Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

記憶の楔

15

 身体が、異様に重い。

 極度の疲労なのか、重度の無気力なのか。ライラは、視線を動かすことすら煩わしく感じていた。
 思考は濃い靄がかかったようにすっきりせず、それを振り払おうという気持ちすら沸かない。

 一点に固定された視線の先では、薄暗い小さな部屋の片隅で人影が蠢いていた。しかし、それが誰だとか、何をしているのかとか、どうでもいいと思った。

 そうだ。あのときは本当に、すべてがどうでもよくなっていた。生きることすら億劫で。
 このまま朽ち果ててしまうのも悪くないと、心の底から思っていたのだ。

 だが、部屋の扉が開いた瞬間に、ライラの思考は一気に明瞭になった。
 どういうことだろう。これは──あのときとは違う

「イリーエシア!」
 外からやってきた青年、ロイ・コルスタッドは彼女の姿を見るなりその名を呼んだ。
 ライラは何か応えようとしたが、声が出なかった。そればかりか、身体も動かない。

 ライラはどうやら、寝台に座っているようだった。上半身を起こし、枕に背を預けている格好だ。身に纏っているのは薄い寝間着だったが、肩には綿入りの肩掛けがかかっている。
 そう、この肩掛け。小さな頃から使っていた品で、ライラの胸に懐かしさがこみ上げる。とても大事なものなのに、どこへやってしまったんだっけ……。

 寝台の傍らに立ったのは、ロイだけではなかった。
 ロイとともに部屋へとやってきたのは、身なりがいいとはいえない痩せた中年男である。日焼けした肌は黒く、顔も手も皺が目立つ。頭髪は半分程度が白い。ライラは彼のことを懐かしく感じたが、誰なのかは思い出せなかった。

 中年男は、ロイの傍らから痛ましそうにこちらを見つつ、口を開いて辺りを気にするかのように小声で言った。

「何度呼びかけても、ろくに反応がないのです。最近は食事もほとんど摂らなくなって。ですが、ここへお医者様を呼ぶわけにもいきませんし。このままでは、イリーエシア様は……」
「そうか。よくぞ打ち明けてくれた。よくぞ……!」

 中年男のほうへ振り向いたロイは、感極まった様子で礼を言った。
 しかし中年男と、もともと室内にいた中年女の表情は暗いままだ。このふたりは夫婦だと、何故かライラにはわかっていた。

 確か、そう。ディオラス家に仕えていた者達だ。
 中年男は思い詰めた様子で顔をあげ、ロイに訴えた。

「コルスタッドの若様、どうか、どうか旦那様には内密に願います。ここにいるのが知られたら、私らもただでは済みません。お嬢様も、どういう扱いをされるのやら……」
「わかっている。かといって、俺もあの方に表立って逆らえる立場ではないが、できる限りのことを尽くすつもりだ」
 ロイは深く頷いてそう応えた。

 すると、今度は中年女のほうがためらいがちに彼に言った。
「あのぅ……。奥様や、フリストス様に助けていただくわけには、いかないのでしょうか」
 彼は小さく首を横に振った。
「すまない。俺も探しているのだが、手がかりが何も……」

 ロイの返答に、中年夫婦は俯いてしまう。唯一の望みを絶たれたとでもいうような、沈痛な面持ちで。

 中年男は諦念の表情で深い溜め息をついた。
「そうですか……。どこに行かれたんでしょうねえ、奥様も若君も。あの方々がいらっしゃらなくなったせいで、すべてのことがお嬢様に降り掛かっちまった。お嬢様をお守りしていた警備のやつらも、だぁれも、いなくなっちまって……」

「本当に、誰もいなくなっちゃいましたねえ」
 中年女も、目尻に浮かんだ涙を前掛けの端で拭う。
「お傍に残ってるのは、私ら年寄り夫婦だけ。イリーエシアお嬢様は今、ひとりぼっちなんですよ……お可哀そうに」
 言い終わるかどうかというところで、女は堪えきれずに咽び泣く。

 その姿に、ライラは胸を締めつけられる思いがした。けれど、身体が動かなくて何もできない。指一本すら動かせなかった。
 ただ、この光景には意外性や目新しさを感じなかった。ライラはこれらのすべてを既に知っていた。

 薄暗く狭い部屋に、中年女のすすり泣く声だけが響く。男ふたりも、視線を落として何も言えずに佇むばかりだ。

 やがて、意を決したようにロイが顔を上げ、夫婦に対してしっかりした口調で告げた。
「庭師殿、それに乳母殿。これからは俺も彼女の味方になる。だから安心してくれ」

「おお……。ありがとうございます、コルスタッドの若様!」
 夫婦は手を取り合い、ようやく笑顔を見せて喜んだ。その様子を慈しむような眼差しで見やり、それからロイは改めて寝台のライラのほうに視線を戻した。

「まずはリーシャを、安全な場所へ移動させなければ。少し時間をもらえるだろうか」
「もちろんです。ですが、お急ぎください。旦那様がいつ気づくともわかりません」

 その言葉を受け、ロイは表情を厳しくして頷いた。

「何かあればコルスタッド家を頼るといい。あなた方の前に門は常に開かれるだろう」
「私らも、精一杯やりますんで。お嬢様を、何とか助けてやってください。どうか、どうかよろしくお願いします……」
 息子のような年齢の青年貴族に、中年夫婦は縋るようにして頼み込んだ。

 そこで、薄暗い部屋の景色は暗転した。

 ゆっくりと目を開けたライラだったが、それでも真っ暗なままだったことに一瞬戸惑う。
(今、何時だ)
 ぼんやりと思考を巡らせながら、まず手を動かし、自分の顔に触れてみる。室内とはいえ冷えた空気に晒されていたせいか、頬はひんやりとしていた。

 視界がきかなくても、寝台の感触には覚えがあった。ここは数日滞在したシュライバー邸の一室だ。
 上体を起こして室内に意識を向けるが、そこには誰の気配もなかった。身じろぎをするたび敷布の擦れる音がやけに響いて聞こえるほど、しんと静まり返っている。

 寝台にいるのは先程見た光景と同じだが、今彼女を取り巻くのは平穏な静寂だ。拍子抜けするほど、何の危険性もない場所。
 ふたつの空間は似ているようでその実、落差が激しく、脳が混乱して少しくらくらした。

(あれは多分、ただの夢じゃない)
 ライラは深く息を吐いた。こんな夢を見たのはきっと、ここのところロイとの接触が増えていたせいだろう。
 夢の情景は今もはっきりと思い浮かべることができるだけでなく、既視感すらあった。

 いや、既視感どころの話ではない。
 あれはすべて、過去に実際あった出来事だ。

 しかし、今日まですっかり抜け落ちていた記憶でもあった。何故ああいう状況に陥ったのか、あの後どうなったのか、その辺りのことはまだ闇に包まれている。
 忘れていたのに、目の前に突きつけられれば違和感がない。そんなことあり得ないという反発より、おそらくそうだったのだろうという納得の気持ちが大きいのだ。何とも不可思議な感覚である。

 中年夫婦のことは、今なら思い出せた。イリーエシアが領地に移り住んでからついた現地住民の使用人で、庭師と乳母の夫婦だ。
 家族に見放された彼女の成長を温かく見守り、物の道理を教え、教育を施して知識を蓄えさせたのは、そういう血の繋がりのない大人達だった。

 やがて、成長したイリーエシアは、ある目的のために旅立つことを決めた。幼少期を過ごしたあの屋敷を、ひと気の少ない時間を狙ってこっそり抜け出して。

 だがその記憶と、さっき見た光景がうまく繋がらない。
 匿われていたイリーエシア。彼らに助力を申し出たロイ・コルスタッド。しかしライラは現在、故郷を離れてここにいる。

 ひどく胸騒ぎがした。
 同時に正体不明の忌避感があって、ライラはそこを今追求すべきかどうか悩んだ。おそらくそれが、問題の根本なのだろうけれど。

「……。駄目だな、まだ……」

 踏み込もうとしただけで、息が詰まる思いがする。まるで心の奥に底なしの泥沼があるようだった。
 自分がいた頃の故郷を思えば、どうせ、ろくなことがなかったのだろうが。

 ライラは過去について考えるのを一旦やめにした。
 バートレットはどこだろう。まさか、彼と酒を酌み交わしたことも夢ではあるまいなと、ライラは記憶を手繰り寄せる。

 こちらもはっきりとは覚えていないが、相手がバートレットということもあって、不快な印象は残っていなかった。
 むしろ、妙にすっきりした気分だ。聞き上手の彼が、今回もその手腕を発揮してくれたのに違いない。

 ただ、いつ寝台に潜り込んだのかわからなくて、おそらくまた彼の手を煩わせたのだろうと思うと、ライラの胸は気まずさでいっぱいになる。

 やがて闇に慣れてきた目で辺りを見渡すと、窓は既に木戸で塞がれていた。そのせいもあって室内がやけに暗く静かなのだろうが、今は日が落ちるのが早い時期でもある。多分、バートレットが退室する際に閉めていったに違いない。

 そう考える中で一瞬、脳裏にバートレットの思い詰めたような横顔が蘇った。
「あれ……?」
 怜悧な彼がそんな顔を容易に晒すわけもない。だが夢、ではないはず……。
 そういえば彼とはどんな話をしたのだろうと、ライラは急に不安になった。

 元々は、つまらない意地が邪魔をして逡巡していたライラのため、彼が一献傾ける場を設けたのではなかったか。
 そこで、何故彼に思い悩むことがあるというのだ。

 ライラは衝動的に部屋の入り口まで駆け、扉を開けた。
 暗い廊下には誰もいない。

 あの律儀なバートレットが、意識のないライラの傍から離れるなんてあり得るのだろうか。ライラを補佐するためにここにいるのだと、何より彼自身が一番強くそう思っているのに。
 不安が一段と大きくなる。

「私は……バートレットに何を言ったんだ?」

 酒の勢いで、彼の表情を曇らせるような失言をしてしまったのだろうか。
 いや考えすぎだ、所用で外しているだけかもしれない。今までだって、四六時中一緒というわけでもなかったじゃないか。
 そう己に言い聞かせてみるものの、気持ちがなかなか落ち着いてくれなかった。心に何かが引っかかる。

 どれだけそうしていただろう。真っすぐ伸びた廊下の半ばにある階段の下から、ぼんやりとした灯りが上ってくるのが見えた。

 祈りにも似た気持ちでライラが凝視していると、現れたのはまさに彼女が求めていた人物だった。その傍らには手燭を持ったエルセもいる。

「……アラベラさん? お目覚めだったのですね」
 ライラの姿を見るなり、エルセは顔を綻ばせた。
「お加減はどうかと、様子を見に来たのです。そんなところに立っていては風邪を引きますよ。あらあら、御髪(おぐし)も乱れて……」

 淑女としての身なりをあまり気にしないアラベラを、エルセは以前から窘めてきた。今もまた眉をひそめるが、今のライラはそれどころではなかった。

「どうしたんだ、そんな顔をして。何かあったのか?」
 気遣わしげな態度で、バートレットが問いかけてくる。いつもどおりの彼だ。
 ライラも自分自身の動揺に戸惑いを隠せず、うわ言のように言葉を紡いだ。
「いや……。その、起きたら……、あなたがいなくて」

「まあ」
 エルセが頬を染めて目を瞠る。ライラが、心細さからなりふり構わず部屋を飛び出してきたと思ったのだろう。
「バートレットさんは、アラベラさんのために暖炉の火をもらいに来ただけですよ。仲睦まじいおふたりで、羨ましいわ」

「まだしばらく眠っているだろうと思ったんだ。起きたら真っ暗でひとりきりじゃ、さすがに驚くよな。一人にしてすまない」
 エルセの勘違いを特に否定せず、バートレットは穏やかに言う。
「そんな格好で廊下に出ていたら身体が冷える。中に入ろう」
「うん……」

 肩に軽く触れてくる彼の手に、ライラの意識は集中してしまう。
 何もおかしいところはない、普段どおりのバートレットだ。けれど、今そうやって、普段どおりに振る舞えること自体が奇妙に思えた。

 エルセが室内に入るなり、手燭の火を使って暖炉の火をつけ始める。普段は使用人にさせているのだろうにその手際は慣れていて、薪はあっという間に橙の光を纏った。ぱちぱちと小さく爆ぜる音とともに、火の粉が煙突に向かって舞い上がる。

「食事はとれそうか? 俺もまだなんだ」
 言葉の少ないライラが気になるのか、彼にしては積極的に声をかけてくる。
 それを受けて、暖炉の近くに膝をついていたエルセが振り返った。
「アラベラさんがお目覚めになるのを待っていたそうですよ。本当に優しい旦那様ね。よろしければ、ふたり分のお食事をこちらにお持ちするわ」

 にこにこと微笑むエルセに、ライラはぎこちない笑みを返すのが精一杯だった。
「お気遣い、ありがとうございます……」
「いいえ、とんでもない。でも、アラベラさん。いくら私や旦那様が相手でも、その御髪はよくないわ。こんなに素敵な旦那様を前にして、だらしない格好なんてもってのほかです」
「すみません……」

 素直に頭を下げるライラに、エルセはそれ以上の苦言を並べ立てることはせず、またにこやかに言った。
「先日とても素敵な絹のリボンを買ったので、それをお貸ししますね。きっとあなたに似合うと思うの。食事の前にお持ちしますから」

 そう言って、エルセはいろいろと手配をするために部屋を後にした。もともと忙しく動き回るのが好きな(たち)なのか、その足取りは軽い。客人の世話を率先してやるのも、立場よりもエルセの性格が大きく関係しているようだった。

 一方、残された二人は暖炉の前に並んで座って、しばらく沈黙していた。
 ライラは彼が黙ったままなのが、気遣いなのか、それとも別の理由なのかが気になって仕方なく、落ち着かない気持ちを持て余していた。しかし、なんと切り出したものか見当もつかない。何故かその理由を訊くのが怖かった。

 だが、いつまでもこうしているわけにもいかない。ライラは思い切って口を開いた。
「あの」
「ん?」

 訊き返す彼の声が、ほんの少し遅れたような、そうでもないようなと、普段ならまったく気にしないことが妙に気になって、ライラは自分で自分が嫌になる。どうして急に、こんな臆病風に吹かれたのだろう。

「さっき、私は……。変なことを、言ったりしたり、しなかっただろうか……?」
「変な、こと?」
 静かな声。
 やっぱりおかしい、とライラはそれで確信した。

 いつもみたいに、「何言ってるんだ、急に」と明るく笑い飛ばしてくれたら良かったのに。
 気持ちが重くなるのを感じながら、ライラは彼を一心に見つめた。

「もしそうなら、あなたに謝りたくて。酒のせいにするのはずるいけれど、実際に記憶が朧げなんだ」
 するとバートレットは、彼女の目を真正面から見ることをせず、目を伏せた控えめな笑いかたをした。

「そんな必死な顔で、何かと思えば……。何もなかったよ」
「ほ、ほんとうに……?」
「ああ。お前が謝らなくちゃいけないことなんて、何ひとつなかった」

 まだ疑わしげなライラのほうへ手を伸ばし、彼は乱れた髪に指を差し入れると、手櫛で軽く梳いた。
 その繊細な感触に、ライラは驚いて身体を硬直させる。が、バートレットは気にもとめず、彼女の長い髪を優しく梳かし、撫でつけた。

「急にひとりにされて、不安になったのか? 珍しい」
 彼のその言動に、ライラは更に混乱した。
 口ではそれ以上入り込ませないための壁を感じるのに、動作においてはいつもより距離が近いような気がしたのだ。
 その相反する言動が何を意味するのか、ライラにはさっぱりわからなかった。

「バートレット、あの……?」
「悪かった。黙って離れたりして」
 ライラの頭部から手を離すと、バートレットはそう言った。
 そして彼女から視線を外し、暖炉の火を見つめながら続ける。

「今後はちゃんと傍にいるから。お前を置いて行きはしない。約束する」
 静かな口調で紡がれたその言葉は何故か、ライラには約束よりももっと力強い、誓いのように聞こえた。