Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

新たな始まり

05

 明くる日は、この季節にしては朝から日差しが暖かく、甲板で作業する乗組員達も腕まくりをしているほどだった。心なしか、海鳥たちの声も昨日までより元気なように聞こえる。

 そんな露天甲板で、ライラはその日の午前を、レオンとバートレットに組紐を教わって過ごしていた。
 切れてしまったり短すぎて長さが足りなかったりする支索を組接ぎする方法や、紐を編んで太く丈夫にする方法は、船乗りには必要不可欠の知識だ。幼い頃からやっているという二人は慣れたもので手早く編めるのだが、ライラのために何度も解いてはゆっくりと編み直してくれた。

 そんな彼らの許にやってきたのは、人魚(シレーナ)号での毎朝の診察を終えて戻ってきたジェイクである。仕事道具の入った鞄の他に、彼は何故か花束を持っていた。
 船医(サージェン)の見慣れない姿に、三人だけでなく甲板にいた他の海賊達も思わず注目する。

 ジェイクは自分に集まった視線を物ともせず、まっすぐ歩いてきてライラの前に立った。
「ライラ。ファビオから預かりもんだ」
「預かりもの?」
 立ち上がって出迎えたライラに、彼は半分押し付けるようにしてそれを手渡した。

 寄越された花束を何気なく覗き込むと、橙や白、朱といった色合いの秋の花達の間に、二つ折りの小さな紙片が挟まっている。
 状況が把握できないまま、ライラはそれを取り出して開いてみた。

「……」
 公用語で綴られた短い言葉を読むのはライラには造作のないことだったが、口に出すことには抵抗があった。
 しかし、彼女の手元を覗き込んできた船医(サージェン)が、それをあっさりと読み上げてしまう。

「“人生に過ちはつきものだ、君が目覚めるのを俺はいつまでも待っているよ”、か。あいつらしいな」
「人生の過ち……? 頭領とライラさんのこと、向こうで言ったんですか?」
 レオンが尋ねると、船医(サージェン)は平然と頷いた。

「セニョリータの今後の予定を教えろって、うるさかったからな。変に気を持たせるよりいいだろ」
「文面からすると、諦めてなさそうですけど」
 苦笑いを浮かべるレオンの隣で、バートレットは目を眇めてとことん嫌そうに言う。
「そんなもの、海に捨てていいんじゃないか。死ぬまで馬鹿みたいに待っていればいいんだ」
「花に罪はないだろう」
 ライラは反射的に彼を諌めたが、しかしその花束をどうするかという問題はあった。

 いくら色恋の経験が浅いとはいえ、これをルシアスの目に触れる場所に置くのがまずいことくらいライラにもわかる。だからといって、海に投げ捨てるというのも気が進まなかった。

 と、まるで狙いすましたかのように船長室(キャプテンズ・デッキ)の扉が開いた。

 四人がそれぞれそちらに視線を転じると、中から奮然とした様子で出てきたのは立派な天鵞絨(ビロード)の上着を着た若い男だった。部屋の外で待機していた二人の従者が、慌てて主人の後を追う。

 商人ではなく貴族だな、とライラが眺めていると、不意に男が彼らを──海賊船におよそ似つかわしくない、花束を抱えた若い娘を見つけて怪訝そうな顔をした。それから品定めでもするかのように、ライラの顔をじろじろと見つめてくる。
 あまりにも不躾な視線にライラも軽く睨み返すと、男は怯んで視線をそらした。

 そこへ、彼を追いかけてきたスタンレイがすかさず男に歩み寄り、
「お帰りはこちらです」
と、下で待機している小船の位置へ案内しようとした。

 男はそんな航海長(マスター)を睨みつけた。
「海賊の分際で私に気安く近寄るな!」
「ではとっとと出ていくことだ」
 男に遅れて甲板に出てきたルシアスが、彼の背後で腕組みをして冷たく言い放つ。
「ここはそもそも海賊船なのだからな」

 頭領の不機嫌を見て取った航海長(マスター)は、それ以上場が荒れないうちにと思ったのか、男を庇うようにしてやや強引に船舷の縄梯子に案内していく。
 今度は男も抵抗しなかった。ルシアスに威嚇されたのもあって、怯えたように慌てて縄梯子を降りていった。

 船長室(キャプテンズ・デッキ)からは他にカルロも出てきたが、彼も浮かない顔でその光景を見守っていた。

 ライラが朝から外に出ていたのは、ルシアスの許に来客があったためである。
 さっきの貴族がそうなのだが、何の話かはともかく決裂したのだろう、と彼女は思った。

 ルシアスの機嫌が悪いのを察知したのは航海長(マスター)だけではない。露天甲板にいた全員が黙りこくってしまっている。
 やがて、気まずい空気に耐えきれなくなったカルロが、溜め息とともに口を開いた。

「まったく、シュライバーはなんであんなのを使者に寄越したんだ?」
「さてね。どうせつまらん取引でもしたんだろう」
 ルシアスが皮肉げに笑う。
「こちらの要件は見積書だけだ。今後あの馬鹿に会うこともないさ」

 と、そこで彼がライラ達のいる方向へ視線を向けた。
 つい傍観してしまって花束を隠すことすら思い浮かばなかったライラは、そのまま射抜かれたように立ち尽くした。

 彼女を見据えるルシアスの目が、すうっと細くなる。

 レオンは表情はそのままに「怖い怖い……」と小さく呟き、ジェイクは「こりゃまずいな」と苦笑する。
「ライラ」
 ルシアスの声が飛ぶ。
「こっちへ」
「……」

 自分が何か悪いことをしたわけでもないのに、ライラは思わずぎくりとした。
 バートレットは横目でそんな彼女をちらりと見やり、
「運が悪かったと思って諦めろ。頑張ってこい」
 骨は拾ってやるとでも言いたげな口調で囁いた。

 薄情な男達に文句を言うわけにもいかず、ライラは仕方なくルシアスの方へと足を踏み出した。
 ルシアスは、彼女を迎え入れるように扉を開いて待っている。

 入り口近くにいるカルロも一緒に来てくれないかとライラは密かに願ってみたものの、残念ながら彼は軽く会釈してふたりが室内に入るのを見送っただけだった。

 連れ立って船長室(キャプテンズ・デッキ)に入ると、扉が閉まった途端ルシアスは苛々と溜め息をついた。
 その不愉快の原因が来客なのか自分なのかわからず、ライラは黙っているしかない。

「そう構えるな。苛ついているのはお前のせいじゃない」
 部屋を隔てる衝立の傍らに立ったままの彼女に、ルシアスはそう言った。
 言葉通りに受け取ると危険だぞ、とライラの本能が小さく警鐘を鳴らす。

「で、その花はどうした」
 ほらやっぱり。
 ライラはうんざりする気持ちを何とか押し隠した。
「ファビオから私に、だそうだ」
「……花が好きか?」

 ルシアスはあくまでも感情の見えない口調で尋ねてくる。
 ライラは警戒を解かないまま平静を装って答えた。
「別に好きでも嫌いでもないよ。こういう形でもらうのは初めてだけれど」

 しかし、綺麗な草花を見て気持ちが華やぐのも自然なことだ。
 穏やかな眼差しを花束に向ける彼女を見て、ルシアスは何を思ったのか、急に声を鋭くした。

「それは捨ててしまえ、花ならいくらでも買ってやる」
「お前もか。どいつもこいつも」

 ライラは肩を竦めて独りごち、それから二歩三歩、わずかに歩み寄って彼をまっすぐ見つめた。

「ルース、こんな花ひとつに目くじら立てることもないだろう」
「お前に贈り物をするのは俺の役目だ。しかも最初のものを。他の男に先を越されるわけにはいかない」

 その言い分にライラは呆れた。そんなつまらないことで、などと言ったら恐らく彼は怒るのだろうが。

 しかし、誰かと共に在るということは、その些細な物事一つひとつについてお互いすり合わせていくということなのかもしれない、と彼女は思い直した。
 きっと、無下にしてはいけないことなのだ。もう自分は一人だけで生きているわけではないのだから。

「不可抗力だったとはいえ、不快にさせてすまない。……ただ、最初の贈り物なら、私は既にお前から貰ってるよ」
「は?」

 意味がわからない、といった顔をするルシアスに、ライラは短く告げた。

「水と林檎だ」
 ルシアスは、更に困惑したらしく眉間に皺を寄せる。
「あんなもの、贈ったうちに入らんだろう」
「そうかな。飢え乾いた旅人には宝石よりも水、というだろう。酔っ払いも同じだ。宝石や花束より、冷たい水や林檎のほうがありがたい」

 ルシアスはしばらく疑わしげな目で彼女を見ていた。
 が、ライラが冗談で言っているわけでもないとわかって、面白くなさそうに呟いた。

「……。色気のない話だ」
「そりゃ申し訳ない。元からこういう人間なんだ。色っぽい話がしたいなら他を当たるしかないが」
 淡々とそう言ってから、ライラは悪戯っぽく彼の目を見上げた。
「どうする?」
「まさか」

 ルシアスは愚問だとばかりに真顔で即答した。ライラはその答えに小さく笑む。
「なら問題ないだろう。一般的には、女には花なのかもしれない。でも、お前は悪酔いした私に澄んだ水をくれた。私はそっちのほうがいいな」

 その微笑みに虚を突かれたルシアスは、愕然とした様子で彼女を見つめる。
 やがて彼は表情を緩め、体内に残った苛立ちの欠片を全て押し出すような、深い溜め息をついた。
 そして再び彼女を見返したときには、普段の彼に戻っていた。

「まったく。お前には敵わんな」
「納得してもらえたようで嬉しいよ」

 何とか乗り切ったようだと、ライラは早速室内を見渡した。
 机上に置くような花器は船内では使えないので、紐か何かで吊り下げて壁に固定できる容器がいい。小振りの酒瓶はなかったっけとライラが物色していると、その姿を眺めていたルシアスが言った。

「だが、花は贈らせてもらうからな」
「……。細かいことに拘るんだなあ」
 呆れたライラが顔を上げて振り向くと、ルシアスは髪をかきあげ、苦笑いしながら言った。

「男の意地というやつさ。必死になりたいんだ、悪いがこの茶番に付き合ってくれ」
「よくわからないけど、わかった」
 そういうものかと、ライラは深く理解するのをやめて適当に頷いた。