうかしたのか?」
「え……?」
「さっきの、葡萄酒(ワイン)を注ぎに来た女のほうだ。お前の様子がおかしかったから気になった」

 ライラはその言葉に閉口した。それも気づかれていたとは。さすがはルシアスの部下である。
 彼女は嘆息し、気を取り直して答えた。
「あの女性に直接何かあるわけじゃないよ。昔、年齢や背格好が似た人が知人にいたんだけど、印象が重なって急に思い出したから、戸惑っただけだ」
「旅の道中ではなく、故郷の知り合いか」
 そう質問を重ねてから、バートレットはハッとし、途端にばつの悪そうな顔になった。

「すまない、あれこれ詮索するような真似をして」
「心配してくれてるんだろう? ちゃんとわかってるよ」
 苦笑を交じえて言いながらも、ライラはなんだか申し訳なくなる。
 バートレットはとても難しい立場に立たされているのだ。彼の負担を考えるなら、ライラのほうが協力的な態度をとらねばならないだろう。

 階段を上がっていると、階上から畳まれた綿布を抱えた使用人の娘がやってきた。その娘がふたりに会釈して、通り過ぎていくのをやり過ごしてから、ライラは再び口を開いた。

「ルースだけでなく、あなたにもきちんと話さないとな。巻き込んでしまっているんだから」
「無理するな、と言いたいところだが。お前がそういう気持ちになってくれたことは、正直嬉しいよ」
 バートレットは穏やかな笑みを浮かべた。
「もっとお前の力になってやりたい。ただ傍にいるだけじゃなくて、もっと、俺にもできることがあるんじゃないかと思ってる。それを増やしていきたいんだ」
「あなたは自分を過小評価してるよ」

 そう応えてから、ライラはふと妙な感覚に陥った。
 彼とこういう会話をするのが、まるで初めてではないような……。
 しかし、最近は自分の記憶の欠損について煩わされていて、瞬時にそのことに思い至ったライラはぞっとした。もし、消えているのが過去の記憶だけでなく、数週間前とか、数日前のものもそうなのだとしたら。

「バートレット、確認したいことが……」
 不安の表情で見上げた彼女に何か返す前に、彼は廊下の先へ振り向いた。
 ライラがその視線の先を目で追うと、彼女の部屋の前辺りに、騎士ロイの姿があった。向こうもふたりに気がついて、こちらに足早に歩いてくる。

「おはよう、リーシャ。会えて嬉しい」
「おはようございます、コルスタッド様」
 ライラが一礼すると、ロイが持っていた小ぶりの花束を差し出してくる。

 買ったのか摘んできたのかはわからない。どちらにせよ、朝方も冷え込むようになってきたこの頃、花も簡単に手には入らないだろう。それに今日は生憎の天気で、早朝には雨も降っていたのだ。
 たくさんの思いが詰まった花をぎこちなく受け取って、ライラは彼を見上げた。

「お気持ちだけで充分ですと、先日も申し上げたはずです」
「気持ちが伝わるだけで充分だとは、こちらは思っていない」
 気にもとめないロイにライラが嘆息すると、すかさずバートレットが彼女の肩を抱いて引き寄せた。

「朝から熱心なことですね、騎士殿。しかし今朝はこれで失礼させていただきたい。妻の体調が優れないのです。早く休ませてやりたいので」
「本当か、リーシャ? 大丈夫なのか?」
 バートレットの言葉に、ロイは顔色を変える。
「この国の寒さは厳しい。か弱い君の身体には負担がかかるだろう」

「仰るとおりだ」
 応えたのはバートレットである。
「そのか弱い彼女を、いつまでこんな寒い廊下に引き止めるおつもりか?」
「バートレット、そこまで喧嘩腰にならなくても……彼は騎士としての儀礼で気遣ってくれただけだよ。そうですよね、コルスタッド様?」
 バートレットの腕の中に収まった格好のライラは、彼を(たしな)めるようにその手に触れ、肩越しに振り向いてロイを見た。

 その物言いたげな眼差しに、ロイも気づいたようだ。
 廊下は午前中の仕事に従事する使用人達の姿がちらほらとあり、水差しや使い終わった敷布(シーツ)を手にして忙しそうに各部屋を行き来している。だが、もはやこの屋敷で名物となっている彼ら三人のやり取りに、仕事中といえど聞き耳を立てずにはいられないらしい。

 ロイは気まずそうに咳払いをし、改まって答えた。
「もちろんだ」
「では、私達はここで失礼します。お花をどうもありがとう」
 型どおりの礼を述べるライラを連れ、バートレットがその場を去ろうとする。
 そのことに焦ったロイが口早に言った。

「リーシャ。次はいつ君と話せる?」
「次、とは?」
 もう一度、ライラが振り向いた。思い詰めたような眼差しで、ロイは続けた。
「俺は、君の気持ちを尊重するつもりだ。お互いを知るために、もっと話をする必要があると以前言ったろう。なのに、ここ数日はその機会もない」
「お話なら何度もしましたし、これ以上何を話すというのですか? 私はもう彼の妻で、あなたと共には行けないと結論が出ているはずです」

 はっきりとそう告げ、それからライラはバートレットをちらりと見て促した。それを受け、バートレットもロイに向けて「では失礼」と目礼する。
 部屋に向かって歩きだすふたりの背中を、ロイは立ち尽くしたまま見送っていた。
 が、ライラが扉の取っ手に手をかけた辺りで、彼はまた口を開いた。

「イリーエシア」

 叫んだわけではないのに、鍛えられた体躯から発せられる武人の声は廊下によく響いた。
 ライラだけでなく、使用人の何人かも驚いて動きを止めたほどだ。
 視線だけを向ける彼女を、ロイは咎めるように言った。
「君だけ幸せになるつもりか? 何もなかったように」
「……っ」
 ライラは目を見開いた。

 彼女の動揺に気づいたバートレットが、小さく舌打ちをして手荒に扉を開ける。
 充分に扉が開かないうちに、その隙間に押し込むようにしてライラを中に入れ、自身も室内に滑り込むと扉を閉めて後ろ手に鍵をかけた。

「あの闘牛野郎! 自分のことしか見えちゃいない!」
 外に聞こえない程度の声で悪態をつき、それからバートレットはライラに意識を戻した。僅かに青褪めた彼女を支え、寝台に座らせる。

「ライラ」
「大丈夫。多分……」
 心配そうに声をかけるバートレットに短く応えたあと、ライラは身体の力を抜くように大きく息をついた。それから彼女は、彼に弱く笑ってみせる。

「これでも少し、彼に慣れてきてるんだ。前みたいに意識を手放すほどじゃない」
「それでも、今朝はそもそも調子が悪そうだった」
 ライラの前に膝をつき、バートレットは怒っているような口調で言った。
「そんなときまで奴に構わなくていい」

「演技をするうちにあなたまで勘違いし始めたんじゃないか、バートレット。私は別に、か弱いわけじゃないよ。あっちがそう思い込んでるだけだ。実際の私は、衝撃はあっても立ち直るもの早い。知ってるだろう?」
 ライラは呆れたような目で彼を見返した。

 しかしバートレットには、まだ不満が(くすぶ)っているようだった。
「奴のあの言い方を聞いただろう。負け惜しみにしたって、もっと他に言いようがある」
「言いよう?」
「あれでは、周囲にはお前が弄んで捨てたように聞こえる! 以前からお前と関わりがあると誇示したいんだろうが、女に責任転嫁してどうする」
「なるほど、言われてみればそう聞こえないこともないね」

 はは、とライラが笑ってみせても、バートレットはむっつりしたまま応えない。
 そんな彼に小さく嘆息し、ライラは気を取り直して言った。

「あーあ。なんだか朝から気疲れしたよ。あなたと最後に組み手をしたのはいつだったかな。まともに身体を動かしてないから、このところよく眠れないに決まってる」
「……。たしかに、随分昔のような気がするな。ひと月くらいしか経っていないはずだが」
 ようやくバートレットの態度が軟化したのに、ライラはホッとした。

「街のその辺に、手頃な悪党が転がっていればいいんだけど。もしそうなら、ちょっと抜け出して気晴らしに狩ってくるのに」
 ライラが言うと、バートレットは小さく吹き出した。
「物騒なことを言うんじゃない」
「私は元から物騒な人間なんだ。育ちが良くてか弱い女のフリも必要だからやっているけど、性に合わなすぎていつもムズムズする」

 その言葉にバートレットは目を丸くした。
「育ちがいいのは本当だろうに」
「才能がなかったんだろうね、あまり身につかなかった」
 肩を竦めるライラに、彼は困ったような目を向ける。
「頭領は、船の問題が片付くのにそう時間はかからないと言っていた。あれからもう一週間になるし、あと少しの辛抱だ。あいつに訊かなくてはならないことというのは、大体訊いたのか?」
「多分……」

 そう答えてから、ライラは口を(つぐ)んだ。そして打って変わって、真剣な目でバートレットを見つめた。
「さっき、確認したいことがあると言ったのを覚えてる?」
「そういえばそんなこと、言ってたな」
「あのときの会話、似たような内容の話を以前もしたような気がするんだけど、思い出せないんだ。もしかしたら、欠けている記憶の中にはコルスタッドに関するもの以外に、つい最近の何気ないものも含まれているんじゃないかって、それが心配になって」
「似たような内容の話……?」

 バートレットは復唱し、すぐに思い当たった。先日、ライラとふたりで酒を酌み交わしたときの話だ。
 ライラが覚えていないのも無理はない。彼女は頑なだった口が緩くなるまで酒を飲み、そのあと前後不覚に酔い潰れて眠ってしまったのだから。
 あの日の、胸を締め付けられて少し息苦しいような、それでいて心がふわふわ浮つき、いつまでも居座りたくなるような心地よさのある時間は、バートレットにとっては忘れられないものだった。

 バートレットは、胸の奥に走った鈍い痛みを慎重に押し隠して、静かな口調で言った。

「それなら大丈夫だ。その話をしたときは、単にお前が酔っ払ってただけだよ。お前じゃなくても、あの酔い方をしてたら覚えてなくても不思議じゃない」
「もしかして……この間の、穀物酒(イェネーファ)のときの話?」
 ライラは愕然として、両腕で頭を抱えた。気まずさが一気に溢れ出してきて、頬がかっと熱くなる。
「たしかに覚えてない……お酒のせいで何か変なことを口走ったんじゃないかって、ずっと気になってたんだ」

「変なことなんかなかったって、前も言ったろう。俺が協力を申し出て、お前が遠慮して決断できずにいただけ。……でも、そうだな。お前は、いつもそういう不安に晒されてるんだよな」
 後半は独り言のように言い、それからバートレットは顔をあげてライラを見た。

「なら、こういうのはどうだ? 俺が傍にいて、お前の目や耳になる。それなら、たとえお前が今後記憶をなくすことがあったとしても、心配ないだろう」
「え……?」

 さすがにライラも驚いてしまった。頭を抱えた腕もそのままに、ぽかんとする。
 しかし、目の前の彼は冗談を言っている様子でもない。

「いくらなんでも嘘だろ……?」
「嘘じゃないさ。今も割と近いことができてると思ってる。今よりもう少し、意識すればいいだけの話だ」

 バートレットは、返す言葉を見失ったライラの頭に手を伸ばすと、彼女の腕をどかした。少し乱れた髪型を直すように、そっと丁寧に撫でつける。
 それから彼は膝に置かれた彼女の手をとり、呆然としたままの彼女に微笑みかけた。

「よかった。早速、俺にもできることが見つかった」
「……」
 晴れ晴れとした様子の彼とは裏腹に、ライラは複雑な気持ちでその言葉を受け止めた。