Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

新たな始まり

25

 そのとき、すぐ裏の辺りからけたたましい音が聞こえてきた。
 そしてそれは一度では終わらず、二度三度と続く。

 異常を察して、ふたりは裏に繋がる廊下へと向かった。すると、酒貯蔵室の入り口前の暗がりに、下男のヨハンが立っているのが見えた。

 ブレフトとトビアスに気づくと、彼は憂鬱な表情になり『申し訳ございやせん』と深く頭を下げた。

 その左頬には赤黒い痣が出来ている。それが見えたのは、普段は施錠管理されているはずの貯蔵室の扉が開いて、内部の明かりが漏れているからだ。鍵はもちろん、力ずくで奪っていったのだろう。

 トビアスがヨハンに事情を聞くより早く、中から怒鳴り声がした。
『なんだ、ろくに残ってねえじゃねえか!』

 また、大きな音。
 室内の連中が、空になった樽を力任せに薙ぎ倒しているらしい。

 一家が住んでいた当時は切らさないだけの酒を常に備蓄していたものの、今は最低限の樽をいくつか運び入れた程度だった。それでも少なすぎるという量ではなかったはずだが、連日飲んだくれるにはさすがに足りないに違いない。

『前金代わりなんてでかい口叩くくせに、ケチりやがって!』
 怒声と耳障りな騒音が続く。この様子だと、樽だけでなく棚や壁も無事では済むまい。

 トビアスは、間一髪のところでブレフトが踏み出すのを止めることができた。
 ブレフトが非難の目を向けてくる。彼には、思い出の詰まった建物を無頼漢に蹂躙されるのが耐えられないのだ。

 だが、トビアスは苦渋の思いで首を振った。
『なりません、危のうございます』

 小声で言ったはずなのに、どうしてかピタリと騒音がやんだ。
 不穏な静寂が辺りを包む。
 トビアスはブレフトを背に庇うようにして、貯蔵室の入り口に向き直った。

 中から現れたのは、大量の酒によって淀んだ目をした男達だった。
『おやおや……、今夜は客の多い夜だ。舞踏会でも始まるのかね?』
 赤毛で伸ばしっぱなしの髭を酒で湿らせた男が、にやけ顔で言う。

 トビアスの後ろにいる人影を見るなり、男は笑みを深くした。
『そうか、あんたが俺らの旦那様ってやつだな?』

 たじろぐブレフトの顔が見えたわけではないが、トビアスは男を睨みつけた。
『この方に気安く近寄るな』
『お前じゃあ話にならねえんだよなあ、執事さん。お前のほうこそ黙って引っ込んでろや』

 男は引くどころか、あからさまに蔑んだ目を向けてトビアスを恫喝した。
 それから男は、にやにやしながらブレフトに言った。

『旦那様よう。あんたの前じゃこんな忠義面してるが、こいつは食えねえ男だぜ。精々、出し抜かれないよう気をつけるこった』

 その言葉にブレフトが動揺するのも無理はない。ちょうど、彼には思い当たる節があったのだから。
 そして悪党にとって、そういった心の揺らぎを目敏く見つけるのなんて朝飯前なのだ。

 男はブレフトに対し、哀れっぽい声で訴えてみせた。

『俺達もな、こいつに振り回されて参ってたところなんだよ。ついさっきだぜ、明日の朝ここを出ていけっていうんだ。捕まえてた女も逃しちまったしよ』
『……なんだって?』

 ブレフトは愕然とした。
『女を、逃した……?』

 トビアスは何も言わない。ブレフトは信じがたいものを見るような目で執事を見つめ、事実なのだと悟ると、トビアスの胸ぐらを掴んだ。

『お前、何てことをしたんだ!? あれは切り札だぞ、それを、どうして!』
『ブレフト様、説明をさせてください……っ』
『請わずともさせてやるっ! どういうことだ、トビアス!』

 襟元を締めあげられても、トビアスは文句を言わなかった。その苦しい姿勢のまま、まっすぐに主人を見た。

『女を……逃がしたのは、故意ではありません……。彼女の身内が、救出に動いたようです……っ』
『身内だと?』
『あれは……ただの、女ではありません……。餌にして脅すなど、以ての外。交渉を、有利に進めるどころか……、報復を、受けるでしょう……!』

 すると、髭の男がせせら笑うように茶々を入れた。
『報復だってよ。嘘つきの執事さんは想像力が豊かだねえ!』
 他の男達もゲラゲラと笑い声を立てる。

『旦那様、今ここに来るなんて運が良かったな。明日の朝になったらこの執事、ヴェスキア中どこ探しても見当たらねえってことになってたかもしれねえよ!』
『違ぇねえ!』
 不快な笑い声が廊下に響き渡った。

 ブレフトはトビアスから手を離すと、男達を正面から睨んで毅然と言い放った。
『勝手なことを言うな。トビアスはそんな人間じゃない!』
『ブレフト様……!』

 庇われたことよりも、男達の挑発に乗ってしまったことへの危機感から、トビアスはブレフトを止めようとした。このままでは相手の思う壷だ。

 しかし、狙い通りに獲物が網にかかったと見た髭の男は、もうひと押しとばかりにブレフトに向けて(さえず)る。

『そんな人間? こいつがどんな人間か、あんた本当にわかってるのかい? 今だって、勝手やらかしたことについてはお怒りなんだろう? この執事が本当に忠実なんだったら、女が逃げた時点で追手を出すべきだったのさ。でもこいつは、それを静観したんだ!』
『……っ』

 唇を噛むトビアスを、ブレフトが振り返る。主人の目を、トビアスは正視できなかった。

『どういうことだ、トビアス』
『……ブレフト様。申し上げにくいことですが、この件はもう手放すべきです。これ以上は……』
『そんなことは聞いていない! 僕はまだ、諦めるなんて言っていないぞ!』

 弁明を遮るようにブレフトは叫んだ。
 トビアスの腕を掴み、激しく揺さぶりながらブレフトは問い詰める。
『何故、勝手なことをした? 何故僕に逆らったんだ!』

 しかし、トビアスは黙って彼を見つめるのが精一杯だった。
 執事から何の言葉も引き出せないとわかると、ブレフトの表情がくしゃりと歪んだ。

『お前だけは、信じていたのに……!』
 主従の悲痛なやりとりを、下男は傷ましそうに見守っている。

 だがもちろん、飲んだくれの男達はどこ吹く風で、むしろ余興を楽しむかのようににやにや笑いながら眺めていた。あーあ可哀想になあ、なんて(はや)し立てすらして。

 頃合いを見計らって、髭の男がブレフトに言った。
『なあ旦那様、今からでも俺達を雇っちゃどうだね。嘘つき執事なんかより、いい仕事してやれるぜ』

『やめろ、ブレフト様を悪党の道に引きずり込もうとするな!』
 怒鳴るトビアスを、男は挑戦的な目つきで睨み返した。

『今更じゃねえか、もう誘拐も脅迫もやっちまってる。それにだ。どうせ旦那様は、あの女を(なぶ)り物にするつもりでここに来たんだろ?』

 その一言は、トビアスを凍りつかせた。

 薄々勘付いていながら何度も胸の内で否定してきたその可能性を、正面から突きつけられたのだった。
 すぐに白を切るべきところを怯んでしまったのは痛恨の極みだったが、それ以上の打撃をトビアスに与えたのは、当のブレフトが何も言わなかったことだ。

 若い主人は唇をぎゅっと引き結び、この侮辱に反発もせず黙っている。
 トビアスは、絶望の淵に叩き込まれる思いで項垂れた。

 核心を突いたことで、勢いづいた髭の男が続ける。

『頑として動かない海賊に発破をかけるのに、女を傷めつけようってわけだ。いいじゃねえか、利用できるもんはとことん利用する! もう立派な悪党だよ!』
『ブレフト様……』

 トビアスは、あるかどうかもわからない最後の望みに縋るように名を呼んだ。しかし、ブレフトは応えない。

 髭の男はそんな執事をあざ笑った。

『嘘つき執事さんよう! ご覧のとおりさ! あんたが後生大事にしていたお綺麗なブレフト様は、もうこの世にはいないってよ!』
『……貴様っ』

 憎悪の炎がついに理性を焼き切り、トビアスが悪意の笑顔を浮かべる男に殴りかかった。
 ブレフトは思わず叫んだ。
『駄目だ、トビアス!』

 何がどう駄目だというのか、考えての発言ではない。ただ、圧倒するほどの危機感がブレフトに声を上げさせたのだ。

 振り上げられた執事の拳は、宙で止まった。

 トビアスは強張った顔でゆっくりと胸部を見やり、それからブレフトのほうへ首を曲げた。

『ブ、レ……さ……』

 驚愕と絶望と、親愛と悔恨と。様々な感情がその顔を彩り、最期に名を紡ごうとした口からは血が吹き出してそれも叶わず、トビアスはその場に崩れ落ちた。

 一瞬の出来事に思考が追いつかないブレフトは、呆然とその光景を見つめるしかない。
『トビアス……?』

 視線の先では、倒れたトビアスの胸から大量の血液が流れ出し、瞳からはたちまち光が失われていく。

『え……? 何、なんで、こんな……』
 意味のない呟きを漏らしながら、ブレフトはのろのろとした動きでトビアスの傍に膝をついた。
 床を濡らす血が、彼の服にも染み込んでいく。

 その様子を見下ろしながら、短剣を手にした髭の男は興ざめしたように吐き捨てた。
『ふん。ケチな上に堪え性もねえ。最初から素直にしときゃ、こうならずに済んだのによ』

 恐怖に駆られたのか、それまでただ立っているだけだった下男のヨハンが、身を翻して一目散に駆け出した。
 髭の男は舌打ちし、他の男に鋭く命じた。
『逃がすな、始末しろ!』

 三人がヨハンを追って走る。
 ヨハンは薄暗い食事室を駆け抜けようとしたが、あと一歩のところで背後から飛びかかられてしまった。もみ合うようにして床に転げる。

 二人が彼を抑えつける中、一人が壁際に飾られた武具から槍を見つけ出した。
 肉を貫く鈍い音を掻き消すほどの断末魔の声が響く。

 その頃になると、さすがにブレフトも状況を理解し始めていた。
 だが、何もできなかった。走って逃げることも、立ち上がって戦うことも。

 涙を流しながら青褪めた顔を上げると、髭の男と視線が合った。

『さて。静かになったところで仕事の話でもしようかい。あんたも素直にしといたほうが身のためだ、わかってるよな?』
 男はそう言って薄く笑った。