Brionglóid
海賊と偽りの姫
記憶の楔
13
「こっちは散々手を貸すと言っているのに、結局限界まで踏ん張ってしまうのはお前の癖なのか?」
ライラに与えられた個室の扉を閉めるなり、良き夫の仮面を取り払ったバートレットがそう言った。
疲労困憊のライラは寝台に身を投げ出している。ぴくりともしない彼女に、彼は溜め息をついた。
エルセ達と和気藹々の昼食を愉しんでいたかに思われたバートレットだったが、己の役目を忘れたわけではなかった。ロイとともにいるライラの様子から、きっちり潮時を見極めて彼女を回収してきたのだ。
今回は意識こそ手放さなかったものの、決して軽くはない負担がライラに伸し掛かっているのは明らかである。
ライラはうつ伏せの状態から、怠そうに身をひっくり返して仰向けになると、頭を覆っていた白布を無造作に剥いだ。髪留めが引っかかって結い上げた髪が乱れたが、お構いなしだ。
天井へ無為に視線をやって、バートレットのほうを見もしない。すべてが自棄のような粗い仕草だった。
「癖、というか……。他意はないんだ。ただ、思ったようにうまくいかなくて」
だからつい粘ってしまう。そう彼女は溢した。
バートレットは扉の前から動かず、ライラから距離を取ったまま立っていた。彼女を見つめるその冴えた色合いの瞳は、かすかに曇っている。
少し迷いを残しながら彼は、思い切って告白した。
「お前がそんな状態になる度、自分の無力さを痛感するよ。何もできないのが歯がゆい。お前がそれほど俺を、あてにしてないだけかもしれないが」
「まさか。違うよ」
ライラは微かに笑って否定した。
しかし、彼女はすぐにその笑みを消した。似たようなやり取りを、ルシアスとも交わしたことを思い出したのだ。
「……正直に言うと、頼りかたがよくわからない」
ぽつりと、ライラが言った。
「今までずっと、独りだったから」
独り言のような彼女の言葉を、バートレットは黙って聞いていた。ライラにはその表情が見えていない。
仰向けに寝転がって、天井を見つめたまま彼女は続ける。
「旅の途中ではもちろん、簡単に人を信用したら馬鹿を見ると、自分に言い聞かせてきたんだけどね。肝心なところで梯子を外されたら、たまったものじゃないし。でも、あなたやルースに対しては、それとは違うんだと思う」
「違う?」
ライラはその問いにすぐには答えなかった。バートレットはずっと待っていたが、ようやく返ってきたのは深い溜め息だった。両手で顔を覆って、ライラは呻くように漏らした。
「駄目だ、これ以上は言えない」
「ここまで来てまだ迷うのか?」
またしても肝心なところで止められて、気が急いたバートレットはそうせっついた。
ライラは弱りきった声で懇願する。
「頼むよ、バートレット。私にも自尊心がある」
「それは何のための自尊心だ?」
「多分……一番は、自分を守るため、かな」
「今でさえ、守れているようには見えないのに?」
ライラは答えられなかった。弱った心にとって、彼の正論は鋭利すぎた。
バートレットは彼女をじっと見つめていたが、やがて語気を抑えて言った。
「ライラ。お前は俺を信用できるか?」
急にそんなことを言われたライラは、驚いてがばっと身を起こした。
「できるよ。当たり前だろ」
ライラは即答する。彼を見つめるその目に嘘がないことを見て取ったバートレットは、「わかった」と言うと部屋を出て行ってしまった。
しばらくして、彼は酒瓶といくつかの酒杯を盆に乗せて帰ってきた。
彼はただ黙々と、円卓に瓶と杯を並べ始める。
「今からお前の虚勢を叩き割る」
手際よく杯に酒を注ぎながら、バートレットは言った。寝台に腰掛けたライラは、呆然とその様子を眺めるしかない。
彼女の記憶が正しければ、この香りはこの国原産の穀物酒だ。甘口で飲みやすいがそれなりに強い酒なので、麦酒で口直しをしながら飲む。どっちにしろ酒精が身体に注ぎ込まれ続けるという代物だ。
こんなものを調達してきた時点で、彼の言葉が決して誇張されたものではないことが窺い知れる。
「これからお前が何を言っても、それは酒のせいだ。お前が信念や自尊心を一瞬忘れたとしても、俺が土足で踏み込んだせいであって、お前に責任はない。いいな?」
淡々とした彼の宣言に、ライラは目を瞠る。それから彼女はくしゃりと表情を歪め、何かを堪えるように天井を仰いだ。
「……。なんでそんなに優しいんだ、あなたって人は」
ライラをちらりと振り返り、バートレットはふん、と鼻を鳴らす。
「その顔色をしたお前に、今から酒を飲ませようというんだ。優しいわけがない。頭領とジェイクに知られたら、甲板磨き程度の罰じゃ済まないだろうな。だから、一杯だけだ」
「……」
ライラは立ち上がって、彼のいる円卓の席へと移った。
葛藤はまだあるものの、生真面目な彼が罰を覚悟でしている行為を無下にはできなかった。それも、自分を思ってのことであれば尚更。
ライラは敢えて、悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた。
「これは病気じゃないし。そもそも穀物酒って薬酒だろ? なら問題ないよ。さあ飲もう」
「困った奥方だな。焦って一気に行くなよ」
バートレットも苦笑いを返す。進んで酒を飲みたがる妻は、本当なら悪妻と呼ばれるものなのだ。
杯から溢れそうなほど注がれた酒をそれぞれ啜り、ライラの目元がほんのりと色づいたあたりに、バートレットは改めて切り出した。
「腹の中を開示するのが片方だけでは公平じゃないから、まず俺からひとつ明かそう。お前が事情を話してくれないことに、俺は時折不安になる。余計な詮索をすべきではないと自戒しているが、それでも」
ヴェスキアの中央広場での一件の後、確かにバートレットは自分から問いただすようなことはしてこなかった。あの日だって、話せる部分だけでいいと前置きしてのことだ。
ライラとしても、事情を知らないのにひたすら彼女を庇うというのが、並大抵のことではないとわかってはいた。それなのに彼はやってのけている。
だが、こうやってバートレット本人の口からはっきり言葉にされると、ライラの胸は痛んだ。
「頭領を差し置いて、俺がどこまで介入していいのかもわからない。だから、今は俺も酒のせいにする。ふたり揃って酒に流されただけ、難しいことはこの場では無しだ」
「……わかった」
一瞬ライラの脳裏に、小さな罪悪感を伴ってルシアスの面影が浮かんだ。
それはバートレットも同じだろう。明確な裏切り行為ではないけれど、ふたりの心の中には確かな後ろめたさがあった。
またしばらく黙って酒を飲み、今度はライラが口を開いた。
「さっきの、うまく頼れない理由だけど」
「うん」
「どこまでなら力を借りても許されるのか、わからないんだよ」
「許される?」
唖然としてバートレットは訊き返した。無意識に顎を触りながら、その意味をしばし考える。
「……女っていうのは、そういう頼りかたや甘えかたを、生来熟知しているものだと思っていたが」
「偏見だ。単に私が規格外れなのかもしれないけど」
大して気を悪くするでもなく、ライラは応えた。
「船の皆は自分の足で立っていて、それを誇りにしているところすらある。私もそうありたい。あなた達に、こんなこともできないのかと嘲笑われるのも嫌だ。自分でできることを、やりもしない内から他人を頼ることは、私自身も許せない」
「ふむ。お前らしいといえば、お前らしいか」
バートレットは肩を竦め、それからやんわりと釘を差した。
「しかし、自分にできることの設定値が厳しすぎると、また倒れたりして、結局他人頼みになってしまうんじゃないか?」
「そのとおりだ。その見極めが、私はどうも不得手らしい」
面目ない、とライラは俯いた。
ライラは、一人旅を続ける中では何があろうと、無理をしてでも独力で片付けるしかなかった。だが、船乗り達の中で、自分一人で船を操れるなんて豪語する者はいない。操船では協力し合うのが当たり前だし、そこには負い目も借りも生まれないのだ。
つまり生きてきた環境の差かと、合点のいったバートレットは、穏やかな眼差しで彼女を見つめた。
「そういうことなら仕方ないな。だったらもう、やりたいようにやれ。あとは俺に任せてくれればいいから」
すると、ライラはちらりと顔をあげて彼を見返した。何故か、恨みがましい眼差しで。
「バートレット、あなたのそういうところだ。嬉しいけど、困るんだよ」
「困る?」
またしても意味が理解できずにバートレットが訊き返す。するとライラは眉根を寄せ、思い詰めたように視線を泳がせた。
「そうやってあなたの厚意に甘えて、いつかそれが当たり前になって。そうなってしまったら、私は……」
俯いたライラは、そこで言葉を切ってしまう。
勘のいいバートレットは、むしろこれが問題の根本だと察した。
ライラが常に一線を引いているのは、彼らを信頼できずにいるのではなくて、何かを怖れているからだ。その警戒が今、綻びを見せた。
黙ってしまった彼女を、バートレットは辛抱強く待った。
沈黙を誤魔化すように酒を飲んでいたライラは、やがて小さな声で呟くように言った。
「ねえ、バートレット。私は元々弱い人間だって言っただろう。全然強くない。あなたに優しくされて、それに甘えて頼ってしまえば、簡単に腑抜けになる。……そうなってから掌を返されでもしたら、私はあっさり生きていけなくなるんだ」
バートレットは酒杯を傾ける手を止めて、彼女のほうを見た。
酒精で頬を僅かに染めたライラは、普段と打って変わって頼りなさげな表情で、手の中の杯を見つめている。
「そうでなくとも、多分もう、失えなくなってる……。傷つけたくないし、嫌われたくもない」
酔いが回ったのか、ライラの言葉はとりとめがなくなってきている。だが、バートレットはその先を聞くために、あえて遮らなかった。
「信用してないわけじゃないのに、すべてを曝け出す勇気が持てない。否定されることばかり慣れてしまっていて、自信が湧いてこないんだ。前までは剣を手にすることで埋めようとしていたけれど、どれだけやっても手応えがない。逆にもっともっとって、渇望するばかりで……がむしゃらにやるしかなくて」
不意にライラは、潤んだ瞳をバートレットに向けた。『翠金石の瞳』が、誘うように煌めく。
バートレットはそこで、自分の失態を悟った。酒精の力を得たこの瞳は危険だ、と。まるで炎に魅入られて飛び込む虫にでもなった気分だった。しかし、今更後悔しても遅い。
勝手に心臓が早鐘を打ちはじめるのを、彼は必死で抑えつけようとした。
そんな彼の内心など知る由もないライラは、とろんとした顔でつらつらと語り続ける。
「でも、船で皆と一緒にいると、その渇きがおさまるんだ。あなたとルースだと特に。自分はこれでいいんだって、不思議なくらい素直に思える」
そう言って、ライラはゆるく微笑んだ。
思わず、バートレットは生唾を飲み込む。
しかし幸か不幸か、その笑みが花開いたのは一瞬で、あっという間に陰ってしまう。
ライラは目を伏せ、悲しそうな溜め息を漏らした。
「そうすると今度は、別の不安が押し寄せてくるんだ。もしまた独りになったら、私はどうなるんだろうって。ちゃんと、戦えるんだろうか……」
「戦えなくなる……お前が?」
返す彼の声は掠れていたが、ライラは気にならなかったらしい。やはり酔っているのだろう。
唇を尖らせて、ライラは横目で彼を睨めつけた。
「あなたが優しいのがいけない」
そう呟いて、彼女は崩れ落ちるように卓上に突っ伏してしまう。両腕の中に顔を伏せ、くぐもった声でぶつぶつと文句を言った。
「本当に、どうしてくれるんだよ。まだ、やらなくちゃいけないことが、いくつもあるのに。今あなたがいなくなってしまったら……私はきっと、ひとりで立ってもいられなくなる」
崖っぷちでせめぎ合っていたバートレットにとっては、駄目押しの一言だった。
彼は呆然として、彼女をただ見つめることしかできなかった。
あなたがいないとなんて、酒場の女達が使うような媚びた意味ではないだろう。むしろ、ライラの立場でこんなことを口にしたら、相手が悪ければ利用されるだけ。そんなことはライラも重々承知しているはずだ。
これは酔いが彼女の口を緩めたために零れ落ちた、正真正銘の本音に違いなかった。
バートレットは、緩慢な動きでなんとか彼女から視線を引き剥がした。手が微かに震えているのに気づき、否定するように握り込む。
どくどくと、体内で脈打つ音が聞こえるような気がした。呼吸の浅い彼を、どこか他人事のような目線で観察するもうひとりの彼がいた。
ライラはルシアスにとって大事な存在で、バートレットにとっても妹のような、庇護すべき対象だ。今までどおり、彼女が笑って名を呼んでくれればそれでいい。その気持ちに偽りはない。
それなのに。
「……」
呻き声が漏れてしまいそうになるのを、彼は慌てて口をおさえて押し留めた。
湧き上がる暗い喜びを、自覚しないわけにはいかなかった。
「バートレット」
突然名を呼ばれ、バートレットは我に返る。
眠ってしまったかと思われたライラが、突っ伏した腕の中から目の部分だけ出してこちらを見ていた。
まさか心の動きを見透かされていたのかと、バートレットが身動きひとつ取れずにいると、彼女は静かに言った。
「コルスタッドは、あなたを排除しようとするかもしれない。近いうちにあなたに接触してくると思う」
「……」
「夫婦の立場だけ借りるつもりだったけど、どうやら、あなたを厄介なことに巻き込んでしまったようなんだ。回避したかったんだけど、無理みたい。ごめんね」
「ライラ。別に、俺は……」
ライラの酔いが醒めたのかどうか、判別がつかなかったバートレットはどう返したものか迷った。
最初から酔ってなどいなかった、なんてことはないと思うが。
「ルースが来たときにでも話さなくちゃ。でもどうしよう、彼に嫌われたら。迷ってる場合じゃ、ないんだけど」
再び、ライラの瞳がとろんと溶け始める。瞼の落ちかかった目で、彼を見つめながら彼女は言い募った。
「バートレット。何があっても、私があなたを守ってみせる」
「ライラ……?」
引っかかるものを感じたバートレットは、弱くなっていく彼女の声を聞き漏らすまいと、顔を近づけた。
「だから、嫌いにならないで。置いて、いかないで……」
泣き声のように語尾が震えていた。徐々に力を失って再度腕の中に顔を埋めたライラは、それ以降動こうとしなかった。微かに聞こえる呼吸音から、本当に眠ってしまったのだと思われる。
しばらく彼女を見守っていたバートレットだが、やがて彼女の耳元に唇を寄せて囁いた。
「嫌いになんかならないし、置いてもいかない。俺だって同じだ、お前がいなくなったら……」
そこで彼は、無理やり言葉を止める。顔をあげ、酒杯をぐいっと煽った。
いとも簡単に空になってしまった杯を、彼は苦い表情で見下ろす。
なかなか酔いの回らない体質が、今回ばかりは恨めしかった。
「……くそっ」
舌打ちして、彼は雑な手つきで酒を継ぎ足した。