Brionglóid
禍つ宮
歪んだ楔
01
その日は朝から晴天だったが、朝日に照らし出されたのは朝露に濡れた新緑の芽だけではなかった。
黒に近い緋色が大地を彩り、その中に食い散らかされた家畜の鶏の残骸が転がっていた。一畳ほどの鶏舎は力任せに壊され、少し離れたところには、喉を食い破られた番犬の死骸もあった。
夜の間に、また異形が現れたのだ。
住人は異変には気づいたものの、異形相手では自分達の身も危ないかもしれないと、息を潜めてやり過ごす以外のことができなかったという。
朝一番で駆けつけた八嶋は、苦い思いでそれらを見渡した。
その家は里の入り口と社の中間にあり、結界の守護の力が十分及ぶ地域だった――今までは。
先日境内で八嶋が見かけた獣型の異形、ああいったものの仕業だろう。
「八嶋様、お助けくださいまし! うちも家畜をやられました!」
「うちは畑の野菜と果物をやられました。このままではすべて異形に食われちまう……。そうなったら私らはもう生きていけんのです!」
民に涙ながらに取り縋られて、八嶋は穏やかな微笑みを彼らに向けた。
「この度のことは本当にお気の毒でした。ですがご安心ください。美波様は既に拝殿に入られ、祈りを捧げておられます。この度は力を持った異形に遅れを取ってしまいましたが、必ずや神は斎女の祈りを聞き届けてくれましょう」
「おお……っ! 美波様が!」
民の間に安堵の声が広がるのを見て、八嶋は改めて美波の人気を知った。
一見無垢で素直な幼い斎女は、人から疎まれるということがあまりない。かつて彼女に付き従っていた姉の彩音は、やや冷めたところがあって同じ評価を受けることはできなかった。要領の良さで言えば能力は美波が上なのは確かだ。
そのかわり、彩音は雪芽の血を濃く受け継いだのだろう――神を引き寄せる血を。
「佳蛇の神は民をお守り下さいます。そのためには、日頃から謙虚さと、神への感謝の気持ちを忘れないよう」
八嶋がにこやかに告げると、民達は感激してひれ伏した。
「は、はい、それはもう! お社には、収穫した中で一番の出来のものを奉納するつもりでさ!」
「それで結構です。では、私は他のお役目がありますので」
民達に頷きを返して、八嶋は集落を後にした。
自分を待つ相手のことを思うと、このまま社に戻る気にもなれなくて無意識に足が海のある方へと向う。
周囲に人の気配がなくなったことを確信してから、八嶋は表情を消した。穏やかな笑みなど実際は自分の感情の中にはない。対外的にそういう顔を形造っているだけだ。
さっき人々に言ったのは、でまかせである。
侵入した異形は理性を持たない下等な者だ。力を持った異形が入りこんだのではなく、結界そのものの力が消えかかっているせいだった。だが、真実を伝えても何も良い事がない。
去り際に八嶋はそっと力を行使してきた。付け焼き刃でしかないが、この周辺一帯の結界を補強するくらいにはなるだろう。流石に里全体を保護するまでの能力は自分にもない。
事態は予想以上に深刻だと、八嶋は思った。そして状況悪化の速度も早い。
結界が通じないような強大な異形は知能も高く、逆に言えばこちらもその意図を測ることができる。しかし、血の味によって凶暴化しただけの中途半端な異形は厄介だった。理性というものがないからだ。今、佳蛇を脅かしているのはそういう輩だった。
実際、里の被害には戦略的なものではなく、動物的な法則性しかない。それに相手は複数いて、こちらは後手に回ってしまっているのが現状だ。このままでは人間が犠牲になる日もそう遠くはないだろう。
――自分一人でどこまで守りきれるか?
八嶋はまたその問を己に投げかけた。
里に残る能力者はもはや自分だけとなった。こんなことなら、さっさと妻を娶って子をなしておけばよかったという気持ちも時折頭をもたげる。
しかし、何度思い返してみても、結局それはなかっただろうという結論に行き着いてしまうのだ。雪芽に出会ってしまっていた以上は。
彼女の面影を思い起こそうとするだけで、胸の奥に鈍い疼痛が走る。雪芽がこの世を去ってからすっかり馴染みになった痛みだ。
――あれから、十年以上も経つというのに……。
青臭ささえ残る思春期の淡い想いは、色褪せるどころか輝きを増して胸の奥底に留まり続けている。彼女が美しいまま呆気なく逝ってしまったものだから尚更だ。
八嶋が雪芽に初めて会ったのは、まだ十をいくつか過ぎた頃だった。
田舎の佳蛇では余所からやってきた子連れの未亡人というのは物珍しく、嫌でも民の目を引いた。彼女の美貌がそれに拍車をかけた。
雪芽を連れてきた張本人である神官長の態度も、当時の八嶋にすらわかるほどあからさまだったので、人々は余所者の巫女を好き放題あげつらった。聞くに堪えない悪口を投げつけられても、雪芽は我が子を抱いてじっと耐え忍んでいた。
それなのに、雪芽は里の者達を憎むどころか、里が平穏であることを最期まで願い続けた。
儚げで優しい巫女に、少年だった八嶋が心を奪われたのはごく自然な流れだったろう。
八嶋は、あまりにも不憫な境遇の彼女のために何かできないかという、若い正義感に駆られた。その時の自分に出来ることといえば、黙って彼女のそばにいることくらいだったが。
それでもいつしか雪芽は心を開いてくれるようになった。そして、最期の言葉を八嶋に託したのだ。
――娘達を、お願いします。
とはいえ、単純に親代わりになれという話ではないことは八嶋にも感じ取れた。
雪芽がある置き土産をしていったからだ。
ふとそこで、八嶋は足を止めた。雪芽や彩音が好んで訪れていたあの岬の手前まで来ていた。
まっすぐ進めば岬の先にいけるが、浜辺に降りる道を下って岩場に回れば、潮の祠に行くことができる。
このところ、里の異形騒ぎでなかなかここへ来ることができなかったのがずっと気がかりだった。
満月の日、潮の差が一番大きい時期の満ち潮によって潮の祠は海に沈む。しかし満月は遠に過ぎており、もうじき下弦だ。本当なら、そこに繋がれた彩音は既に生きていないはずだった。
けれど今、彼女の生命の波動が僅かにだが伝わってくる。八嶋の能力ではここまで近くに来てようやく掴める程度の弱いものだったが、それでもほっとした。
やはり、彩音は死なずに済んだのだ。
――何とか首の皮一枚繋がったわけだ。
ここに来るまでは半信半疑だったのが事実とわかり、八嶋は細く長い息をつく。
全ての懸念が消え去ったというには程遠いが、それでもこの事は大きな意味を持っていた。
彩音本人が逃げることを拒否したあの時、八嶋も覚悟を決めざるを得なかった。出来ることなら生かしてやりたかったが、彩音の病は手の施しようのないところまで進行してしまっていたのだ。
しかし、状況はその後意外な変化を遂げた。
数日前から、古い祠を包むようになった謎の神気。それは八嶋が社にいても感じ取れるくらい強力なものだった。
力ある何者かが祠に繋がれた巫女を見つけ、彼女を護る気になったらしい。
そのことは、ある可能性を八嶋に植え付けた。
――佳蛇には新しい土地神が必要だ。
何者かはわからないが、これだけの神気を操る存在が、手の届く位置にいる。
これは絶好の、そしておそらくは最初で最後の機会だろう。
土地神を失って久しいこの里の結界は、もう限界寸前だった。時間はほとんど残されていないと言っていい。
――何としても、新しい神を捕えねば。
彩音とその存在がどのような関係性なのかはわからないが、ただの一時的な気まぐれとも限らない。まずは彩音と会って話をする必要がある。
「八嶋殿! こちらにおられましたか!」
踏み出そうとした足を止め、舌打ちしたい気持ちを微笑の下に押し隠して、八嶋は振り返った。
そこには、散々走り回ったのだろう、息を乱して額の汗を拭いながら小走りで近寄ってくる中年の神官の姿があった。
その様子から、八嶋は大体の理由を察した。
「どうか、なさいましたか?」
「いやいや、斎女様がずっとお探しでして。八嶋殿の事が気がかりで、祈祷もままならないと言い出しましてな」
いやあ困りました、と本当に困り果てたように中年神官は言った。しかしようやく八嶋が見つかったことで、その顔には安堵の色も広がっている。
「それはご苦労様です。昨夜また異形騒ぎがあったと聞いたので、今朝は民のもとへ行くと言付けておいたのですが」
「伝えましたとも! とはいえ、斎女様がお祈りが出来ないと仰られては、我々もどうすることも……」
中年神官も、あの少女に余程手を焼いているのだろう。
八嶋は気づかれないよう小さく溜め息をついて、来た道を引き返すことにした。
彩音がもうしばらく、かの者の気を惹き続けてくれることを心の底から願いながら。