Brionglóid

禍つ宮

禍つ宮

月下の客人(まろうど)

02

 その日もまた、日が落ちるとほぼ同時に男が現れた。
 相も変わらず輝かしい存在だったが、今日は一段とそこに差す影が濃いように思うのは気のせいだろうか。整った白い面差しに、疲労が見え隠れしているような感じがする。

 男はしばらく何も言わずに酒を飲んでいた。いつも通り彩音との間に灯りをはさんで、胡坐(あぐら)に片膝を立てる格好で、どこか遠くを見るような眼差しをしながら。
 彩音は、どうしていいのかわからずに、ただじっと座って時が来るのを待っていた。

「声を、聞かせてくれまいか。巫女」
「え……?」
 びくり、と彩音が肩を揺らして顔を上げた。男は、酒を味わいながら視線も向けずに静かに言った。

「そなたの声が聞きたいのだ」
「私の、声……?」
「そうだ。そなたの言霊は心地良い。……そなたは不思議だな。自由を奪われ、こんな岩場に封じ込められては、普通心も荒むものだろうに。流石、里の巫女だけのことはある」
「だから、違うとあれほど……!」
「違わぬさ」
 反論しようとした彩音の言葉を、男はあえて遮るように言う。

「そなたの他愛の無い言葉の(つら)なりが、私の心を宥めて行く。年毎に少しずつ色を変えて咲く紫陽花(あじさい)、岩場に住む猫の親子……そのどれもが。ここへ来る度、知らずにいたこの世界の別の顔を()の当たりにさせられる。いい加減永く生き過ぎて、(せい)そのものに()いていた、この私が」

 男はやや自嘲気味に微笑んだ。弱い明かりに照らされた横顔が痛々しく、彩音は何故か胸が締め付けられる思いがした。いつもの彼らしくないその姿が、彩音を落ち着かなくさせた。

「あの……何を、今日は何を話せば」
「そなた自身の話を」

 彩音は一瞬怯んだ。今までずっと避けてきたからだ。
「あまり……明るい話じゃないの」
「良い。私は知りたいのだ。そなたの歩んできた歴史を」
 更にそう強く言われ、彩音は一度口をつぐんだ。

 何があったのだろう。彩音は、この正体不明の男の……おそらくは、神かそれにも匹敵する存在の影をぬぐいたいと思った。それは、力ある者への畏怖からではなく、純粋に目の前にいる存在のためだけにそうしたいと感じたことだった。
 自分自身の屈託と、彼の願い。秤にかけるまでもないことだ。

 そこで彩音は初めて、自分の事をぽつぽつと語った。発作が起きないように、慎重に。
 男に比べれば短くも(はかな)いであろう物語は、けれど長い物語だった。

 小さい頃のこと。母との思い出。美波のこと。
 それから、ここに来ることになった、経緯。

「初めて自分の吐いた血を見たとき、ものすごい不安に駆られたわ。明日には、自分は死んでしまうんじゃないかって。……偽りの巫女を演じて、里の皆を騙し続けてきた報いを受けたのね」
 それでも、ひた隠しにしてしつこく里に居座ったのは、気になることがあったからだったと、彩音は言った。

 里を取り巻く異形の様子が、どうもおかしい。彩音は確かに、美波の力がなければ異形の姿を見ることはできなかったが、姉として常に彼女の傍らに立っていたために、彼らのその変化にいち早く気がついた。

 狂気と無気力を内に同居させた彼らは、どちらかと言えば無気力の方が勝っている存在だった。だが、ここしばらくの異形たちは、狂気の割合が高いような気がした。もの悲しい彼らの叫びも、いつしかはっきりと絶望を含むようになった。泣き叫びながら、潮風に飛ばされて空高く舞い上がっては崖の下へと落ちていく、そんな異形をたくさん見た。

 何かが起きようとしている。
 美波の傍を離れるわけにはいかない、そう思った矢先のことだった。

 それまで寒さの厳しい夜にしか訪れることの無かった発作が、突然彩音を襲った。胸が押しつぶされるような圧迫感と、身を切り裂くような痛み。派手に噎せ、血を吐いた。それで、すべて露見した。

 養父達は陰で狂喜したことだろう。やっと、扱いづらい厄介者が消える時が来たのだと。難病の末期症状と知るや、そこから先の段取りは水が流れるが如しだった。

 その時のことを思い出して、彩音は溜め息を吐いた。
「このまま看病をして長持たせてしまっては、死亡が今年の大祭に被る可能性がある。どうせ長くないのであれば、いっその事引導を渡してはどうかと、そういう意見も出たわ。すぐ隣の部屋で、私が布団に包まって血痰を吐いているのは、皆承知だったはずなのに」

 だが養父は、その提案に首を縦に振らなかった。それは、決して育ての親としての情愛からではなかった。
 ──この子も雪芽の血を引く正統な巫女として、一度は舞を納めた身。見殺しには出来ぬ。
 かつて神職にあった者を手にかけるわけには行かない、と神官長である養父は言った。
 しかし他の神官達も、簡単には納得しなかった。

 ──過去は過去。正統な巫女ならば、我らにはもう美波殿がおられるではないか。
 彼らにとって彩音は美波の姉というだけの存在だった。それに父親が誰かもわからない。そんな出自卑しい娘になぜそこまで心を砕かねばならないのだと、彼らは言い張った。

 神官とはいっても、彼らは土地の豪族の出で、肩書こそ立派だが(みそぎ)もろくにしない連中ばかりだ。もちろん、異形を見る力はない。見えないのだから理解も出来ないし、理解できないものを受け入れるほどの度量も持ち合わせていない。
 彼らにとってはっきりしているのは、美波がいれば里は安全だということだけだった。

 ただ、彩音も一応巫女の娘であり、斎女の姉である。大祭と同時に死なれるのは流石に縁起が悪いし、里の者に対しても体面上まずい。だから、その辺は『巫女の血統』として取り扱うべきかもしれない。

 いい方法はないだろうかと、神官達は議論を始めた。
 その中で、一番年嵩の巫女が潮の祠の話を持ち出した。雪芽が存命だった頃からいる古株だ。

 ──彩音を祠に預け、海神のご意思を問うというのはいかがでしょう。
 巫女は満面の笑みで言った。
 ──さすれば、誰の罪にもなりませぬ。

 彩音は耳を疑ったが、聞き間違いではなかった。神官達はその案に飛びついた。神官長ですら。

 しかし、そこにいた神官達の中で一番酷薄そうな八嶋が、意外にもその処分に反対だったのには、当の彩音も他人事のように驚いた。
 それどころか彼は、普段の涼しげを通り越して雪原のような冷やかさを(たた)えた無表情もかなぐり捨てて、怒りをあらわに神官達に詰め寄ったのだ。

 ──どう取り繕おうが、それは間接的な同胞殺し。海神がそれを許すと思うのか!

 彩音は奥の間で痛みに(うずくま)りながら、隣の部屋のその情景をぼんやりと眺めていた。
 彩音はこの男が苦手だったが、その時の彼はそう悪くないと思った。初めて、この八嶋という男の体温を感じたような気がしたからだ。