Brionglóid
海賊と偽りの姫
海港都市ヴェスキア
24
そこから酒が運ばれてくるまで、ふたりは一言も話さなかった。
船長室の奥の私室で、ルシアスは執務机の傍らに立ち、ライラは壁際の寝台に腰掛けている。
視線を合わせるどころか、お互いの顔すら見ない。そうなると、酒が運ばれてきた時点で何か言わないことには、きっかけを永遠に失ってしまいそうだった。
黙ってルシアスが酒を注いだその隙に、ライラは思い切って口を開いた。
「……何だか、難しい話になってしまったな」
ルシアスはちらりと視線を彼女に向けただけで、再び杯に目を戻した。
「気にするな、こちらの問題だ」
「そういうわけにも行かない。だって、私のせいだろう?」
「せい、ではないな」
言葉少なで硬質な彼の言い方に、見えない壁を感じたライラは嘆息した。
これでは話も何もない。
相変わらずルシアスが何を考えてるかは謎だったが、好意的に思われてはいないのは感じた。
しかしそれならそれで、こちらも割り切れば良いのだ。ライラ自身がなんらかの結論を見つけ、予定通り朝を待ってここを出ればいいだけだった。
(聞きたいことと、言いたいことは何だったっけ)
室内に漂うこの空気に、落胆する気持ちがあるのを否定はできない。
が、せめて後で心残りになることが無いよう、必要なことを整理しようとライラは思った。
俯くライラの前に、酒の注がれた杯が差し出される。
顔を上げると、ルシアスがすぐ目の前で彼女を見下ろしていた。
「ありがとう」
「お前のせいではないが、お前のためとも言いづらい。そんな顔をされている内は、特にな」
どんな顔だろう、とライラが思う間もなく、ルシアスは彼女から離れてしまった。
ルシアスは、船尾窓の向こうの暗い海に視線を向けながら言った。
「結局、俺がひとりで空回りしてるだけだ。やりたいからやってる。お前が気に病むことではない」
ライラは目を見開いたが、彼の視界にはおそらくそれは入っていない。
ルシアスは自嘲気味に続けた。
「最初は、お前が俺の手を取る気になるまで待とうと思った。だが、スタンレイにはぬるいやり方に見えたんだろう。ディアナにも言われた。おかげで、こうして退路を塞がれてしまったわけだ」
「……」
「俺自身、今日コルスタッドに会って痛感した。手をこまねいていては駄目だ、こちらも本気で行くべきだと。──しかし実際にお前のその顔を見たら、正直迷う」
「迷う……?」
ライラが聞き返すと、振り向いたルシアスは少し寂しそうに微笑った。
「俺を見る時のお前はいつもそうだ。困惑や警戒。触れただけで砕け散りそうなくらいの緊張。俺が何をやっても、それが一向に変わらない」
ライラは愕然とした。言われている事がうまく理解できなかった。
そんな風に見られていた事自体、思いもよらないことで、当然その行為の自覚などない。
ルシアスはそこで一度、杯を口元に運んで酒で口を湿らせた。こんな話をしながらも、彼の口調は普段と変わらず落ち着いていた。
「他の男のことは、気軽に受け入れているように見えるのに。ジェイクもバートレットも、あのエスプランドル人の航海長や水夫もだ。……俺だけ故意に排除されているのかと思えば、迷いもするさ」
「そ、そんなの誤解だ! ただの思い過ごしだ!」
そこでようやくライラは反論した。
しかし、ルシアスは取り合わずに続ける。
「あの日人魚号から戻った時に、ようやくお前が俺の方を見たと思った。でもそれも、俺の都合のいい思い込みだったのかもしれない」
ライラは急に目眩に襲われて顔を歪めた。
今夜は酒量が過ぎたのだろうか。そう思いたいほど思考がまとまらなかった。
ひどい気分だ。
何とか杯を脇に置き、ライラは蹲るようにして両手で頭を抱えこむ。動悸が激しくなるのを、何処か他人事のように感じた。
「待っ……。頼む、ちょっと待ってくれ。混乱してきた。ルース、お前が何を言ってるかわからない」
「以前、船に残ってほしいと言ったろう」
取り乱しかける彼女を心配するでもなく、ルシアスは机の脇の位置から動かずライラを見下ろしている。
「その話だ」
ゆるゆると顔を上げたライラは、ルシアスのその表情を見て己の罪深さを理解した。
(私は、そんなにお前を傷つけてしまっていたのか)
今まで、誰と関わっても深い関係にはならないよう、自分を制御してきた。
それは旅を続けるにあたって、障害を生まないための工夫だった。
誰にも惹かれてはならない。年頃の娘であれば誰だって受けるであろう秋波も、気づかないふりをした。気のせいだ、そんなふうに思ってくれる相手などいるはずがないと、自分に何度も言い聞かせて。
そうしている内にいつか、本当に何も感じない人間になれるように。
恋人も友人も、楔になる。旅立ちを告げれば相手を傷つけてしまう。
それに何より、己の決意があっさり揺らぎかねない。強い意志など、本当は自分ほど縁遠い人間もいないと言うのに。
目的を果たすまで、この旅を放棄してはならないのだ。だから、しがらみを嫌ってひとりで生きてきた。
(でも、今回は失敗したみたいだ。ルースにこんな事を言わせてしまうなんて)
それだけではない。気づかないふりなんてもう無理だった。
今、ライラの心は血を吹き出しながら悲鳴を上げていた。一緒にはいけないのに、彼との別離を考えるとものすごく苦しい。
いつの間に、ルシアスをここまで受け入れてしまっていたのだろう。
彼は故意に排除されていると感じたようだが、逆だ。
それ以上関わったら、彼に惹かれてしまうと本能が警鐘を鳴らしていただけだ。すべて投げ出して楽な方へと走り出しかける自分を、最後の理性が留めていたに過ぎない。あの深海色の瞳を正視したらどうなるか、自信がなかったのだ。
何もかも放り出して、彼との航海を選べたらどんなにいいか。
けれど一方で、こうも思う。
己に課した使命を欲に負けて投げ出すような人間は、クラウン=ルースには釣り合わない。ルシアスもそんなライラに失望するはずだ。
なによりライラ自身が、罪悪感に耐えられないに違いなかった。
(そうだ。他の選択肢なんてない)
わかっているのに、それでも選べなかった。ここに残ってほしいと言われたあの瞬間から、ずっと。
ライラは再び俯いて、苦痛を堪えるように奥歯を噛み締めた。
「ルース。私は」
この瞬間に、自分が死んでしまえばいいのにとすら思う。これ以上彼を傷つけないために、再び彼を傷つけるしかないなんて。
彼はどうしてこんな自分を求めてくれたのだろう。
ルシアスなら相応しい相手がもっといるはずだ。きっと、世界中に沢山いる。自分ではない誰かが。
ライラは目を閉じ、膝においた手を握りしめる。拳が震えた。
もう、言わなくては。
「私は、お前と一緒には行けない。その道は、選べない……」
絞り出すように告げた。
返事はすぐにはなく、永遠に近いような静寂が訪れた。
やがて、やけに遠く感じる位置から低い呟きが返ってきた。
「……。そうか」
その時のルシアスの表情を、ライラは見る勇気がどうしても持てなかった。