Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

記憶の楔

06

 通りから見たシュライバー邸は、赤茶色の煉瓦を整然と積み上げた壁の中央に、馬車が何とか通れる大きさの扉付きの拱門(きょうもん)がついているという、重厚な外観をしていた。

 通りに沿って延々と無愛想な煉瓦壁が続くわけではなく、幅は他の周辺の建物よりやや広い程度である。二階と三階の部分には飾り窓がいくつか並んでいるが、通りから邸内の様子を窺うことは難しかった。
 そこだけ見たら、あまりの味気なさに倉庫か何かだと思われるかもしれない。

 しかし実際は、扉を開けた先がちょっとした隧道(ずいどう)のようになっていて、通り抜けると建物にぐるりと囲まれた中庭に出る。
 つまり隣接する建物の奥行き分をこの邸宅ではほとんど門に費やし、更に奥まった場所に屋敷が展開しているのだった。

 部屋の明るさは富の証なんて巷で言われて随分経つが、シュライバー邸は市街地に有りながら敷地中心部に贅沢な中庭を設けていて、その言葉を象徴するような造りをしているわけだ。
 庭師が毎日手入れをしているという庭木はどの季節であっても美しいとのことだが、今は紅葉が少しずつ始まっていて、花の少なくなってくる時期ながら色鮮やかだった。

 三階から見下ろすと長方形に切り取られて見える中庭は、まるで一枚の絵画のようだと、ライラは窓越しに眺めながら思った。

「イリーエシア」
 声に気づいて部屋の入口に目を向けると、緊張した面持ちのロイ・コルスタッドが立っていた。

 話し合いの条件として、扉の開け放しを事前に通達していた。年の近い若い男女がふたりという状況を考慮したもので、生真面目な魔導騎士はそれを快諾した上でここに来ている。
 密室ではないのだが、それでもロイは落ち着かなげに視線を彷徨わせた。

「改めて……このような場を設けてくれたこと、君の寛大な心に感謝する」
 入口から入ってすぐのところに突っ立ったまま、ロイは頭を下げた。
 そして顔をあげると、はにかんだように微笑った。
「その、参ったな。予想外だった、君がこんな……こんなに……綺麗で」
 はは、と照れ笑いを浮かべる大男に、ライラは対応に困って、つられるように小さく笑みを返した。

 見た目は大事だとはディアナが言っていたことだが、正直ここまで違うのかとライラは内心驚いていた。
 ライラが外見を変えたかったのは、あくまでもイリーエシアとしてロイと会うためであって、相手を懐柔しようという思惑があったわけではない。

 時間の関係もあって、衣服については古着を調達してきて寸法直しをした。そのため、この地域の服装で統一することになり、結果としてエルセの協力が欠かせなくなってしまった。

 地方によって差はあるものの、この国の衣装は大体同じで、ふっくらした裳の上から前掛けをし、頭部を透かし模様の刺繍で縁取った白布で覆うというものになる。
 ヴェスキアでは特に、裳は縦縞、前掛けは黒地に花模様と決まっているようだった。髪は顔の側面に一房垂らして結い上げるので、髪色の美しさも重要なのだとエルセは言っていた。

 肌は白ければ白いほど良いとされているが、ライラは眼差しの強さが印象的であるため、健康的な肌の色をあえて塗りつぶさないようにしようと提案したのはディアナである。弱さを装うにしても限度があるというのだ。
 結果、化粧自体はごく薄いものになったのだが、それでも男達の態度の変化は顕著だった。

 ギルバートは素直に称賛し、バートレットも一瞬目を見開いた後「驚いたな。すごく綺麗だ」と褒めた。
 ルシアスはしばらく黙っていたが、やがて溜め息をついて苦々しく言った。

「別に服装を強要するつもりもなかったが、これを奴のためにだと? ふざけるな」

 思いがけず彼を不機嫌にしてしまったのだが、ともかくこれでライラはロイとの対話に望んだわけだ。
 ロイの反応を見ても、効果は充分と言っていいだろう。

 今までライラ自身、華やかな装いには興味を持たずに来たのだが、こんな魔法みたいな影響力があるのであれば、女達が手間暇を惜しまず身を飾るのもわかる気がしてきた。

「もう少し、こちらにお入りになってはどうですか? そこでは声も充分に届きませんから」
 ライラが促すと、ロイは小さく頷いて室内に歩を進めた。
 窓際に立つライラの傍までロイが来ても、彼女の内側にかすかな緊張を呼んだだけで、これまでのような混乱は起きなかった。

 今はすぐ近くにルシアスがいる。声を出せば駆けつけられる距離に、彼がいてくれる。
 たったそれだけで、こんなにも心強くなるとはライラも思っていなかったことだ。

 今までろくに直視できなかったロイにも、まっすぐ視線を向けることができる。その眼差しを受けて、ロイは何かに気づいたようだ。照れ笑いから、少し眩しいものを見るような表情になって言った。

「君は美しくなっただけでなく、強くもなったのだな。あんなにか細く小さかった少女が、これほどまでに凛とした女性になるとは」
「ご期待を裏切ったのでなければ、良いのですが」
 心にもないことを言うライラに、ロイは微笑んだ。

「誤解を恐れずに言うならば、寂しい気持ちもある。だが、裏切られてはいないな。思いがけず素晴らしい淑女に目通りが叶ったのは、騎士として身に余る光栄だ。改めて敬意を示させてほしい」
 そう言ってその場に跪くと、ロイは騎士の儀礼でもってライラの手を取り恭しく口付けをした。

 居心地が悪くなったライラは、ロイが手を離すか離さないかという瞬間に手を引っ込めた。
「単刀直入に申し上げます。こうして名を変えて放浪している私を、わざわざ追ってきた理由をお聞かせください」

 再び立ち上がったロイは、見守るような目で彼女を見下ろしながら応えた。
「まずひとつは、君の無事を確認することだ」
「何故私を? 兄ならば、まだわかりますが」
 ライラが重ねてそう訊くと、ロイは不可解そうな顔になった。
「何故……? 憶えていないのか?」
「?」
「そうか。……それも、致し方あるまい」

 ロイの表情に苦いものが閃く。彼は気を取り直すように、落ち着いた口調で告げた。

「君の兄上が姿を消したのは知っている。その、今だから言えることだが……。彼自身の意志によってそうしたのを、俺は友人として薄々気づいていた。でも、君の場合は違う。気がついたときには忽然と姿を消していた。自発的なのかそうでないのか、判別がつかなかったのだ」

 そこまで言って、ロイは溜め息をつく。
「当時、良からぬ噂も飛び交っていた。万が一を思って……」
「実はもう生きていないのではないか、と?」
 ライラが見透かしたようにそう言うと、彼は苦笑いを浮かべた。
「万が一とはいえ、俺も馬鹿な考えをしたものだよ。口さがない連中の無責任な放言を真に受けるとは」

 その噂についてはライラも聞いたことがあった。
 彼女が実の父に始末されたのではないか、というものだ。当時、そういう噂が一笑に付されるどころか、まかり通るような空気感ではあった。
 ライラとしては、もうその噂が真実として定着してくれていたら尚良かったのだが。

 錆色の髪の騎士は、その肩書に相応しい生真面目な顔で更に続けた。
白の都(マディーナ・アブヤド)は今大事な局面を迎えている。そのような流言に足を取られてお父上の影響力が損なわれる事態は、街としても好ましくない。というか、非常にまずい」

 知ったことか。
 心の中でそう切り返しながらも、ライラは表面上冷静に言った。

「そんなもの、今までと同じようにあしらえばよろしいのに。父も老いたという年でもなし、よしんば衰えが見えたとしても、本人はそれを認めないでしょう」
「気力が衰えたわけではないだろうが、君のお父上も以前ほど頑なではない。……あの方は、君の帰郷を待ち侘びておられる」

 その一言に、ライラは反射的に眉根を寄せた。本能的な反発だった。

「それが私の身を案じているからだと、素直にそう信じるには、いろいろなことがありすぎました」
「リーシャ」
「あなたも本当はご存知のはず。私のこの行動は、父の意思に反すること。本来なら戻っても不興を買うだけでしょう。それに一旦蓋をして目溢(めこぼ)しするだけの理由ができた、ということなのでしょうけど」

 きりりとした眼差しとともに向けられる皮肉交じりのライラの言葉を、ロイは黙って聞いていた。彼の立場上、どちらか一方に過度に肩入れするということは難しいのだろう。
 しかし彼は、やがて降参したように弱く「確かに事情はある」と言った。

「お父上は君の結婚話を具体的なものにしたいと、一年ほど前に改めて公表したのだ」
 ライラは思わず、彼の顔をまじまじと見返した。