Brionglóid
海賊と偽りの姫
瞳に魅せられて
夕暮れに茜色の雲がたなびく時間はあっという間だ。
青や橙、薄紫に紅など、鮮やかな色合いが一瞬ごとに微妙に姿を変えつつ空を彩る。
陸では気の抜けない毎日を送っていたライラの、最近の楽しみがその空を眺めることだった。身内しかいない船ならではの娯楽である。
しかしその時間というのも本当にわずかで、瞬く間に夜が訪れる。
露天甲板のあちこちに角灯が点灯しだす頃、ルシアスが船縁に佇む彼女に声をかけるのも、最近は見慣れた光景になっていた。
「ライラ! 風が冷えてきた、そろそろ中へ」
「わかった」
ライラは素直に彼に従って船長室へと向かう。
二人の背中が屋内に消えて見えなくなった時、リックが不満げに呟いた。
「なーんか拍子抜けだよな」
「ん?」
と振り向いたのはティオだ。年下の先輩に、リックは尚も唇を尖らせる。
「頭領とライラさんだよ。なんであんないつも通りなの? くっついたんじゃないの二人?」
「二人とも、デレデレするような人らじゃないからね」
ティオは苦笑いで応じた。彼にしてみれば、二人の想いが通じ合ったという事実だけでも十分なのだった。
意外なことに、同じく甲板に出ていた更に先輩格のマーティンとレオンがその話題に混ざってきた。
「なあ、ライラさんって最近急に可愛くなってない?」
「へ?」
レオンが目を丸くする。マーティンは複雑な表情で言った。
「もともと美人だけど、前はそこまで気にならなかったんだよ。だけど、今は何ていうか、全然アリ。むしろすごい好み。頭領のじゃなかったら俺本気で行ってたと思う」
レオンはかすかに笑って頷いた。
「わかる。雰囲気柔らかくなったよな」
「そうそれ。正直悔しい、あんなに可愛いなんて気づかなかった……!」
マーティンが言葉通り、心底悔しそうに項垂れる。
「まあ、相手が頭領じゃ勝ち目ないけどな。あの人、だいぶ初期からライラさんのこと目ぇつけてたじゃん。そう簡単に手放すわけないし」
「ああ、そうだね。知り合ってすぐくらい。頭領って見る目あるな、そう考えると」
レオンが感心したように呟く横で、マーティンがふと思い出したように言った。
「そういえばさ。ライラさんって最初、男連れじゃなかった?」
「え、そうなんすか?」
リックが驚きの声を上げる。彼の加入前の話だからだ。
うーん、と唸りながらレオンが当時のことを思い返す。
「言われてみれば……元は一人じゃなかったような。あの人どうなったんだろうな」
「あー……」
ティオも思い出したのか、苦い顔になる。
リック以外の三人は複雑な表情で黙り込んでしまった。
しばしの沈黙の後。
「ま、いいか」
彼らは懸命にも、余計な災いの種には気づかなかったふりをすることにしたのだった。
部屋の扉が閉じた途端、強引に腕を引かれたと思ったらあっさりと抱き込まれてしまった。
「ちょ……っ」
ライラが抵抗する間もなく壁に追い詰められ、唇を奪われる。
同意のない行為に一瞬不満が沸くが、顎を捉えられて唇を優しく喰まれている内に身体の力が抜けてしまう。それと反比例して、ルシアスの口づけは激しさを増し、舌が口腔内に入り込んで蹂躙してくる。
顎を掴む手の親指で頬を撫でながら、反対の手でルシアスは彼女の右手を壁に縫い止めていた。
逃げ場を失ったライラは彼のすることに従うほかなく、とはいえ、ついていくのだけでも必死という有様だった。
やがてライラの身体からすっかり力が抜けて弛緩すると、ルシアスは右手の拘束を解き、腕を彼女の腰に回して支えてやった。
軽く音を立ててようやく唇を離し、至近距離から恋人の顔を見つめながらルシアスは薄っすらと微笑った。
「相変わらずだな。口づけひとつで、そうまで腰砕けになるとは」
「はぁっ、はぁっ……」
ルシアスにしがみつかなければ立っているのも覚束ないライラは、肩で息しながら、涙の滲む瞳でルシアスを睨みつけた。
「……他愛なくてっ、悪かったな……っ」
「悪くはないさ。まるで、この世で最高の男になったような気分になる」
ルシアスは機嫌よく言った。
「いつまでも初心なのは結構だが、その状態のお前を昼日中の表に出すわけには行かないからな。お陰で、たかが口づけをするのに日暮まで待たねばならん」
執拗な口づけによって少しぽってりとしたライラの下唇を指でなぞりながら、ルシアスは彼女の瞳を間近から覗き込んだ。
薄暗い船長室には小さな角灯が点いていたが、その僅かな光すら捉えて『翠金石の瞳』が輝きを放っていた。
「何度見ても美しい。この瞳が潤むと中の星々が煌めいて、まるで神々の住まう楽園の空を覗いているようだ。この煌めきはどんな宝石でも敵うまい。永遠に見ていられる」
羞恥からライラは思わず目を伏せたが、ルシアスは不満を言うどころか低く笑い声を漏らした。彼女の恥じらう姿がそうさせたのだ。
ライラの反応のひとつひとつが、男としての自信を満たしてくれるのをルシアスは感じていた。
ルシアスは更に彼女を煽るように囁いた。
「でもそのためには、延々とお前を啼かせなくてはならない。今以上のことをしたら、お前は俺にどんな表情を見せてくれるんだろうな……?」
「物騒なこと言うな、この変態。まだ最終当直時間(※夕方六時から八時)だってのに」
やっと息の整ってきたライラが、ルシアスの冗談に聞こえない冗談に毒づきながら、彼の身体を力任せに押しのける。このまま彼の腕の中にいたら、何をされるかわかったものではなかった。
ちょうどその時、部屋の外から声がかかった。
「ルース、入るよ! こんな時間に悪いんだけど、この契約書について相談があって」
返事も待たずに扉が開く。
やってきたディアナは、瞬時に室内の微妙な雰囲気に気がついた。
「あら、お邪魔だったかい?」
「そんなことはない」
ルシアスと二人きりという状況を今は回避したいライラが、勢い込んで言う。
「ディアナ、来たついでにあなたも果実酒を一杯どうだ?」
「いいねえ! でもまずは用件を済ませてからだね」
気さくに答えつつ、ディアナは手にした書類を軽く振ってみせた。
それから、むすっとした様子で佇むルシアスを振り返る。
「寄港先に独自の航海監査官を置くって話、引退した航海士を主に雇用するって言うけど、これはこっちからの推薦もありかい?」
「……。構わんが」
「良かった。先代の時に頑張ってくれてた爺さんが、この国にいるらしくてね……」
完全に仕事の口調でディアナは説明を始めたが、やがてルシアスの様子に不満を爆発させた。
「ちょっと。あからさまに不機嫌にならないでくれる!? あんたの正式な恋人なんていつ以来か知らないし、浮かれるのもわかるけど! こっちも大事な話!」
「ルースの正式な恋人なら、つい最近までいたはずだ。リスティーと別れてまだふた月くらいだから、浮かれるほどじゃないと思うが」
ルシアスから意識して離れた位置で、酒の用意をしていたライラが横からさらりと言う。
それを聞いたディアナは目を見開く。
一方のルシアスは耳を疑ったらしい。彼の中では既に終わった話として処理していた名前だった。
意外な名前をライラの口から出されて、単純に何の事かわからなかったようだ。
「リスティー……?」
「誰よリスティーって」
真顔になったディアナが低く呟く。それから彼女は、ルシアスの反応にも気がついた。
「え、嘘。ふた月前に別れた女のこと、もう憶えてないとか? あんた意外と下衆なのね!?」
「……誤解だ」
鼻筋に皺を寄せてルシアスが応える。
憶えていないというのは誤解だ、と受け止めたライラはこう付け加えた。
「酒場から身請けした舞姫としか、私も知らないけどな。そういえば、私と同じ瞳の色をしてると聞いた。……そうか、なるほど」
自分で言ったことに、ライラは腑に落ちるものがあった。
慌てたのはルシアスである。
「待てライラ。妙な納得の仕方をするんじゃない」
彼は即座に弁解しようとしたが、それはディアナの素っ頓狂な高声に阻まれてしまった。
「身請けぇ……? 嘘でしょルース!? じゃああたし、以前から完全に遊ばれてたわけ!?」
「……っ。だから、人聞きの悪い事を言うな。誤解だ!」
あらぬ方向に進み出す話に焦りながら彼が恋人の方を見れば、彼女は大して傷ついてもいないようだった。ちょっとくらい嫉妬する姿をみせてくれてもいいだろうに、さっぱりした気質の女剣士はこんな部分でも割り切った考えができるらしい。
本来なら称賛すべき人格である、本来ならだが。
この夜、クラウン=ルースは大層苦労をして、女性二人の誤解を解く羽目になったのだった。