Brionglóid
海賊と偽りの姫
新たな始まり
19
いくらヴェスキアといえど、繁華街を離れれば夜はそれなりに暗い。
床に就くには早い時間で、家屋の明かりが漏れているのをそこここに見かけはするものの、外を出歩く人影は見当たらない。
昼間の喧騒に取って代わるのは、草むらに潜む虫の声だ。細かな鈴のようなその声に四方を囲まれていると、空に広がる星々が奏でているのかと錯覚しそうになる。
これだけ星が出ていれば充分だと、バートレットは思った。
大海原で迎える船上の夜は、人家の明かりがない分ずっと暗いのだ。その中で水夫達は、星を読んで方角を決め、帆を操る。
夜目を鍛えられた彼にとって、この星明かりなら行動するのに何の支障もなかった。
フリッツの話に従って敷地内に侵入した彼とライラは、建物の裏手まで難なく来ることができた。他にもうひとり、ファビオの部下のペドロという青年が一緒だった。
古い石造りの建物は、正面こそ外観重視で窓が大きめにとられているが、裏側はそうでもない。灰色の壁の中、一定間隔をあけて地味な四角いくり抜きが並ぶだけである。
そして、かつてどの窓もそうだったように硝子はなく、味気ない木製の鎧戸が閉じられていた。
それを見たライラは、ふたりに向けて頷いた。いけそうだ、と。
角灯の使えない中でライラがそう判断できたのは、旅券手続きで下船したときに、街をそれとなく観察していたからだ。
この地域の窓辺には、防犯と装飾を兼ねた飾り格子が嵌っている。しかし装飾を必要としない裏手の小さな窓や、守るべき住人のいない古い建物は別だ。そして、鎧戸の多くは掛け金式だった。
彼らは事前に目星をつけていた箇所を、船乗りの夜目によって探しだした。
ライラが小剣の刃を鎧戸の隙間に差し込む。手首を軽く動かすと、小さな音を立てて鍵が外れた。
「開いた」
そう呟いて、内開きの鎧戸を静かに開ける。ライラは腰の剣を外して持つと、窓枠に手をついて身を乗り上げた。子供がやっと通れそうな狭い窓から、まるで猫のような動きで屋内に滑り込む。
手慣れたやり口にバートレットが半ば唖然としていると、少し離れた所にあった使用人用の扉が開き、顔を出したライラが手招きした。
フリッツの記憶は確かで、それは数年を経ても有効だったようだ。今のところ順調である。
見張りのペドロを残し、バートレットはライラの跡を追うように屋敷に入った。
そこは食料貯蔵室のようだった。しかし、闇の中でさえしばらく使われていないのがわかるほど、がらんとして物が少なかった。埃をかぶった棚に、箍の緩んだ古い桶や柳細工の籠が放置されている程度である。
更に廊下に出ると辺りは暗く静まり返り、人の気配はない。音を出さないよう、ふたりは慎重に奥へ進んでいく。
次に、長卓の置かれた広間に出た。恐らく召使いが全員で食事をしていた部屋だ。壁には古い型式の鎧や兜、槍、剣などがずらりと掛けられている。領民を兵として送り出すことが義務とされていた時代のものだろう。
そこを過ぎると、次の廊下の行く手に人影を認めた。ライラはバートレットに立ち止まるよう手振りで示しつつ床を蹴った。
手持ち無沙汰な様子で立っていたその男の背後に回り、瞬時に首に腕を回して絞め上げる。
苦悶の表情で喘いだ男の目の前に小剣の切っ先を突きつけ、ライラは「騒ぐな」と耳元で低く言った。
「女が一人囚われているはずだ。知っていることを話せ。妙な真似をしたら片目を失うぞ」
男は自分の自由を奪ったのが小娘と知るなり、小剣からできる限り顔を背け、もがいて振り払おうとした。すかさずライラが首の拘束を強めると、男は呻き声を漏らして暴れるのをやめた。
「俺は知らない……!」
「公用語、理解できるんだろう?」
返答の速度からライラがかまをかけると、男は脂汗を吹き出し、苦しそうな息の下から言った。
「お、女は、いる……。でも、詳しいことは、知らされてねえ。お、俺はただ、酒を買う金が欲しくて」
「この建物に詰めている人数は?」
「だから、知ら、ねえよ……っ」
ライラが更に切っ先を近づけると、男は泣きそうな顔になった。
「本当、だって!」
するとバートレットが男の正面に立ち、冷たい表情と口調で告げた。
「女がいる場所と、ジャック・スミスという男のこと。それだけでも話せば生命はとらずにおく。だが、朝まで待つほど俺達は忍耐強くないぞ」
「ぐ……っ」
ライラだけならまだしも、バートレットもいるとなると勝ち目はないと思ったのだろうか。
男は観念して、知りうる限りのことを話したのだった。
フリッツ達を乗せたシュライバー家の馬車は、ライラ達とは別に旧ファン・ブラウワー邸を目指していた。
一帯は、目当ての建物以外は庶民の住む小さな家屋ばかりだ。その殆どは漁業に従事する労働者だろう、庭先に網を干している家もあった。ささやかな家畜小屋を設けているところもある。
街の中心部と違って、この辺りは舗装のないあぜ道だった。道幅が広いために馬車の走行は可能ではあったが、道路事情はそれほど良くはない。
雨の日には厄介な泥濘だったろう箇所が、晴れた日に乾燥して頑固な轍となり、どちらにしても車輪がとられてしまうのである。
庶民は金を払ってまで馬車を使うようなことはせず、移動の際は単騎での乗馬か徒歩なので、自分達にとって何の得にもならない通路の整備などするわけもなかった。
路の凹凸に車輪が嵌る度、馬車は派手に揺れた。
フリッツは既に蒼い顔をして俯いてしまっている。同乗しているファビオとハルは、揺れについては大丈夫でも、狭い箱の中で膝や肩を何度も強打するのには辟易していた。
『うう……気持ちが悪い……』
口もとを抑えて前屈みになったフリッツに、ファビオが慌てた。
こんな狭い密室で嘔吐されてはたまらない。
「待て坊っちゃん、この中はまずい。一人前の男ならここは我慢だ。……おい御者、一旦止めてくれ!」
しかし悪路のため、ガタガタと音が激しいせいか聞こえていないようだった。ファビオは舌打ちし、御者台側にある小窓を開けて改めて怒鳴った。
「止めろったら!」
すると馬も御者も驚いて、ついでに車輪が妙なところに掛かったらしく、一際大きな音を立てて脱輪してしまった。
「マジかよ……」
呆然とする船乗り二人をよそに、フリッツは外に飛び出して地面に蹲った。
近隣の家では鎧戸の隙間からこちらを伺っている。路の先にある旧ファン・ブラウワー邸の方角からも、人の声が聞こえてきた。
「……さて、こいつはどうしたもんかねえ」
幸先の悪さにファビオは嘆息した。
極力人目につかないよう馬車で待機するという予定が、あっけなく崩れ去ってしまったのである。
しかし苦しそうなフリッツの姿を見ては、責める気にもなれない。
ハルが傍らに膝をついて、フリッツの背中をさすってやっていた。仕切り直すのにしても、これではすぐに動くのは無理だとファビオも思った。
「坊っちゃん大丈夫かい? しんどいところ悪いんだが、口裏だけは何とか合わせてくれよ」
こうなった以上、もう腹を括るしかないだろう。
ハルとファビオの視線の先では、旧ファン・ブラウワー邸の門から明かりを持った男達がこちらを見つけて向かってくるところだった。
遠くから聞こえてきた音に、ディアナは目を開けた。
聞き覚えのある音だ。何かが壊れるような。
しかし静まり返った夜だから聞こえてきたに違いないそれは、恐らく敷地外から届いたものだと思われた。
もちろん、部屋の片隅でじっとしていたジャックも顔を上げている。
「何の音かしら」
ディアナの呟きには応えず、ジャックは静かに立ち上がった。閉じた鎧戸に耳を当てて、しばらくじっとしている。
やがて、この建物のどこかの扉の開閉音がディアナの耳にも聞き取れた。更に、複数の話し声と足音が遠ざかっていく。
物音ひとつに狼狽え過ぎじゃないの、とディアナは思った。
ジャックのような男がいる一方で、ここの連中はどうも動きに斑がある気がする。指示が細部まで行き渡っているように見えないのだ。
ファビオやルシアスが行動を起こしてくれたのかとは、ディアナも考えなくもなかったが、何かの合図にしてはあの音は不向きだ。その辺の住民の生活音と区別がつきにくいのである。
室内に沈黙が続く中、いつの間にかやんでいた虫の声が、再び外からちらほらと聞こえ始めた。
「どこかの家の椅子でも壊れたのかねえ」
ディアナは特に返事を期待せずに独りごちる。
しかし今度はジャックは無視をしなかった。振り返って、不敵な笑みとともに応えた。
「そうかもしれない。入り込んだ鼠も、思わず驚いて飛び跳ねたようだよ」
「……何だって?」
ディアナが聞き返す。ジャックは部屋の扉に手をかけているところだった。
彼のその横顔は、ディアナに対して気さくに接していた人間とはとても思えない。無駄のない鋭さと、造形の美しさが相まって禍々しさすら感じる。
ディアナはエステーベの教会で聞いた話を思い出していた。冷酷と高慢の罪によって神の御下から追放された、美しい堕天使の話を。
「様子を見てこよう。僕が狙っている鼠だといいんだが」
そう言い残して、ジャックは部屋を出ていった。