Brionglóid

禍つ宮

禍つ宮

巫女の弔い

03

 突如、離れたところで物音がし、はっとして彩音は音の方に目をやった。海側の入り口の方だった。
 微かな逆光に切り取られた黒い人影が、ぼんやりと視界に入ってくる。

 黒……否、銀か……?

 人影は、薄っすらと銀色で輪郭を縁取られていた。

「なんだ、案外元気そうではないか」

 聞き覚えのないその声に、彩音は一気に身体が緊張するのを感じた。
 警戒心が、身体をいっぱいに満たしていく。

 この岩窟へ入るための海の入り口は、常に波が外壁に叩き付けられていて舟では近づけない。人間には通ることの出来ない入り口なのだ。
 そこから出入りするのは潮風と海水と蝙蝠こうもりくらいだ。この男はそのどれでもない。だとすれば、残るは……。

「異形……?」

 常人の目にも映るほどの異形とは、すなわち『肉』を持っているということであり、それは異形の力が強大であることを示している。
 凶兆だ。もしこの男がそうなのであれば、また里から多くの生命が失われることになる。

 片手片足を重い鎖につながれながら、警戒心をあらわに睨みつける彩音に、男は含み笑いを漏らした。
「ご挨拶だな」

 男が構わず歩を進めると、それに合わせて、じり、と彩音が後退した。その様子にまた、男が苦笑する。

「……あなたは誰……?」
 近づいてくる男が何も言わないので、彩音は戸惑ってそう言葉を繋いだ。
 少し思案するような素振りで、彩音から僅かに離れた位置で男は脚を止め、口を開いた。

「社から巫女の気配が失われていたと思えば、このようなところで何をしておる。潮が満ちればそなた、溺れ死ぬぞ」

 彩音は男の言葉に首を傾げた。巫女の気配とは何の事か、見当がつかなかったためだ。妹のことだろうか。美波が社を離れた?
 判断がつかず、彩音は後の一言のみに答えた。

「溺れ死ぬのは承知の上。そのために私はここにいるの」
 と、男に見えるように手首に嵌った鉄環を見せ付けるように腕を持ち上げてみせた。そこに繋がった鎖が、じゃらりと重く鳴る。

「そなたは、自ら死ぬつもりか」
「どの道、この先そう長くはないわ」

 捨て鉢な口調で短く言い、彩音は顔を背けて目を伏せる。
 男は、自分の影で彩音の表情が隠れてしまったので、位置を僅かにずらしてもう少し近づいた。

 銀色の髪がふわりと舞う。潮風に晒されながら、何故か彼の頭髪は重さを増したりはしなかった。
 彩音は、その髪の煌きに誘われて目を上げた。目の前に立つ男は銀色の光を全身に纏い、まるで月から来た使者のようであった。

 男はその典雅な外見にはおよそ似合わない無造作な仕草で、顔にかかる髪を大仰にかきあげ、彩音を見下ろした。
「酔狂なことだな。ならば、いっそこの上から身を投げた方が良いであろうに」
「それは駄目よ。私にはそれが許されていない」
「『許されていない』?」

 怪訝そうに聞き返した男に、何でこんなことを話しているのかと彩音は自ら不思議に思った。
 だが、少なくともこの男が里に害を為す存在ではないように見えた。まるで人間を相手にしている時のように、普通に会話が成り立っているせいかもしれない。

 誘惑もあった。
 里ではほんの数人しか知らない事実を、本当は第三者に話したかった。
 鎖に繋がれてひとり死に行く自分を、誰かに知っていて欲しかった。里の者でもなく、理性の灯る瞳をしたこの男はまさに、うってつけの存在なのだった。

 だから、少々疑問を残しつつも、彩音は口を開いてしまった。
「……私は過去に斎女として舞い、土地神の眷属けんぞくになったの。お陰で自ら命を絶つことが出来ない。眷属が身を汚せば、里が神の怒りを買ってしまうから」

 それを聞いた男は、更に彩音に聞き返した。
「したが、何故そなたが死ぬ必要がある」

「見て分からないの? さっきも言ったように、私は病に侵され後もう殆ど余命がないわ。だけど、これから四年に一度の大祭が始まる。短期間とはいえ神に仕えた者が大祭と同時に死ねば、げんが悪くて大祭が台無しになってしまう」

 それだけではない。神官達には見えてはいなかったろうが、『細かい異形達』の様子がおかしいことは彩音もずっと気にかかっていた。そういう意味でも、大祭はどうしても成功させる必要があるのだ。里の霊力を高めるために。

「…………」
「大祭を延期したり取りやめたりなんて、絶対出来ないの。この里の結界は『神域』のような強力なものではないんだし。神の御加護をけるためにも、私の死と、時期をなんとしてでもずらさなくてはいけない。……でも、神の眷属を手にかけることは大罪だし、私が自ら命を絶つことも同じ。だから、ここにいるのよ。神の意思を問うために」

「神の、意思、だと?」
海神わだつみの手によって葬られるのであれば、誰の罪にもならないから」

 男は目をすがめた。それがちょっと怒っているように見えたので、彩音は不思議そうに見返した。自分が何か、怒らせるようなことを言ったのだろうか。
 やがて、男は聞き取るのがやっとの小さな声で呟いた。

「愚かな……」

 それが誰に向けられたものなのかは、彩音には分からなかった。ふと、男が目を上げて彩音を見る。
「そなたは、事情をすべて知った上で、この処置を甘受しているというのだな?」
「……? ……ええ」

 男はやるせなく息を吐いた。
 黙りこんでしまった男の顔を、彩音は下からじっと見つめた。

 何か感情を押さえ込んでいるらしいその男は、大層な美丈夫であった。背が高くて肩幅もあり、しかしがさつな印象は塵ほどもなく、長い銀髪が羽衣のように纏わりつく様は優美ですらあった。顔立ちは貴族的な造りだが凛として男らしくもあり、樹液の結晶に似た、色の薄い瞳は切れ長で涼しく、引き締まった口許は意志の強さを象徴していた。

 と、そこでついと男の視線が彩音を捉えた。驚いて、彩音は瞳を瞬く。
「まこと、ヒトとは解せぬ生き物よな」
 ふん、と男は鼻を鳴らした。そして言った。

「里の為に、己は鎖に繋がれて独り死に逝こうとは。……それほどにあの里が大事か」
 彩音は男を見返した。
 しばしの間があって、それでも彩音はこくりとはっきり頷いた。

「ええ」
「……」

 男はそんな彩音を見据えていたが、やがてその表情は皮肉なものから自嘲めいたものに取って代わった。

「まあ良い。ならばそなた、どうせここに居ても、息絶えるその時まではただ徒然(つれづれ)なるばかりであろう。私に付き合え」
「は……?」

 呆けたように見つめるその顔に手をやり、男は親指で痩せた頬を撫でた。
 母親に良く似た、その細面を。

「丁度、杯を酌み交わす相手を欠いていた所だ。己を犠牲にするほど大事というあの里の話、私に語って聞かせよ。そなたの語るものをさかなとするのも一興……」
「……」

 彩音は呆然とした。相手の真意がまったく測れなかった。
 息絶えるその瞬間まではどうせ暇だろうから、里のことを語って聞かせろと、自分はそれを肴にして酒を飲むからと、そう言ったのだった。この、気位の高そうな銀色の男は。

 その高慢な言い分に、不思議と嫌悪感は沸かなかった。かえって清々しいくらいだった。

 何者なのだろう、この男。
 自分の、人間の生命に良い意味でも悪い意味でも無頓着なのだから、その辺の異形とは違う。が、かといって、神の慈愛もなさそうだ。しかし、人間であるはずもなく……。

 わからない。
 けれど。

 彩音は、男の言葉にはっきりと頷いてしまっていたのだった。