Brionglóid
禍つ宮
佳蛇 の巫女
01
岩肌の剥き出しになった岬の端から眺める光景は、絶景の一言に尽きる。
天候に関わらず、その甚大さでもって常に人を圧倒してくる空。視線の先には水平線が横たわり、下を向けば足が竦むほど遥か下方で波が岸壁に砕かれている。海上を走り、岸壁を伝って吹き上げる荒々しい風は、その波飛沫をこんな岬の上まで運んでくるのだった。止むことのない轟音は、吹き荒ぶ風のものとも、打ち寄せる波のものとも知れず鼓膜を打つ。
ここに立つと、身体と魂とが分離してしまうような感覚に見舞われる。
風に抱かれ、視覚を支配され、聴覚を犯される。まるで、自分の身体が自分の意識から切り離されたかのような、奇妙な浮遊感。
いっそのこと、ここから飛び降りてやろうか。そんなことまで真面目に考えてしまうほど、現実を忘れてしまう。
そういえば、ここは死んだ母がよく同じ様にして立っていた場所だった。あの時は、その後姿が全てを、子である自分すらも拒絶しているような気がして、何となく近寄り難かった。いつも、離れた位置から母が戻って来てくれる事を願いながら、見つめていることしか出来なかった。
今なら、理由がわかる気がした。確かに母は全てを拒絶していたのだろう。あの人には、忘れたい現実が多くあったろうから。
彩音は、ふと視界を過ぎった影に我に返ることを余儀なくされた。
常に目で捉えることが出来るわけではないそれは、様々な、だが共通して奇怪なカタチをした生き物だった。生き物、と断定していいものかどうか、彩音には分からない。ただ、大気中を泳ぐように、或いは風に流されるように、ゆらゆらと身体をくねらせながら漂うそれらは、秋の海月にも似ていた。動いている以上、死んではいないだろう。……生きているようにも見えなかったけれど。
それらの姿かたちは多様だったが、表情はどれも一緒だった。
空虚。何もない。
焦点の合わない目をして、ふらふら飛んでいく。時々、「あー」とか「うー」とか、言葉にならない声を発しながら。
狂気に侵されたような顔をしていた。
彼らが何者なのか、何故そうなのか何処で生まれて何処から来たものか、全く分からない。人間に害を為すものもいるが、大抵はこうして浮いているだけだ。
とりあえず、人々は彼らをこう呼んでいる。
異形、と。
「姉様」
背中にかけられた声は、それらの異形から発せられたものではなかったが、予想していたものだった。
一人でいる時は、彩音は異形を目で見ることは出来ない。肉の身体を持たないせいか、弱い異形の姿は常人の目には映らないのだ。限りなく常人に近い彩音が目にすることが出来るのも、彼女が側にいる時だけ。母の側にいるときも見えたが、母は既にこの世の人ではない。
「美波」
彩音は微笑を湛えて振り返る。やけに離れた場所に妹がいた。かつての彩音が崖に立つ母を見ていた、その位置に。
彩音はいつも一人で母の背中を見守っていたが、妹は一人ではなかった。後ろに、背の高い青年を従えている。
「……八嶋も一緒なのね」
「う、うん」
美波は困ったように頷いた。本当は一人で来たかったのだろう、妹は姉思いだったから。彩音がどんな思いでここに立っているのか、こちらから言わなくても分かっている。分かるから、彩音がこの場所へ来ることを咎める事が出来ない。けれど、必ずこうして呼びに来るのだ。
母の後を、追ってしまわない様に。
その不安を、彩音は馬鹿だなと思う。そんなことするわけがないのに。母の許へ行きたいという願望がないとは言わないが、妹を一人置いてまでそうしようとは思わない。自分こそが楔であるということに、この純粋で健気な妹は気づいていないのだ。この世で二人きりの肉親であるというのに、置いていくわけがない。
側に行って抱きしめてやりたかったが、他人がいるから駄目だった。
八嶋は相変わらず褪めた瞳で彩音を見ている。
「いつまでもそのようなところに立たれては、お風邪を召しますよ、彩音殿」
低い声が言った。いつも通りの、感情のない硬質な声。美波の手前、そう言っているだけなのだとすぐ分かる。大事な斎女の姉だから、仕方なく。取るに足らない彩音にも気遣いの言葉をかけてやる。
ご苦労様、と心の中で彩音は呟いた。
「わかった。部屋に戻るわ」
ゆっくりと歩みだすと、妹はほっとしたような笑顔を見せた。人間らしい暖かい表情だった。
だが、彼女もまた、社に戻れば感情を捨て去る。彩音の心配をする優しい妹ではなく、ただの巫女、斎女になる。
それが彼女の役目とはいえ、彩音にとってはその事実が悲しかった。この感情豊かな妹が、心に蓋をしてまで社に仕えていることが。
忙しい合間を縫ってきたのだろう、踵を返して足早に行く美波の細い背を追う。彩音が八嶋の横をすり抜ける時、また低い声が鼓膜を微かに揺らした。
「部屋を空けられる際は一言お言い置きください。斎女が、心を乱されますので」
「…………」
無意識のうちに、脚を止めていた。
そっと拳に力を込めてやり過ごし、振り向きもせずに彩音は答えた。
「……ごめんなさい。気をつけます」
形だけの謝罪を済ませるなり、早々に歩みを再開する。八嶋がついてくるかどうかなんてどうでもいい。できればついてこないで欲しいところだが。
胸の奥に大きな石を置かれたようだった。
分かっている、優秀な巫女の子にして姉、それなのに何が出来るでもない自分の存在が、社の連中には邪魔で仕方がないということ。無価値だと思っている相手に頭を下げるのはさぞかし苦痛の伴う行為だろう。……だけど!
取るに足らないと思われながら、事在る毎に干渉されるこっちの気持ちも分かって欲しい。捨て置いてくれたらどんなにいいだろう。邪魔だから退いていろと言うならそうしよう、目障りだというのなら表には出ないから。
だから、放っておいて。
これ以上惨めな思いをして、孤独を目の当たりにするのは嫌だから。