Brionglóid

禍つ宮

禍つ宮

月下の客人(まろうど)

01

 空にかかる松の枝々の隙間から、ぱさりと音を立てて何かが地面に落ちてきた。

 握りこぶしより僅かに小さい、赤黒い塊だった。所々から小さな白い細い棒のようなものが突き出ており、さらによく見れば羽毛のようなものが少し残っている。羽と足はいずれも片方しか残っていないようだった。身体の半分は無残に食い破られていた。恐らく雀か何かだろう。

 八嶋が上を見ると、太い松の枝の一本から地上を物欲しそうに見つめる、獣のようなモノがいた。
 食いかけの獲物を、結界の内部に落としてしまったのだ。あんな小鳥など、ほとんど食うところなどないだろうに、それでも獣は赤黒い塊をじっと見つめていた。

 八嶋はわずかに眉を潜めた。
 ここは巫女や神官達の集う社だ。結界の中心部である。それなのに、いつの間にかあんな近い位置まで異形の侵入を許してしまっているとは。

 ああやって血の味を覚えた異形は凶暴性を増し、時には里の結界も越えてくることがあるとはいえ、社近くまで入ってくることはまずなかった。これまでは。

 良くない兆候だった。
 八嶋はさりげなく指先を閃かせた。焼き栗が爆ぜるような音がして、獣のようなその異形の目の前で火花が弾ける。怯えた鳴き声をあげながら、異形は何処かへと逃げ去っていった。

「八嶋殿?」

 まだ幼さの残る女の声音に呼ばれ、八嶋は我に返り、室内を振り返った。
如何(いかが)なされましたの?」

 灯りの少ない薄暗い部屋の奥から、幾分不安げな眼差しをこちらに向けてくるのは、この里の斎女として崇められている少女だ。今は姉の忌に服すため、全身白一色の衣装に身を包み、化粧も幾分質素なものになっている。そのせいで、普段よりも素顔に近い斎女の顔は、余計幼く頼りなげに見えた。

「何もありませんよ、斎女」
 少女を安心させるために、八嶋は口元に薄い笑みを乗せた。余計な追求を封じるように、彼は少女の目を覗きこむ。

「斎女の方こそ、どうしたのです?」
「え……」
「そんな不安そうなお顔をなさって」
 見透かされたのと、間近に男の眼差しを受けたのとで、斎女は恥ずかしげに頬を染めた。
「いえ、なんでも……」

 咄嗟(とっさ)に顔を伏せる仕草が初々しい。その程度のことで誤魔化せると、疑いもしないのだろうか。あるいは、相手が尋ねてくるよう意図的にやっているのか。
 どちらでもいい。それが愚かな女のつまらない駆け引きだったとしても、八嶋は乗ってやることにした。

「斎女。さあ、話してください」
 少し声を低く下げ、やや強めの声でひと押しすると、少女の視線が落ち着かなげに泳いだ。喘ぐように唇を震わせて、耐え切れなくなったようにぎゅっと目を閉じる。肩が小さく震えていた。
 これが演技だというのであれば大したものだ、と八嶋は胸の内で苦笑した。
 やがて、覚悟を決めたようにゆっくりと開かれた少女の瞳は、今にも泣き出しそうなほど潤んでいた。

「八嶋殿。私……この頃不安で仕方ないのです」
「不安?」
「はい。姉様が亡くなられて、私一人でやっていけるのかしらと」
「おや、美波。この私が常にこうして傍にいるというのに、いつあなたが一人になったというのです? 私では、やはり姉上の代わりにはなりませんか?」
 わざと名前を呼んでやると、少女は真っ赤になりつつ必死の形相で頭を振った。
「そんな……! そんなつもりでは!」

 八嶋はとろけるような微笑みを浮かべながら、少女の細い身体を引き寄せて抱きしめた。
「可愛い斎女。わかっていますよ。何も不安がることなどないのです」
「八嶋殿……」

 腕の中のぬくもりに虚勢の壁が溶け落ちてしまったのか、少女は男の胸に顔を埋めた。
「私、突然姉様がいなくなってしまったものですから。どうしていいかわからなくて」
「大丈夫、斎女はきちんと努めを果たしておりますよ」
 優しくそう諭すと、少女はしがみつく手に力を込めた。

「八嶋殿、もう私にはあなたしか頼る相手もいないのです。お願い、私を見捨てないで」
「これは妙なことをお言いだ。姉上のための祝詞で、疲れが出てきているのではありませんか」
「わかりません。でも私……本当にあなたがいないと」
「可愛いことを仰る。さあ、横になって今夜はもうおやすみなさい」

 震える細い肩を抱く腕に力を込めて、斎女の私室へと導こうとしたその時、しかし少女は身を強張らせて小さく抵抗した。
「八嶋殿! その前に私、どうしてもお伝えしなくてはいけないことが……!」

 思わず足を止めた八嶋が目をやると、少女の顔はやや青褪めてすらいるようだった。必死の様子を見て取り、八嶋も密かに気を引き締める。
 確かに、今宵の少女はいつになく頼りなげだ。純粋で、それ故愚かなこの少女が斎女として何とか立っていられるのは、八嶋がそう仕向けたからに過ぎない。常に気丈な社の斎女が、実際は歳相応な脆さを抱えたただの少女であることを知っているのは、姉の彩音をおいてはこの八嶋しか存在しない。
 この少女は、斎女としてよくやってくれていた。

「なんですか?」
「あの……っ」
 静かに、けれど詰問口調にならないように意識しながら促してやると、しばらく逡巡してようやく、消え入りそうな声で言った。

 見えなくなってきたのだ、と。

「なんですって……?」
「み、見えないのです」
 繰り返したその言葉は、涙声が混ざって不安定に揺れたものだった。それが引き金となったのか、とうとう少女は(せき)を切ったように訴えた。
「どうしよう。八嶋殿、どうしたらいいのでしょう!? 私、斎女なのに!」
「斎女」
「この里を、守らなくてはいけないのに……私、私どうしたら……!」
「斎女、落ち着いて」

 声を上げて泣きだした少女を、八嶋は再び抱きしめた。嗚咽が収まるまで、その細い背中を撫で続けた。やがて、落ち着きを取り戻したらしい少女が、顔も上げずにぽつりと漏らした。
「本当は、私。姉様がいないと、何も感じないのです」
「…………」
「今まで見えた事自体が、奇跡みたいなもの。姉様のお力があって初めて、私は斎女でいられたのです。けど、その姉様はもういない……」
 八嶋は何も言わなかった。『そんなことは全て知っていた』などと、思いはしても口には出さなかった。

「里を守らなくては。母様と姉様が守ろうとした里を、なんとしても守りたいのです。八嶋殿。私に手を貸してください」
 少女のその言葉に、八嶋は少し驚いた。この少女を愚かだと思っていたが、それほどでもなかったらしい。彼女は、斎女としての自分の価値をわかっていた。
 たとえ見えなくなったのだとしても、それを公表するのは愚策だと、秘密を知った上で口裏を合わせて欲しいと彼女は言っているのだった。

「大丈夫ですよ、斎女。私がついております」
 斎女の長い髪を指で梳いてやりながら、八嶋は微笑んでみせた。少女が初めて見せた強かさを、好ましくさえ思った。

「ええ、大丈夫です」
「八嶋殿」
 繰り返した八嶋を、まだどこか不安げな眼差しで少女は見上げた。すかさず、八嶋はその唇を塞いだ。

「やしっ……。んっ」
 一瞬強張った身体から力が抜け落ちていく。更に愛撫を加えてやると、やがて自ら求めるように少女が仰のいた。しがみつくだけだった細い手が、いつしか続きを強請るように淫らな動きをはじめる。
 八嶋はほんの僅かだけ唇を離し、吐息がかかる距離で囁いた。

「もう少しの辛抱ですよ、斎女。すべてが好転するまで、もうすぐですから」