Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

海港都市ヴェスキア

21

 そんな彼女に代わって、バートレットがマルセロに訊いた。
「『橄欖石の星(ナジム・アル=ザイトゥニ)』とは、なにか特別だということなのか?」
「俺達にとっては特別だ。その瞳が現れるとしたら、相当古い氏族だろうから。ライラは肌の色も明るいし瞳の色も鮮やかだ。彼女の母親は、代々血筋を守っている由緒正しい家の直系に違いない」

知恵の民(アル=ヘクマ)』は、国家という概念がまだはっきりしなかった、古の時代から続く遊牧民族のひとつだった。誰のものでもない大地を、冬を避け、獲物を追って移動していた人々だ。

 彼らの旅がどこから始まったかはもう誰も知らないが、丁度このヤースツストランドのある北方だったという説もある。『知恵の民(アル=ヘクマ)』の貴族層に比較的色素の薄い人間が多いためだ。
 何処が始点だったにせよ、気の遠くなるほど長い旅の中で『知恵の民(アル=ヘクマ)』は枝分かれし、方々に散らばっていった。

 ある一族は馬を駆って東へ、またある一族は駱駝(らくだ)に跨って南へ。西方に向かった者達もいた。
 さらには遊牧をやめて緑地や街に定住する者も増え、他の民族と関わるうちに血は薄れ、見た目も大きく変わっていった。

 今は、己がその末裔であることをろくに知らない者も多い。
 ライラもその一人というわけだ。

「『知恵の民(アル=ヘクマ)』って元々が褐色なんだと思ってた。逆なんだな」
 当のライラの呟きに、マルセロは真剣な顔つきで頷く。

「移動先の現地人と婚姻することで、その色を少しずつ貰ったと婆様に聞いた。西には肌の白い民族が多かったから変化は乏しかっただろうが、『橄欖石の星(ナジム・アル=ザイトゥニ)』は失ったんだろう」
「なるほどね」

 ライラはそう言いつつも、自分事として受け止めきれていなかった。
 特殊だったのはあくまでも生家の生活環境で、それ以外は至って普通。瞳の色を他者に指摘されることはあっても、他に変わったことも思い当たらなかったのである。

 だが、マルセロにとっては違うらしかった。
 彼は相変わらず、尊いものでも見るような眼差しを彼女に送ってくる。

「一〇〇〇年以上前の血統を完璧に守るというのは、さすがに貴族達でも無理だったろう。今は、その瞳を持って生まれてくる子はなかなかいない。もし生まれたら、一族の象徴として敬われる存在になるよ。しかしまさか、定住者から出るなんてな」
「……」

 黙ってしまったライラを横目で見ながら、バートレットは呟いた。

「少なくとも、その瞳の主を俺達はもうひとり知ってる。まさか、そんなに貴重な存在だったとは思わなかったが」
「本当か!? 一体どこで!?」

 思わず目をむいたマルセロとは対象的に、バートレットは平然と答えた。

「アリオルで。居酒屋で踊り子をしていた。だが、元は旅の一座にいたそうだしな。それが『知恵(ヘクマ)の民』の隊商だったんだろう」
「……ちょっと待った。もしかしてそれ、リスティーとかいう舞姫のこと?」

 アリオルの居酒屋という言葉にぴんと来てライラが訊けば、バートレットは己の失言に気づいて曖昧に頷いた。

 ライラはあの時意識を失っていたので、詳しい事情をいまだ知らなかった。
 リスティーが乗船していたのはルシアスと恋仲だったからで、そういう関係に第三者の自分が首を突っ込んではいけないと、聞くのを遠慮していたのである。

 とはいえ思わぬ共通点に、ライラは唸ってしまった。

「同じ目の色だったって、何か関係があるのかな? 偶然にしては出来すぎてるけど、そういえばルースとも腐れ縁だし……」
「いや、それは……どうだろうな」
 バートレットとしては、立場上はっきり言うのも躊躇われるのだった。

「その踊り子は、今はどうしてるかわかるか?」
 横からかけられたマルセロの言葉に、内心ホッとしながらバートレットは振り向く。
「騙されて居酒屋にいたようだが、その後ヴェーナとリズヴェル国に保護されたはずだ」
「そうか」
 マルセロの表情が緩む。

「良かった。『知恵の民(アル=ヘクマ)』は昔から誘拐の対象になりやすいんだ」
 痛ましそうに呟くマルセロに、ライラは尋ねた。
「それはどうして?」
「人身売買だ。遊牧民はどこでもよそ者だし、俺達自身も自由を主張してきた手前、その土地の法律に守られない」

 マルセロ自身を攫ったのはエスプランドル人だったが、敵国の人間じゃなかったら大丈夫という話でもないようだ。

 彼の母国である南方のメフルダードは、砂漠と荒野に覆われた土地だ。
 限られた資源を皆で争う形となり、政権も長らく安定していない。裕福な国ではなく、それが人間という資源を外国に売り出さねばならない要因の一つでもあった。

 マルセロは、それに、とライラを見返す。

「あんたを見て改めて納得した。『知恵の民(アル=ヘクマ)』は整った容貌で女は特に美しく、大昔はそれが原因で戦いに発展することも珍しくなかったそうだ。俺達が牧羊や商いだけでなく傭兵業もするようになったのは、家族を守るために強くなる必要があったからでもある」
「そういえば、砂漠の『知恵(ヘクマ)の民』は好戦的で有名だな。ライラが強いのも頷ける」

 バートレットがライラを見ながら茶化すように言えば、マルセロが苦笑交じりに否定した。

「女でなまじの男よりうまく剣を扱うなんてのは、俺も聞いたことがない。戦うのはもっぱら男の仕事だ。女達は天幕の奥に隠すよ」
「私は別に……個人的に強くなりたかっただけで、血筋がどうとかいうのは関係ない」
 ライラは苦々しく反論した。
「天幕の奥に押し込まれるのもごめんだ。大人しくしてるのは性に合わないからな」
「そいつは残念だ。あんたが戻れば、きっと同胞も活気づくだろうに」

 異国に売り飛ばされたマルセロですらここまで興奮気味に語るのだから、ライラの存在は小さくない事なのだろう。
 しかしライラは、これまで一人旅をしてきたのもあるし、今更実感の乏しい血族の中に放り込まれる生活は考えにくかった。戻る、という言葉自体に違和感があるのだ。

「そういうマルセロは、このまま次の船に移っていいのか? 仲間のもとに帰りたいのはむしろあなただろう」
 ライラが逆に水を向けると、マルセロは目を伏せて自嘲気味に微笑った。
「そうだな。望郷の念はある。でも、俺が攫われたのは二十年以上前だ。駱駝(らくだ)もうまく乗りこなせないこの歳の男が帰ったところで……、だよ」
「そうか……」
「それに、エスプランドルは好きじゃないが、船長はじめ船の仲間は別だ。一緒に航海を続けられるなら、それに越したことはない」

 マルセロの言葉に嘘がないのを見て、ライラはほんの少し安心した。

 異国につれてこられたのは不幸なことだが、マルセロが現状に不満がないというのならそれが一番なのだ。
 脱走奴隷という秘密も、折を見て打ち明ければ、ディアナ達ならわかってくれそうな気がした。

「あれは……連絡船か?」
 カリス=アグライア号と人魚(シレーナ)号の間に浮かぶ小さな影に、バートレットが気づいた。導かれるようにしてライラもそちらに目をやる。

 暗い海面に、小さな角灯の明かりが見えた。こちらに向かっているその小型艇に誰が乗っているのかまでは、距離と暗さでわからなかった。

「ようやく客人が帰ったらしいな。俺達も船に戻るか」
 バートレットに促されて頷いたライラは、ふとマルセロに視線を戻した。

「もし順調にシュライバーの許で働くなら、行き先は東南部?」
「そうだな。となると、会うのはこれが最後かもしれん」
 そう言いつつ、マルセロの表情は然程暗くはなかった。

 航海そのものの危険もあるが、そもそも東方貿易の対象となる国々はここからあまりにも遠かった。
 生み出す利益が大きく、比例して船員の待遇もいい東方貿易船が水夫達から倦厭されがちなのは、一度出港すれば何年も帰れない可能性が高いからだ。

 しかし行き先の気候は温暖だし、水も食べ物もある。砂漠の遊牧民で、その後奴隷だったマルセロからすればまずまずの場所なのだろう。

「あんた達にはつくづく世話になった。もし運命が望むなら再び会うこともあるかもしれないが、その時まで健勝でな」
 マルセロから差し出された手をしっかりと握り返して、バートレットは微笑った。
「新たな船出の幸運を祈ろう。まあ、あの航海長が可愛いセニョリータを簡単に諦めるようにも思えないから、また会うかもな」
「それもそうだ」
 軽く微笑って、マルセロは次にライラに向き直った。

「『知恵の民(アル=ヘクマ)』にとって今は不遇の時代だ。南は国の情勢も不安定だし。無理に戻れとは言えないが、もし、もしだ。少しでも同胞を気にしてくれるなら、彼らの隊商を訪ねてみてくれ。あんたのような指導者が現れれば心強いはずだ」
「……一応気に留めておく」
 ライラは曖昧に微笑み返した。

 内甲板に戻っていったマルセロの背中を見送りながら、バートレットは尋ねた。
「指導者?」
「『知恵(ヘクマ)の民』は女系社会だと聞いたことがある。『橄欖石の星(ナジム・アル=ザイトゥニ)』のせいかは知らないけど」

 ゆっくりと近づく小型艇を眺めつつ、ライラが答える。バートレットは驚いて目を見張った。

「珍しいな。じゃあ、男達は何を心の支えにして戦うんだ?」
「他と一緒じゃないかな。家族を守るためだろうよ」

 バートレットは反射的に顔をしかめた。

「俺には理解の難しい話だな。一族を背負うという自負があるから、男は命を投げ出せるんじゃないか」
「けど、それと同時に家長が戦争で死んだら、残された皆が困るのも事実だ」
「ああ。なる、ほど……?」
「それに、生まれた子が誰の子かなんて揉めずに済む。少なくとも、家長が子を産む所は産婆が見てるんだから。その子が女の子ならそのまま跡取りになるだけだ。合理的ではある」

 ライラの話を聞くにつれ、バートレットの表情がますます歪み、やがてその口から大きな溜め息が漏れた。

「確かに合理的だ。だが、聞けば聞くほど男としての自信がなくなりそうな話だな」
「妻とわが子を守りたい気持ちもわかるよ」

 くすりとライラが笑うと、バートレットは力なく首を振った。

「いや。お前が相手だから白状するが、半分虚勢だ。男だって死ぬのは怖い。それを、家長の自負と家族のためという大義名分で何とか奮い立たせてるんだ。それすらなくなったら、俺は死地に向かえるか正直わからん」
「今だって危険な航海を続けてるじゃないか」
「あの船が家で、仲間が家族だからさ」

 そう言ってから、バートレットはふと気がついたように続ける。

「だが、頭領のためなら迷いなく戦える。『橄欖石の星(ナジム・アル=ザイトゥニ)』のために戦うというのも、それに近いのかもな」

 そこで小型艇が船腹に着き、甲板がにわかに騒がしくなった。
 バートレットがそちらに足を向けるのを、ライラはぼんやり眺めていた。

 不意に昔の記憶が脳裏に蘇った。
 兄はライラの瞳を見てよく言ったものだ。
 お前の目は母上と同じ色で、とても綺麗だ、と。