Brionglóid
海賊と偽りの姫
記憶の楔
17
港街というのは早朝から活気づくものだ。
夜間に網を張った漁船が、明け方に漁獲を終えて港に戻ってくる。この辺りで有名なのは鰊や鱈だが、時期がまだ早い。秋を迎えようとしているヴェスキアの近海では鯖や鮴が多く獲れた。
日が昇る前から埠頭には人の姿が見えだし、朝がくれば一層活気が増す。船乗りや荷役の人夫、港湾関係の役人がそれぞれ仕事を始め、彼らを相手にする露店が岸壁にぞろりと連なる。
露店には、衣料品や小物を扱う店もあれば、今朝獲れたばかりの魚介類を並べる店もあった。
威勢のいい客引きの声があちこちで飛び交う中、少女は小走りに波止場へと向かっていた。
顔も手も洗った。髪だって梳かした。服はたくさん持っていなかったけど、一番いいやつを手洗いした。履き古して爪先がほつれてきていた靴は、自分で見様見真似で縫って何とか形を整えた。
今までで最も上等な姿を、彼に見てもらうのだ。
あの人はこの姿を見て何と言うだろう。それを想像するだけで、不思議なほど心が浮き立った。
『おう、誰かと思ったらニナじゃねえか。めかしこんでどうしたんだい?』
顔見知りの革細工店の店主に声をかけられ、ニナと呼ばれた少女はぎくりとして足を止める。
振り返ると、髭を蓄えた中年男は彼女の頭の天辺からつま先まで、興味深そうな目で眺めてきた。そこに侮蔑やからかいの色がないことに内心ホッとしながらも、彼女の口から出てきたのはいつもの生意気な一言だった。
『な、なんでもないよ! あたしだって、もう年頃なんだから。身嗜みくらい気にするんだよ!』
しかし、店主はそんな少女の心情もわかっている風で、にやにやと、それでいて悪意のない笑みを浮かべた。
『さては、好きな男でもできたか?』
『……! だったらなんだってのさ!』
ひっくり返りそうになった声で少女は言い返すが、それ以上突っ込まれてはさすがにまずいと思い、返事も待たずに足早に立ち去った。
真っ赤になった顔を誰かに見られないように、やや俯きがちに走る。走っているうちに、朝の潮風で頬のほてりが冷えてくれたらいいのに、と思った。
やがて波止場の近くまで来ると、網籠を抱えた数人の若い水夫の姿があった。
海水はまだ温度が高く、停泊している船から糸を垂らせば鯵が釣れる。日の出前の空き時間に釣った魚を、小遣い稼ぎで売りに来たのだ。
彼らの中にいたリックが、彼女に気づいて声を上げた。
「あーっ、お前! まだいたのかよ、しつこいなぁ!」
すると、他の水夫達も彼女に気づいて振り返った。
注目をあびることになった少女は、気まずい思いをしながらいつもの悪態をついた。
「他に行くところないもん!」
船に潜入したあの日以来、少女は船に乗せてもらうため港に通うようになっていて、海賊達にはすっかりお馴染みの存在になっていた。
船の出港がいつか知らないため、少女は密かに準備を進めながら、焦る気持ちで毎日港に来ていた。やっと今日、とっておきの服装が整ったというわけだ。
もちろん、水夫達も彼女の変化に気づいている。その中で、レオンがひと足早く事情を察して口を開いた。
「ところで、その服似合ってるよ。最近は顔色も明るくなったよな。初めて会ったときより元気そうに見える」
優しげな顔立ちの彼に穏やかに指摘され、結局彼女はまた顔を赤くする羽目になった。
すると、今度はそばかすのマーティンも同調して頷く。
「あー確かにね。今のほうが断然良いよ、うん」
年頃の異性達に褒められ、少し勇気の出た彼女は顔を上げ、思い切って言った。
「言われたとおり顔も手も洗ったの。相手にしてほしかったらちゃんとしろって、あの人が言うから」
「あの人?」
ぽかんとしてマーティンが訊き返すのに、少女は恥ずかしそうに答える。
「あの、色黒の兄さんだよ」
「頭領!?」
マーティンだけでなく、レオンを除いた他の水夫達も愕然として声を上げる。
彼らが何故そんなに驚くのか、いまいち理解できないままに少女は呟く。
「なんか有名人で、偉い人だって聞いた」
「いや、偉いは偉いけどさ……」
困惑気味にリックが応える。
少女がしつこくしてきたのは、あくまでも乗船して街を出たいからだと思っていたのだ。まさか、ルシアスが目当てだったとは。
しかも少女がこうしてルシアスの言うことを素直に聞いて、彼女なりに努力をしたのであれば、今までどおりただ追い払うというのも気が引ける話である。今日まで彼女は門前払いばかりで、ルシアスに会うことができずにいたのだから。
水夫達は困ったように顔を見合わせ、やはりここもレオンが口火を切った。
「頭領に言われて、ちゃんと頑張ったんだ?」
「……」
少女は答えずに俯く。袖口をギュッと握っているのに気づいているレオンは、優しい口ぶりで言った。
「そうか、偉いな。言われたとおりにしたんだから、成果を見てもらいたいよな。俺はいいと思うよ」
「ほんと?」
ぱっと顔をあげた少女の顔に不安が残ってるのを見て、レオンは安心させるよう微笑み返した。
「頭領は、努力する人間のことはきちんと認める人だ。乗船のことはひとまず置いておくにしても、その件で会いに行くなら構わないんじゃないかな」
少女の顔は一瞬ぱあっと明るくなったが、しかしすぐ不安の色が戻ってしまう。
彼女は思い詰めたようにレオンに訴えた。
「ねえ。なんであたし、船に乗せてもらえないのかな? 皆と違って女だから?」
「女だから、っていうか……」
レオンは返答に窮し、微笑みをやや苦いものに変えた。
「うちは客船じゃないって、何度も言ってるだろう。そんな船に女の子を乗せたら、航海の間に騒動のもとになる。君の安全のためでもある」
「そのくらい平気! この街にいたって別に安全なわけじゃないもん」
勢い込んで応える少女に、苦い顔をしたのはマーティンだ。
「平気なんて言うなよ。お前、言われてる意味わかってないだろ」
「わ、わかってるよっ。馬鹿にしないで!」
むきになって言い返す少女の言葉が、ただの買い言葉なのかわからず、海賊達は困り果てた。
確かに、彼女の言うこともわからなくもないのだ。見た目十代半ばほどの少女が身ひとつで世間に放り出されたこの状況は、彼らにも覚えがあった。
孤児院などの保護施設はあるものの環境が良いとは言い難く、働くにしても、保護者がいないのをいいことに待遇がひどかったりするのが常だ。
ヴェスキアは今のところ景気がいい街だが、労働者の流入が著しく、競争の激化で格差も拡がりつつある。なり手の少ない仕事は社会的弱者に回されがちだった。船乗りもそのひとつだ。海賊達の中には孤児出身の者も珍しくなかった。
しかし女性の場合はそうもいかない。女性は更に就ける職に限りがあり、船乗りですら認められていなかった。
数少ない貧困女性の就職先のひとつが、性産業である。
だから、彼女の立場でそういうことを知っていたとしても、おかしな話ではないのだった。
「身の振り方については、航海長
に相談に乗ってもらったんじゃなかったのか?」
やや声の調子を落としたレオンの言葉に、少女は黙って俯く。その様子に彼は嘆息した。予想していたからだ。
彼女はこの街で孤児をしながら、公用語を流暢に話すことができる。教育の成果ではないだろう。少女にとって、この街は愛着のある故郷ではなく、あくまでも異郷なのだ。
海賊達は年下の少女の境遇に同情を誘われ、また困った様子で視線を交わし合った。
「とはいえ、そもそも頭領いないんだよな。さっき出かけたばかりで」
マーティンが、少女の服装にもう一度目をやりながら申し訳無さそうにそう言った。するとリックがびっくりして聞き返した。
「えっ、ライラさんのところですか? 俺、またなんか話聞き逃してました……?」
「いや。シュライバーの旦那の事務所だったと思う。終わり次第戻ってくるはず」
リックとマーティンの会話をレオンは少し渋い表情で聞いていた。そして案の定視線を戻すと、少女はまっすぐな視線を彼に向けている。
「ライラって誰?」
女の勘とは怖いものだとレオンは内心たじろぎながら、腹を括って彼女に向き直った。少し屈んで、視線の高さを合わせる。
「頭領の大事な人だよ」
「恋人、いるんだ……」
少女の声が沈んだ。
「そっか……」
そこでようやく、リックとマーティンも過ちに気づいたらしい。焦った顔をしたのを、レオンが横目で睨む。
それから彼は、また少女に語りかけた。
「頭領のことが好きだったんだな」
「そうなのかな」
少女は眉根を寄せ、困惑した様子で呟いた。
「初めてだったの。あたしと、ちゃんと話してくれる大人の男の人って。すぐ怒って怒鳴ったりしないし、ぶたないし。嫌なことも、してこないし」
「……。そうか」
短く応えるレオンの横から、慌ててマーティンが言った。
「あの、出港するまでは俺達もここにいるから。何か、力になれることがあったら……!」
「だから、そういうことじゃないよ! 何もわかってない!」
少女は急に癇癪を起こしたように叫んだ。海賊達だけでなく、周りで仕事をしていたよその船の男達も驚いて振り向いた。
周囲の注目を集めた少女は感情が高ぶって顔をくしゃくしゃにしたが、泣き出すより先に身を翻して走り出した。
「あ、おい!」
引き止める間もなく、少女の小さい後ろ姿は雑踏の中に消えてしまう。
海賊達は呆然とそれを見送るしかない。身を起こしたレオンが、困惑するマーティンを睨んで小さく溜め息をついた。
「この馬鹿」
早朝のシュライバー商会事務所は、普段よりやや静かだった。事務員もまだ出勤していないし、外の通りを行き交う馬車もほとんどない。少しひんやりした空気と窓から差し込む朝日が、普段の忙しない事務所内とはまるで別物のように感じさせていた。
大事な話を誰にも邪魔されずにするためには、うってつけの時間帯だ。
しかし実際はお互いの時間がなかなか合わず、ようやく捻り出したのがこの日のこの時間だったというわけである。特にシュライバーは、商談のために普段からあちこちを走り回る生活をしていて、この機会を逃したらあといつになるか、という具合だった。
「葡萄酒の流通ねえ」
シュライバーは話を聞くなり、難しい顔つきで低く唸った。
それから彼は、目の前の青年海賊に視線を戻す。
「わかった。伝手はある、しばらく注意するよう伝えておこう」
ルシアスもじっくりと頷きを返した。
「スタンレイが、流通経路を改めて洗うことになっている。事前に話を通していてくれるだけでも助かるはずだ」
「いいだろう」
そう引き受けたあと、シュライバーは鞄から数枚の書類を取り出した。机上に置いたところをすっと指で抑えて、相手側に向けて軽く滑らす。
ルシアスが目線で問うと、シュライバーは、少し気まずそうな微苦笑を浮かべた。
「先日頼まれたものだ、遅くなって悪かった。今うちに滞在している、若造の身元についての報告書だ」
ルシアスはそれを手に取ると、さっと目を通した。そして、ある一点で視線を止める。
「スカナ=トリアの貴族……?」
「そうらしい。しかし目立たない一族だよ。功績があったのが大昔の戦場一回きりというだけで、家柄はその辺の商人とあまり変わらん」
シュライバーの顔はなんでこんな相手を気にするんだと問うようだったが、ルシアスは無視した。
コルスタッド家は元はスカナ=トリアの貴族だが、エスプランドルとの戦闘に参加するため国を離れた。ロイは次男で、兄とともに父親に従って参戦もしたようだが、これといった働きもないうちに戦争は終了した。
その後は占領地に残り、現地の学校で学問を再開。そのまま軍に戻って、父親と兄の補佐をするのかと思われた。
しかし終戦から二年後、何を思ってか、帰国してすぐ彼は魔法都市ヴェーナに移り騎士団に入っている。
「経歴だけ聞けば、外の世界に飛び出したい血気盛んな若者だと思いがちだがね。実際のあいつは、呆れるほどの堅物だよ。俺も本人とは二、三言話しただけだが、今どき六十の爺だってもう少し柔軟だぞ」
シュライバーは、ルシアスから詳細を聞くのを諦めたらしい。誰に向けてなのか、ぶつくさと不満気味にそう言った。
「あの様子だと、おそらく酒も女もろくに知らんで今まで来たんだろうな。家内があいつを気に入って傍においているようだが、今のところ無害だから任せてる。……ああ、いや。無害っていうのとも違うな」
最後になって声の調子を変えた中年商人に、ルシアスは片眉を僅かにあげて目を向ける。
シュライバーのほうは、彼の意図まではわからなかったろうが、意味深な含み笑いとともに続けた。
「お前のとこから預かってる若夫婦の、奥方だよ。あの男が、どうも彼女に岡惚れしたらしくてな。隙あらばという感じで、四六時中追いかけ回してる。おかげで使用人達の恰好のネタさ」
「……」
「あの娘、以前見かけたときはそれほど気にならなかったが、今はもう見違えるくらいの別嬪さんだよ。年が近いのもあって、うちの娘があれこれと世話を焼いてね。あの汚れた水夫服から着替えさせただけで、驚くほどの大変身だ。ちょいと気が強そうだが、美人は美人だからな。惚れちまうのもわからんでもない」
はっはっは、と豪快に笑う商人に対し、海賊のほうは渋面だった。それも、感情の起伏が少ない彼にしては珍しいくらいの。
「これ以上の厄介事は困る」
苦々しい響きでもってもたらされた一言に、シュライバーは驚きつつも何かを感じ取ったようだ。
この辺りの勘の良さが、彼の商人としての武器でもあった。
すぐさま表情を改め、気を取り直すようにごほんと咳払いをする。
「わかってる。彼女の名誉のために言っておくが、本人はきっちり断り続けてるよ。俺もあれ以上のことをされないよう、家の者に見張らせている。いやしかし、頭領ってのも気苦労が多くて大変だな」
おもねるような言葉がその耳に届いているのかどうか、ルシアスはいつもの無表情に戻って書類を捲っている。
シュライバーはそれ以上余計な口を挟むことはせず、黙ってその様子を見守っていた。
やがて、ルシアスの書類を捲る手が中途半端なところで止まった。
シュライバーはもちろんその原因を知っていて、そこでやっと口を開いた。
「後半は詫びの印だ。ブレフトの件でお前さんに手間をかけちまったからな。だが、人のいるところで読むなよ」
ルシアスが書類から目を上げると、シュライバーは強い眼差しを彼に向けていた。
大事な商談のときだって、余裕の表情を崩さない男だ。むしろここ一番という場面こそ、本心を見せないのが習性になっている。そのはずだった。
今のシュライバーは違った。自分より十以上若い友人の身を、本気で案じているのがありありと伺えた。
「ルース。そいつとどういう関わりなのかは訊かないが、悪いことは言わん。できる限り早く手を引け」
「……」
「その辺の若造と違って、お前は頭もよく回るし、物事を弁えている。大抵のことならうまくやってのけるだろう。それでも、この相手だけは駄目だ。お前は息子ほどじゃないが、俺から見れば充分若くてまだ先がある年齢だ。つまらんことで人生をふいにするな、ルース。危険すぎる」
言い含めるような低い声に、ルシアスは応えなかった。再び書類に視線を落とし、そこに記されたある名前を心に刻む。
そこには、イアソン・ディオラスという名前が書かれていた。
アル=アザム首都マディーナ=アブヤド総督。エディルの大国であるスカナ=トリアとエスプランドルが、互いの占領地を巡ってサリーシア大陸で繰り広げていた戦いに、事実上の終止符を打ったとされる男。
戦場ではもちろん、味方に対しても冷酷で情け容赦がないとして恐れられているという。
噂では、自分の妻子すら、密かにその手に掛けたとか……。
「……」
あの日、泣きながら告白したライラの姿がルシアスの脳裏に蘇る。自分は逃げてきたのだ、過去と向き合う度胸もまだ持てない、と。
結果的に彼女はルシアスを選んでくれたとはいえ、そこに至るまでの葛藤も浅いものには見えなかった。
あの、常に毅然としたライラが。あんなに取り乱して。
ルシアスの唇から、意図しない深い溜め息が漏れた。
「……忠告、感謝する」
胸の内とは裏腹に顔と声から表情を消し去ったルシアスは、短く礼を言って書類を畳むと、それを懐に押し込んだ。