Brionglóid
海賊と偽りの姫
記憶の楔
05
「ここにいるならそう知らせといてよ、ルース。あたし、わざわざ船まで出向いたのよ?」
部屋に通されるなり、腰に手を当てたディアナはそう文句を言った。
用事があって港へ足を運んだものの、当のルシアスがシュライバー邸に移動したため、空振りをしてしまったのだ。ディアナが滞在している宿は市街地の裏通りにあり、シュライバー邸からそう遠くない場所にあったが、港からは少し距離がある。何かのついでで港に行ったのでもない限り、彼女は相当な無駄足を踏んだことになるのだった。
「手間を取らせたな」
「全然悪いと思ってない顔で言われてもね」
ふん、とディアナは鼻を鳴らすが、ルシアスの無表情を崩すほどの力はない。
「夜には戻るつもりだった」
「だから、そんな事情知らされてないんだから、事前に言っといてよって話!」
彼らは、シュライバー邸内でライラに提供された客室にいた。
あと数日滞在したいというライラの申し出に対し、エルセの動きは迅速だった。あっという間に寝台と暖炉付きの小部屋が用意され、それから今に至るまで、彼らはそこで過ごしていた。
よく換気された部屋は埃っぽくもなく、木製の家具もきちんと磨かれて艶めいている。寝台は客用の小型のものだったが、洗い立てで糊付けされた敷布が皺ひとつなく敷かれていて、見劣りする部分は全くない。
先日まで帆船の窮屈な釣床で寝起きしていたことを思えば、まるで王侯貴族にでもなったかのような高待遇である。
ライラは表向き臥せっていることになっているため、その対策も万全だ。談話室や応接室に出なくとも仲間と話ができるよう、脚長の小さな円卓と数脚の椅子も運び込まれていた。
さすがは商家の令嬢、エルセにとってこのあたりの接客や差配はお手の物らしかった。
椅子に腰掛け、これまたエルセが置いておいたであろう新聞に目を通していたルシアスだったが、ディアナ来訪を受けて彼はそれを一旦畳んだ。
「そっちは片付いたのか」
「ぼちぼちね。実際に片付くのは裁判の結果が出てからでしょうけど、まあ狙いどおりの結末に落ち着くと思うわ」
ルシアスと、彼の向かい側の席で武器の手入れをするライラとの両方に視線を向けてから、ディアナは説明をはじめた。
もちろんそれは、ブレフトの一件についてだ。誘拐事件は被害者が出てこないため起訴できない。問題となるのはトビアス殺害をはじめとする乗っ取り事件だが、それについては、加害者も被害者も動機もはっきりしているため、有罪になるだろうとのことだった。
まして、被告は流れ者の破落戸であり、この街の市民ですらない。彼らが嵌められただの何だのと法廷で喚いたところで、彼らの罪が帳消しになるような事態にはなりえなかった。
「それと、ファン・ブラウワーには後見人がつくことになったの。弁護士ふたりとシュライバーの旦那の三人で、今それの申請準備をしているところ。木材の流通ももう少ししたら正常化するはずよ。造船は何とか予定どおりにいきそうって話だったわ」
「わかった」
ルシアスが小さく頷く。ライラも、肩の荷がひとつ降りた気分になってホッとした。
ディアナは一度そこで言葉を切ったが、表情を入れ替えて改めて口を開いた。
「でね、ここからが本題なんだけど。今預かってるそちらのハル、そのままうちに欲しいのよ。本人には打診してあって、悪くない返事をもらってる」
「ハルを?」
片眉をあげたルシアスに、ディアナは微苦笑で答える。
「あんた達とこの間やり合ったときに、ただでさえ貧弱な人材が更に削られてさ。水夫長やってた男がいたんだけど、あの戦闘で死んじゃったのよ。とはいえ、代わりに水夫まとめられるような人間も他にいなくてね。次の航海、ほとんど新規の連中で遠距離を行かなくちゃならないのに、まとめ役が不在っていうのは厳しいわけ。彼ならファビオとも相性がいいし、安心して任せられるわ」
それを聞いて、ルシアスは表情を変えずに言った。
「うちはもともと、本人の意思を尊重してる。あいつがそれでいいと言うなら、いいだろう」
「助かるわ。でも随分あっさり手放すのね?」
「ごねたら諦めてくれるのか?」
「無理」
「そういうことだ」
あまりにも短いやり取りにライラは目を丸くしたが、勝手知った仲ならではの会話だろう。男女というものとはまた違った距離の近さだ。ふたりの関係を少し羨ましく思いつつ、ライラは呟いた。
「ハルがいなくなっちゃうのか。なんだか寂しいな」
ほとんど独り言に近いような小さな呟きだったが、ディアナの耳には届いていたようだ。
彼女はライラのほうに向き直ると、ルシアスに対するときのような勢いを口調から消して言った。
「運が良ければ会えるわよ。別れも出会いも再会も、旅と人生の醍醐味でしょ?」
「そうなんだけどね」
ライラは弱い笑みを返す。
ハルは常に泰然としている男で、ライラも知らずのうちに精神的に頼っている部分があったのか、その別れによる喪失感は他と比べようがない。
そういえば向こうも、ライラと同年代の妹がいると言っていた気がする。あからさまな兄貴風を吹かれたわけではないが、なんとなく、彼も自分の妹と重ねてライラに接していたのかもしれない。そう思えるほど、ハルは細やかな気遣いをライラにしてくれていた。
やや覇気のないライラを見て、ディアナは何かを感じ取ったらしい。さらりと話題を変えた。
「ライラ、そっちはどうなのよ。進捗は?」
「これからだよ」
「ぼさっとしてたら冬になっちゃうわよ」
せっつくというよりは冗談めかした軽い口調でディアナが言うのに対し、ライラは表情を引き締めて応えた。
「わかってる。色々踏ん切りがつかなかったんだけど、さすがに腹を括ったよ。彼と直接話すことにしたんだ」
「そうなのね。まあ、相手のためにもそのほうがいいと思うわ」
ディアナも、ロイの横恋慕について笑い飛ばすような真似はしなかった。
恋というのは複雑で、両者の想いがうまく噛み合うことのほうが稀有なのだ。また、一度恋の勝者になれたとしても、それが永遠の地位であるとは限らない。ならば、見込みの薄い恋に挑む相手を嘲笑うなど、できようはずもなかった。いつか我が身にも起こる事態かもしれないのだから。
ライラは、ふと思い立ったように彼女に言った。
「相談なんだが、もし迷惑でなければ化粧を教えてもらえないだろうか。それと衣装選びを手伝ってほしい。女性らしい装いをしなくなって長いから、自分ひとりではまったく自信がなくて」
「あら、そのくらいならお安い御用よ」
ディアナは気軽に請け合うと、ライラの頭の天辺から足先までさっと視線を流した。
「たしかに、普段のあんたの格好って実務特化って感じで、とっつきにくいものね。見てくれを変えるのはあたしも賛成」
すると、ルシアスが横から釘を刺してきた。
「あまり濃い化粧にはするなよ」
「わかってるってば! 化粧の仕方にもいろいろあって、似合うやり方とそうでないやり方もあるし、状況に応じても色々変えるの。ライラにあたしと同じ化粧は似合わないのくらい、承知してるから。心配しなくても、ヴェスキア中の男が振り向くような可憐な美女にしてあげるわ」
ふふん、とディアナは自信ありげに微笑んでみせるが、ルシアスは乗ってこなかった。流し目で一瞥を送っただけで、すぐに目を伏せる。
「最低限でいい。酷い見た目でなければ」
興が削がれたディアナは、涼しい顔のままのルシアスに身を乗り出すようにして力説した。
「あのねルース、男相手の話し合いなら小綺麗にしておくに越したことないのよ。高確率で有利に話を進められるから。地味すぎても駄目なの、逆に舐めてかかられちゃうわ。あたしのこの格好だって、威嚇の意味もあるのよ。見た目っていうのはとっても大事なの」
「それはわかるが、これ以上奴に入れ込まれても困る」
胸の前で腕を組み、不機嫌そうにルシアスがのたまう。ディアナは呆れたように嘆息した。
「注文が多いわね。恋人なんだし、わからなくもないけどさ。でもルース、あんただってライラの女性装、見てみたくない? 彼女、顔立ち整ってるし姿勢もいいし、映えると思うけど」
ディアナがそう煽ると、彼はちらりとライラのほうに視線を投げた。
突然のことに、驚いたライラの肩が小さく揺れる。
気まずい沈黙が流れた。
ひとしきり彼女の姿を見つめると、やがてルシアスは淡々とした口調でディアナに告げた。
「地味すぎず派手すぎず、相手の口が緩くなるくらいの華やかさと、舐められないだけの品性と、男に媚びない清楚なものが望ましい」
「……。あんたそれ本気で言ってるんだったら、一回頭から水でも被ったほうがいいわよ」
呆れを通り越してディアナが苦い眼差しを向けても、ルシアスは一向に気にしないようだった。
むしろ、平然として言い切る。
「金に糸目はつけない」
「金ですべてどうにかなると思わないで頂戴!」
もちろんディアナも、すかさずそう言い返す。
すっかり傍観者だったライラだが、そこで遠慮がちに口を挟んだ。
「私が個人的に使うものなんだから、自分で買うよ……」
するとどういうわけか、ルシアスもディアナも鋭い目つきで彼女を睨めつけてきた。
ルシアスはこれみよがしに深い息をつく。
「またお前はそうやって、俺から貴重な機会を奪っていく」
ディアナはといえば、やけに真剣な眼差しでこんこんと諭した。
「ライラ、駄目よ。恋人っていうのはね、お互いの顔を立てることも時には必要なの。合理性を重視するなら、その他大勢の単なる知り合いと何が違うのよ?」
「え? え?」
突然矛先を向けられて、ライラは戸惑うしかない。言われている内容は、わかるようで、いまいちわからない。
「合理性、というか……。私的なもので負担をかけるのは、単に申し訳ないだけだ」
「だから! あんたがそうやって遠慮してたら、相手だって永遠にあんたに甘えられないじゃない。ここはルースに面倒見てもらって、飛び切りの笑顔で感謝しとけばいいのよ」
「あ、甘える……?」
「甘えて甘えさせて、が成り立つのが恋人関係ってもんなの。なのに遠慮して壁作ってどうするの!」
思いもよらなかった点をディアナに指摘されて、ライラは愕然とした。見たことのない世界の知らない文化を目の当たりにしたような感覚で、思考をまとめるのにえらく難儀した。
微動だにせぬまま言われたことを頑張って咀嚼していたライラだが、やがて、茫然自失の状態で呟いた。
「そんなの、考えたこともなかった……」
「ライラ。あんたって本当に、賞金首だけ追いかけて今まで生きてきたのねえ」
まるで無人島で偶然見かけた希少生物でも見るような目つきで、ディアナはライラを見つめた。
ライラはライラで真剣な顔つきで悩んでいたが、不意に顔をあげてルシアスに視線を向ける。
「お、お前も……。私に、甘えたかったり、するのだろうか……?」
苦悩を極めたその表情は強張り、眉間には深く皺が刻まれている。尋ねるその声もかすかに震えていて、悲壮感すら漂っていた。
ルシアスはそんな彼女を黙って見ていたが、随分と長い間そうして眺めたあと、ぽつりと答えた。
「たまには」
「そ、そうか……っ」
無敵を誇っていた自軍の全滅の一報を受けたとか、それに近い衝撃を伴ってライラはその一言を受け止めた。そうか、そうなのかと、独りでぶつぶつ呟いている。
一連の様子を見ていたディアナは、複雑な表情でルシアスに目をやる。
「大丈夫なの、あんた達?」
「平常どおりだ」
短く答え、ルシアスは足を組み直すと、再び新聞をひろげたのだった。