Brionglóid

禍つ宮

禍つ宮

月下の客人(まろうど)

05

「何をお考えですか」

 月灯りの中、祠に程近い岩場に佇んで暗い海を眺めていると、案の定忠実な腹心は自分をすぐさま見つけて傍へと飛んできた。男はこれ見よがしに目を眇め、軽く溜め息をついた。

「何も。何かを考えつく前に、いつもお前が来るではないか」
「祠の巫女のことをお考えでしたか?」

 主の態度に気づかない振りで、夏璃は率直にそう訊ねてきた。彼の気の細かさには何度も世話になっているが、反面こういう煩わしさを伴うことがあった。まるで夫の浮気を嗅ぎ付けようとする女のようだ。総じて男というものは、自分のことをとやかく言われることが嫌いである。永く生命を紡いで来た人ならぬ存在であれ、それは変わらなかった。

「だったらどうだと言うのだ」
「別に。それほど悪いこととは思いませぬ」
 意外とあっさりと、夏璃はそう言ってのけた。

「しかし我が君。あなた様が斯様(かよう)に気に入る存在などと、いつ以来でしょうか。私とてもすぐには思い起こせませぬ」
「……何が言いたい?」
「差し出がましくも御忠告をと思いまして。どうかお気を悪くなされるな、我が君。私はただ、あなた様が後悔の念に囚われることがない様、切に願うのみにございますれば……」
 それだけ言うと、夏璃は身を翻して夜の闇へと消えて行った。

「…………」
 男はその様子を横目に見届けると、再び嘆息した。
 夏璃の言葉の一つ一つがおもしろくないと思うのは、確かに自分が彩音のことを考えていたからだ。

 しかし、それは意図的ではなかった。
 目の前に彩音がいなくとも、ふとした瞬間に彼女の面影が脳裏に浮かぶ。もはや男自身、どうしようもなくなっていた。

 あの時、気がついたら抱き寄せていたのだ。彼女の涙に誘われるように。
 もちろん全くの無意識ではなく、後悔に打ち(ひし)がれる少女を慰めたいという気持ちはあった。しかし理性が完全に勝っていたのは手を伸ばした辺りまで。腕の中にあの細い身体を収めた途端、よくわからない衝動が自分を支配してしまった。

 痩せて骨ばった肩なのに、妙な収まりの良さがあって離し難くさせた。彼女が僅かでも身動(みじろ)ぎすれば、(うなじ)から蜜酒の如き甘い芳香が香り立つ。本当の酒であればそう簡単に酔いはしないが、そうでないから抵抗のしようがない。それどころか、その甘い香りを嗅ぐと何ともいえない心地よさがあり、もっと欲しいと思ってしまう。手に負えなかった。

「雪芽も相当ではあったが……」
 男は困り果てたように独りごちた。

 彩音は雪芽の力を色濃く受け継いでいる。むしろ、母親よりも娘の方が吸引力は強い気がした。恐らく、以前よりも自分が衰え、本能的に依代(よりしろ)を欲していることも関係しているのかもしれない。

 それに、彼は彩音本人にも興味を惹かれていた。
 すべてを諦めたようなうつろな瞳。だが、話をしている間、楽しかった過去を思い出している時の彩音の目は、やわらかい光を灯す。まるで、曇天から時折ほんの少しだけ差し込む一筋の日差しのように。
 もっともっと、見てみたい。不思議とそう思わせる表情だった。それが見たいがために、毎夜のごとく通ってはあれやこれやと話をさせてしまった。

 元々、感受性の強い性質(たち)なのだろう。話す内容は本当に些細なことばかりで、しかし彩音は嬉しそうに語るのだ。心を檻に放り込まずに済む環境で育ったならば、それはもっと顕著に表れていただろうに。

 本当に、時折輝きを見せたかと思えば、ちょっとしたことで消えてしまいそうな、小さな灯火のような少女だ。
 そして、彩音の命の炎が消える日は実際にそう遠くはない話だった。
 一度彩音に触れてしまった今、その死を見守るということは並大抵のことではなくなっている。

「可哀想にな。何度も血を吐いて、苦しかろうに」
 彩音の様子は、祠に施した自分の力を伝って知ることができた。彼女が一人にされて不安がっているのも、頻繁に襲ってくる発作に苦しんでいるのも、全て。
 その度に男は、彼女の許へ飛んでいきたくなる衝動と戦わねばならなかった。

「……っ」
 男はこらえるように奥歯を噛みしめる。焦燥感が、身体の内側を焼き焦がしていくようだ。

 本音を言えば、死なせたくはない。
 死に瀕した人間の命を救うことは可能だが、それをすれば純粋なヒトではいられなくなる。それでもいいという人間も中にはいるだろう。しかし、彩音はそれを望むだろうか。

 別の問題もあった。
 長い間『依代の資格を持つ者』を探していたのは、そもそも自分のためではない。

 それは古い約束のためだった。

 かつて同じ戦場を駆けた旧友が力尽きようとしていた。
 身動きの取れない友の代わりに、自由を手にした自分が誓ったのだ。これはという者を見つけた暁には真っ先に連れて行く、と。

 しかし、それは予想以上に困難を極めた。
 今や人々の信仰は薄れ、力を失った神達も次々と消えていっている。精霊の声を聞くことのできる人間も数を減らし、すっかり稀有な存在となってしまっていた。

 ようやく出会えたのが雪芽だったが、彼女は既に仕える相手を持っていた。
 その彼女も亡くなり、二人の娘が遺された。しかし力を受け継いだのは二人のうちの片方だけ。

 それが彩音である。
 皮肉なことに、彼女もまた死の淵に立っているような状況だ。

 夏璃も言っていたが、確かに自分に残された時間もそう多くはない。間に合えば、友と彩音は生き延びることができるだろう。人と精霊との関係は互いを補い合うからだ。
 しかし、その結末をうまく受け入れられない自分に、男は戸惑っていた。どうしても、彩音を差し出すことに躊躇(ちゅうちょ)してしまう。

 彩音の意思を無視して、こちらの都合で事を進めることにも抵抗はある。だが、それ以外の理由に本当は気がついていた。

「……まさか、これだけ長たらしく生きてきて、最後の最後にこのようなヒトの如き感情に振りまわされる羽目になるとはな……」
 苦々しく、男は呟いた。

 聡い夏璃は、おそらく自分のそんな部分も見通しているのだろう。表にこそ出さないが、内心では呆れているのか幻滅しているのか。向こうほど、心を読む術に長けていないのが悔やまれた。
 長命の種族にも心はあるから、迷いというものは存在する。だが、自分のこれはそんな高尚なものではなかった。

 ──彩音を他の者に渡したくない。
 そんな子供じみた独占欲を、自分でも認めざるを得なかった。

 あの彩音が己以外の者の側で話し、笑い、呼吸をし、時を刻む。そう考えただけで、胸の底が()(ただ)れてしまいそうだ。なんなのだ、これは。
 頼りなげな彩音を案じる気持ちが、一体いつ、そのような不可解なモノに形を変えたのか、自身にも見当がつかなかった。最初は確かに、保護すべき相手という意味での目線でしか、彼女を見ていなかったのに……。

「あの短い一生の中に、このような心の嵐が幾度も訪れているのか。私には耐えられぬ、ヒトとはなんと強い生き物なのだろう……」
 男は、嘆息混じりにそう独りごちた。
 初めての葛藤に、危機感すらあった。己のうちにある正体不明のこの化物を、制御する自信がない。迫りくる時間が焦りを呼んだのか、心の揺らぎはいつになく大きかった。

 彩音は、自分にとって危険な存在だ。これ以上先に進んではいけない。
 如何に気まぐれの王と言われようとも、許されることと許されないことくらいはわかっている。だが心は理性に反して、彩音を己の斎女とすることを既に望みはじめていた。

 彩音を得た者が、狂気と死から逃れることが出来る。
 しかし、失った者は──?

 想像しただけで、一瞬目の前が暗くなった気がした。
 一刻も早く手を引くべきだろう。手遅れになる前に。あるいは、さっさと事を進めてしまえばいい。すべてが終わってしまえば、自分とて諦めもつくことだろう。
 そう、頭ではわかっているのだが……。

「せっかく見つけた巫女。しかし今の私にとって、彩音を他の男のもとに送り届けるという使命は、苦痛以外の何物でもない……」

 呟きは、苦悩の色に満ちていた。
 彩音の人生を狂わせたくないからなどというのは、単なる方便だ。彩音と、彼女を手に入れた友が生き残り、己のみが力を失って異形となるのが我慢ならないのだ。

 なんという浅ましさ、醜悪さだろう。
 友を見捨ててでも、彩音と共に()りたい。そんな身勝手な願いが、許される訳がないではないか……!

「彩音。そなたの人生、やはり我らがどうこうして良いものではない」
 祠の方角を見つめ、男は中にいる彩音に語りかけるように再度呟いた。
「そして、櫻伽(おうが)よ。──すまぬ、私は誓いを破る」

 男は軽く地を蹴る。
 白銀の梟が一羽、月明かりの中を飛び立っていった。

第二章 Fin.