Brionglóid
海賊と偽りの姫

新たな始まり
35
外に出ると、シュライバー家から来た馬達で馬車まわしは混雑していた。
松明はまだ灯っていたが、そろそろ必要ないくらいには辺りが明るくなってきている。
馬の整理に当たっていた男を捕まえて馬車の手配を頼み、ライラとバートレットは彼らの邪魔にならないようその場を離れた。裏庭に続く小道の両脇に花壇があったので、その縁石に並んで腰掛ける。
目の前では手綱を引いて馬小屋に向かう者、縛られて連行されていく破落戸など、多くの人間が行き来していた。
忙しなく動き回る彼らにふたりを気に留める余裕はないらしく、その周辺だけ世界から切り取られたかのようだった。
早朝のしっとりした冷たい空気が頬を撫でる。
頭上では、さわさわと木枝が風に揺れていた。目を覚ました鳥達が、上のほうで賑やかに声を交わし合っている。
「もう朝か。バートレットも疲れただろう」
東から急激に明るくなっていく空を見上げて、ライラは目を細めた。
ついさっきまで夜の帳が降りていたのに、太陽が一旦顔を出せば、明るくなるのはあっという間だ。ライラとしては夜陰に乗じた行動はいつものことだが、仕事明けの朝日が目に染みるのは変わらない。
同時に、一段落ついたという実感も徐々に湧いてきて、疲労とともに身体を満たしていくようだった。
「どうかしたの?」
少し前からバートレットの様子がおかしいのに、彼女も気がついていた。
もとから余計な無駄口を叩く男ではないが、それにしても口数が少ない。表情も硬く、何か思い詰めているようでもある。
バートレットはすぐには応じなかったが、やがて、視線を地面に投げたまま口を開いた。
「……。さっきのあれ。聞き飽きたと言っていたが、お前は……いつもあんな酷い侮辱を受けているのか?」
「え?」
さっきの、と言われてライラは咄嗟に思い浮かばなかった。だが、彼が何を指して言っているのかがわかると、同じようにやり場のない視線を地面に向けた。
誤魔化すような笑みが口もとに浮かんでしまうのは、傷を知られたくないからか、相手を気遣ってのことなのかは、自分でもよくわからなかった。
「いつも、というわけじゃないけど。少なくはないね」
「……」
「仕事柄、ああいうのと関わる機会も多いし。はじめの頃は私も驚いたけど、もう慣れた」
「はじめの頃……」
そこでようやく、バートレットは顔を上げてライラを見つめた。
「その、ライラ。訊いていいのかわからないが……まさか、その手のことで心に傷を負ったりは……」
どきりとして、ライラは目を見開いた。
あんなことを言われて無傷な女などいない──が、ライラは首を横に振った。
「大丈夫。私が旅を始めたのは剣技を身につけてからだよ。驚きはしたけど、そういう被害は受けてない」
少なくとも物理的な被害は受けていないから、嘘ではないはずだ。
すると、こちらを見たバートレットの表情から、明らかに強張りが消えた。
「そう、か……。そうか。よかった……本当に、よかった……」
バートレットは心底安心した様子で、まるで独り言のように「よかった」と何度も繰り返し呟いた。
それから彼は、両手で顔を覆うと大きな溜め息をついた。
「目の前が、真っ赤になった。俺が言われたわけでもないのに」
そして覆っていた手を握り込むと、彼は拳に力を込める。
顕になったその顔は、苦悩の色が濃く浮かんでいた。
「お前があんな侮辱を受けたこと自体が、つらい。すごくつらい」
「バートレット」
「賞金稼ぎのライラなんて、普通の女はもちろん男だって、到底追いつけないほどの功績をあげてる。そのお前ですら、あんなこと言われなきゃいけないのか? まるで物かなにかみたいな言い分だった。お前と比べて、あの男がどれだけのものだっていうんだ。おかしいだろ……!」
彼が紡ぐ言葉は怒声ではなかった。しかし、抑えた声音のそこここに激情が漂う。
バートレットは、ライラを気遣うあまりに自らが傷ついているのだった。
彼らしいなと思ったライラは、今度は作り物ではない微笑みを浮かべた。
「功績がどうのっていう話じゃないんだと思う。例えば、そうだなあ」
普段どおりの声を意識して、彼女は言った。
「性別だけじゃなく、身分だとか職業だとか。そういう、肩書で見下していい相手だと単純に判断してるだけじゃないかな。優位に立てば、自分本位に行動する権利が得られると思ってるんだ」
「あの下衆は酒飲んで怒鳴り散らすのが関の山の、ただの無能者だ。そんな権利は奴にはない」
吐き捨てるようなバートレットの言葉に、ライラは軽く目を伏せる。
「あの男に限らず、本当はそんな権利誰にもないよ。でも富を独占し女性を嬲りものに……なんて、昔からどこの国でも繰り返されてきたことだ。好き勝手やりたいから力に訴え、負けた相手は身の安全と引き換えに従うという構図」
ライラの横顔をじっと見つめていたバートレットは、その言葉に納得していない様子で呟いた。
「今回の場合は、お前のほうが強かったじゃないか」
「うん。戦いを挑めば返り討ちに合うことだって当然あるよ。でも力で屈服させようとして、逆に負けてしまったんだとしたら、本当は相手に従属しなくちゃいけないはずだ。でもあの男は、私に打ち負かされたって、素直に従う素振りなんかなかったよね。すごい目で睨んできたし」
思い出しながら、ライラは苦笑した。
「虚勢を張ってるのもあるだろうけど、自分より弱いから相手を見下げるんじゃない。彼の場合は実際に勝とうが負けようがそれに大した意味は無い。順序が逆なんだよ、支配したいから相手を弱者側に置きたがる。自分を強者にしておきたいから、あんなに必死で見下してくるんだ」
思えばあの男だけではなかった。ライラは何人もそういう相手を見てきたのだ。
女は弱いからと蔑まれ、こちらが叩きのめしてやると今度は反抗的だの化け物だの。弱くないことを証明してみせたところで、何も変わらなかった。
ライラは笑みを崩さないまま続ける。
「私も戦う術を持っていなかったら、気づけなかったことだ。こんな目に合うのは自分が女で弱いからだと、納得すらしていたかもしれない」
「最初から力の勝負ですらなかった、か。わからなくもない」
はあ、と再び大きく息を吐いたバートレットは、目を眇めて不満そうに言った。
「農奴やら女性やら、当然俺達船乗りだって、最初からあれもこれも制限されてるようなもんだ。貴族だなんだという奴らは、そういう世の中を自分達で構築しておいて俺達を見下している。はなから対等な勝負でもないのに勝者気取りとは、笑わせるよ」
それから彼は、またライラの横顔をじっと見た。
「でもお前は、それを覆すだけの力を持ってる。それでも認められないなんて、虚しくはならなかったのか?」
ああ、と答えたライラは肩を竦め、わざと大口を叩いてみせた。
「あっちが勝手に勝者を自称しているだけだ。それに合わせて負けてやらなきゃいけない道理はないからね。いざとなったら、勝者のまま泥の味を覚えさせればいい。そのために強くなったと思えば虚しくはない」
「……お前が庶民の間で人気になるのもわかるな。俺みたいな底辺の人間からすれば実に爽快だ」
小さな笑いを誘われたバートレットは明るい色合いの目を煌めかせたが、すぐにその光は消えてしまった。
憂鬱そうな表情で彼は言った。
「だが……さっきの下衆みたいなやつは、もうひとつの意図がある」
「うん、わかってる。だから尚更負けるわけにいかない」
無論、ライラも嫌というほど承知していたことだった。対峙した相手が捕食者の目で自分を見てくるのは、殆ど毎度の話である。
あの髭面の男の言っていたことは誇張でも冗談でもなく、彼がそうしたい、そうするつもりだと宣言していたにすぎない。
あっちは勝てば好き放題にする権利を得られるが、ライラは勝てたとしても身の安全が得られるだけ。今までどおりの生活を守る、そのために必死で剣を振るうのだ。
ライラ・マクニール・レイカードはまるで、指先一本動かしただけで、あらゆる敵に圧勝しているかのように噂されているけれど。
そのことにも思い至っているらしいバートレットは、片手を頭部に突っ込んでぐしゃぐしゃと掻きむしった。
「ああ、無性に謝りたい気分だな。俺達男の中には、若い女というだけで見境なくすような奴が、残念なことに少なくない。お前が言ったとおり、不公平な立場に置いた上で女を食い物にしようとする。さらに正当化して、あろうことか保身に走ったり……」
「力の勝負に持ち込めば私は何とか勝てるけど、大体の女性は泣き寝入りするしかないものな」
ライラも溜め息を禁じえない。
まだまだ女性の立場が弱いこの社会を思えば、何もできない歯がゆさを持つという面ではライラも彼と同じだ。
乱暴された女性が抵抗して悲鳴をあげれば、何故かその女性が投獄される、そんな世の中なのである。善良なる男を、それも伴侶でもない相手を誘惑するとはけしからん、というわけだ。
そして、そのことにおかしいと声をあげるよりも、乗っかって旨味を味わう者のほうが多いのが実情だった。
「無理な相談かもしれないが、男すべてがあんな下衆だと思わないでくれたらと、そう願うばかりだよ。俺としては」
申し訳なさそうに言うバートレットに、ライラは弱い笑みを向けた。
「確かに、力に訴えるのは男性に多い気がするけど、身勝手さに男も女も関係ないんじゃないかな。旅先で女性に──はっきりとは言われないんだけど、何度か示唆されたことがあるんだ。ここに残って自分達を守れ、私ひとりが逃げることは許さないと」
「逃げる? ……ああ」
バートレットはすぐに理解した。
都市部もそうだが、小さな農村や漁村では、女達はさらに抑圧されて生きている。
性差による理不尽な環境の他にその土地の閉鎖的な慣習もあり、良き妻良き母であれという重圧は実情にそぐわないほど過度な場合があった。
そんな彼女達から見て、何者にも縛られず自由に旅をしているライラに羨む気持ちが出るのも自然なことだ。
ただしその羨望が、妬みに変わるのもあっという間なのだろう。噂に聞くだけならまだしも、本人が目の前に現れたとなれば特に。
「強者の側だけじゃなく、弱い立場の奴も従えと言ってくるわけか。やりきれないな」
目を丸くしたバートレットは、それから表情を曇らせる。
「自由と危険は隣合わせだなんて、村から出たことのない人間にはわからないだろうが……。ちなみに代償は?」
「村の名士と結婚させてもらえる権利。半ば強制だったから、慌てて逃げたよ」
当時まるで夜逃げのようにして抜け出してきたのを思い出し、ライラは含み笑いを漏らす。
そんな彼女に、バートレットは呆れたような目を投げて寄越した。
「笑ってる場合か。事実上の隷属契約じゃないか」
「だから、いろんな人がいる。それだけのことなんだ」
それを聞いたバートレットは、この話を始めてから何回目になるかわからない溜め息をつく。
「……。俺がその立場だったら、怒りか絶望か、どっちかに支配されている気がするな。お前は強いよ」
「強さじゃない。ある程度は割り切らないとね。前に進めないから」
その言葉のとおり割り切った表情をみせるライラに、バートレットは顔をしかめた。
「俺は割り切れない。お前がさっきみたいなことを言われるのは嫌だし、都合良く使われるのも嫌だ。慣れたなんて言ってほしくもない。なんでお前が、無償の奉仕を強いられなくちゃならないんだ。お前が侮辱されるのだって、どう考えても違うだろ」
怒りの滲む彼の言い分に、ライラはきょとんとする。
それから彼女は、ふわりと微笑った。
「バートレットは相変わらず優しいな」
「違う。ライラ、そうじゃない。お前も怒っていいんだ。慣れなくていいし、耐える必要もないんだ」
バートレットはそんな彼女の目を真っ直ぐ見つめ、力強く言った。
ライラは、過去にも彼と話していて、今と似たような感覚になったことを思い出した。
生真面目で正義感の強い彼は、ライラがこれまで置かれてきた不条理な状況に、いちいち本気で怒ってくれる。そして、彼女自身が負っているにも拘わらず目をそらしてきた傷を思いやり、心から悲しんでくれるのだった。
「……そうか。そうだな」
ライラは不意に胸の奥が熱くなるのを感じた。冷たい印象がする蒼灰色の瞳の奥にある、彼の暖かさに触れたからかもしれない。
なんて綺麗なのだろうと思いながら、ライラは彼の瞳を見つめ返した。
「ただ、残念だけどまだそういう世の中じゃない気がする。いつかそんな社会になるのかもしれないけど、今じゃない。抗うつもりなら、人生をかける覚悟でいかないと。私には別の目的があるから、私はこれからも平気な顔をしていかなくちゃいけないんだ」
それからライラは、意識して作った明るい笑顔を彼に向けた。
「でも、あなたの前でだけでも怒ろうかな。もしよければだけど。そのときはお酒をご馳走するよ。高いやつ」
その意図を察したバートレットも、ふっと笑みを浮かべる。
「いつでもどうぞ、だな。ただ、その相手は別に頭領でもいいとは思うが」
「なんでだろう、あいつにこういう話はしたくないんだよな」
ライラは首を傾げる。
好敵手時代の名残なのか、ルシアスに対してどこか強がっている自分がいるようだ。すべてを曝け出したところで、あちらは涼しい顔で全部受け止めてみせるのだろうが。
ううむ、とライラが唸っていると、バートレットが不意に顔を近づけてきた。
「ライラ。目、ちょっと赤くなってないか?」
「え?」
我に返ったライラは、すぐに何のことか理解した。自分でも気になっていたのだ。
「ああ。戦ってるときに、目に埃か何かが入ったみたいで。ごろごろしてるんだ」
「こするなよ、俺が取ってやる。もう少し明るい所に行こうか」
ふたりは木の陰にならない場所まで出た。
バートレットに促されて顔を上げると、すっかり明るくなった空に気がついた。これでまた、一日が始まる。
彼はしばらく真剣な表情でライラの目を覗き込んでいたが、慎重に埃を取り除くと、その表情を和らげた。
「よし、取れた。どうだ?」
「すっきりした。ありがとう、ずっと違和感が」
あって、と続けようとしたライラの言葉に、男の声が被さったのはそのときだった。
「──リーシャ?」
第五章 Fin.