Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

記憶の楔

23

「まあ……! なんて酷い」
 一同がシュライバー邸に戻ると、エルセは少女の姿に青褪め、今にも倒れんばかりだった。
 彼女ばかりでなく、出迎えた使用人達も痛ましそうな目でニナを見つめている。ここは裕福な屋敷の中で、この手の暴力沙汰やその原因である貧困からは切り離された場所だった。

 ライラは、玄関に入るとすぐ、誰にともなく頭を下げた。
「ご厄介になっている身で、いつもお騒がせしてすみません」
 ベインズ夫妻はこの屋敷の客人ではあるが、身分は庶民だ。夫妻もその辺を(わきま)えていて、使用人達に対しても世話になっている立場として接していた。今回もそれに倣った形だ。
 だから、使用人達の中にもたちまち「仕方ないな」という雰囲気が漂った。

「すまない、お嬢さん(ユフラウ)。取り急ぎ、手当をしようということで連れ帰った」
 ギルバートがエルセに言うと、エルセはハッと我に返って彼を見上げた。
 申し訳なさそうな様子の彼に、慌てて首を横に振る。
「いいんですよ、謝らないでください。こんな子どもが大怪我をしているのに、放っておけるわけがないわ」
 それからまた視線をニナに戻して、エルセは溜め息をついた。
「この街もいくら豊かになってきたとはいえ、こういうことが起きるのが現実なのですね……」

 ニナはもう涙も枯れ果てたのか、ただ黙って俯きがちに佇んでいる。
 顔は血と痣だらけであちこち腫れ、服もところどころ破れている。その服だって、元が端切れを縫い合わせてあるようなものだったから、尚更哀れに見えるのだった。

 エルセは、意を決したようにライラ達に向き直った。
「お部屋の空きはまだありますから、そちらを使いましょう。この子に合う大きさの服も調達してまいります。少々お時間をください」
「何から何まで、ありがとうございます」
 再びライラが礼をすると、エルセは彼女に微笑みかけた。
「我がシュライバー家は、この街に支えられてここまで来たのです。このような痛ましい事件に対し、見て見ぬ振りは許されません。この件は早急に父に報告します」

 それからエルセは、いつもの調子できびきびと使用人達に指示を出しはじめた。
 もちろん本人も、彼らと一緒に動くつもりのようだ。彼女はライラ達に「皆さんお疲れでしょう、お部屋でおくつろぎください」と言い置くと、使用人達とともにニナを連れて去っていった。

 ライラ達は素直に従って部屋に入ったが、こちらもただくつろぐ気はない。
 早速ライラはギルバートに尋ねた。
「あの子について、もう少し教えてくれないか? 親がいないというのは聞いた」
「数年前に病気で母親を亡くしたらしい。孤児院は追い出されたそうだ。で、この街の冬を職なし宿なしで過ごせるわけがないから、南へ行きたくて船に乗り込んだ、と」

 それを聞いたライラは、胸の前で腕を組んで考え込んだ。
「たしかに、孤児院にいい思い出がないようなことは言っていたな」
「あの子どもの年齢では、孤児院に入ったとしてもどうせ数年で出ることになる。それで親が最近まで生きていて、それが異国から来た娼婦となれば、幼い頃から孤児院にいた連中と打ち解けるのは難しいかもしれない」
 バートレットがそう言った。彼もまた孤児出身だから、孤児院がどういう場所か想像がつくのだろう。

 居場所を見つけられなかったニナは、街の中に生きる場所を求めるしかなかった。しかし残念ながらここは、海すら凍ると言われるほど冬の厳しいヴェスキアなのだった。
「だから、船で……」
 ライラは重い溜め息をついた。

 しかしギルバートは、平然とした口調で言う。
「孤児院を出たって、この街は救貧院も多い。周りと仲良くやれないようなら、そこも追い出されちまうがな。あの子どもの悪ガキっぷりは大したもんだ。常にあの調子で突っかかってくるようなら、救貧院だろうが教会だろうが断られるだろうよ」

 救貧院とは、寡婦(かふ)や高齢者などの社会的弱者に貸与される集合住宅だ。
 ヴェスキアの場合、個人の寄付で建てられた救貧院が多いため、基本的にそこでの生活は自給自足になる。他の住民達と一緒に畑の管理をしなければならず、協調性がない場合は退去を求められることもあった。
 隠者のような慎ましやかな暮らしでもあり、若者や子どもに耐えられる場所でもない。かといって、女性として生まれてしまったら、結婚でもしない限りはまともな職につくことも難しかった。

 正規の手続きを取らずに船に忍び込む行為は褒められたことではないが、ではどうするのが良いのかと訊かれて、解決策をすぐ提示できる人間もまた少ないのだった。

 気まずい沈黙が漂う。そこでバートレットが、不意に口を開いた。

「そういえば……あの子どもは男に対して、ジャックの名を出していたのですが」
 すると、ギルバートはたちまち苦い顔になった。
「あー……。できれば聞きたくなかったな、その話は」
「名前だけでは確証を得られなかったのですが、やはりそのジャックでしたか。彼女が何か知っているとか?」
「いや、あいつは何も知らないよ」

 ギルバートが否定する横から、リックががばっと頭を下げた。
「すみません、俺のせいです!」
 ライラとバートレットは困ったように彼を見た。そうやって謝られても、詳細を知らないし、まだ実害も出ていないのだ。
 ギルバートはそんなリックをよそに、嘆息混じりに独りごちた。
「ったく、馬鹿だな。遠くに逃げろって言ったのに、逆のことしやがって」

 それから彼は、ライラ達に向き直って告げた。
「あの大怪我の原因は、俺達にもないとはいえない。あいつの件は俺が引き受けよう」
「そうか、でも手が足りないときは声をかけてくれ。成り行きとはいえ、私達も無関係ではないし」
 事情が飲み込めないままライラがそう提案すると、ギルバートは弱い笑みを返した。
「ああ、そのときは頼む」

 そうやって彼らが話し込んでいると、部屋にエルセがやってきた。
 普段客人をもてなすときの微笑みではなく、やや硬い表情で彼女は一同に言った。
「あの子についてですが、今晩はこの屋敷で休ませたいのです。打撲が酷くて……。よろしいでしょうか?」

 さきほど宣言したとおり、ギルバートが代表して彼女に頷きを返す。
「わかった。かかった費用は俺に請求してくれ」
「それには及びません。すべてお任せください」
お嬢さん(ユフラウ)。気持ちはありがたいが、これ以上甘えられない」
 ギルバートは穏やかな、だがきっぱりとした口調で言った。
「たしかに、あの子どもを連れて帰ったのは俺達だ。でも全部押し付けるつもりだったわけじゃないんだ、そこは誤解しないでほしい」
「ディレイニー様……」

 エルセも、彼の言い分が理解できないほど幼くもない。その言葉が、彼の責任感から来ているということも。
 そして、彼のそういうところに惹かれている自分にも、とっくに気がついていた。
 以前のエルセなら、ここで引き下がっただろう。だが彼女は顔をあげ、必死になって彼に言った。
「わ、私も……皆さんのお役に立ちたいのです! お手伝いさせてください!」
「もう役に立ってる、充分さ。ありがとうな、お嬢さん(ユフラウ)
 エルセの本気がどこまで伝わっているのやら、ギルバートは笑ってそう返す。そして彼は、すぐライラ達に視線を移した。

「さて、俺は船に戻る。こうなった経緯を船にも報告にいかんと」
「もう? 忙しいな」
 目を丸くしたライラに、ギルバートは苦笑いを浮かべてみせる。
「とっとと葡萄酒の件を片付けようにも、一軒一軒店を回るには人手が足りなくてな。そのせいで、もともと早めに戻る予定だったんだ。こっちには伝言を預かったついでに、顔出しに来ただけ」
「伝言?」

 ライラが首を傾げると、ギルバートは苦笑を意味深な笑みに変えて言った。
「ルースからお前さんにだよ。無茶すんなってさ」
 思いがけない相手からの言葉に、ライラはパッと頬を染めた。
 たったそれだけの短い一言なのに、いろいろと感じ取ってしまって、ライラは表情を緩めた。

「わかった。肝に銘じておく」
「戻ったら、船医(サージェン)をこっちに来させよう。夜遅くになるかもしれないが、今日中のほうがいいんだろ?」
 早速外套を羽織りながらギルバートが言うのに、ライラは頷いた。
「そうだね。ジェイクには申し訳ないけど、急いでもらえたら」
「あの先生なら、患者がいるのに手間惜しむわけもねえよ」

 そうしてギルバートはリックとともに、見送りも断って慌ただしく船に戻っていった。時間はもう夕方といってもいいくらいだったので、おそらくそのせいだろう。
 ふとそこでライラは、黙ったままのエルセが気になった。
 彼女はさきほどから、思い詰めたような表情でじっと床を見つめている。いつものエルセらしくなかった。

「エルセさん?」
「すみません。あの子の様子を見てきますね」
 口早に言うと、返事も待たずにエルセはそそくさと部屋を出ていってしまう。
 さすがにライラも異変を感じて、彼女が出ていった入り口を見つめた。

「どうしたんだろう」
「……」
 バートレットは、何か思い当たることがあるような顔をしていたが、何も言わない。
 ライラが助言を乞うように彼を見ると、やがてバートレットは静かに言った。
「気になるなら、あとでそれとなく彼女に訊いてみるといい。友人になったんだろう?」
 バートレットは直接的なことを言わなかったが、突き放すような口ぶりでもなかった。
 けれどライラは、その言葉に意表を突かれた。

「……そうか。そうだな」
 ライラはぼんやりと呟いた。
 エルセとは顔を合わせれば談笑するくらいの関係にはなっていたが、こういった状況は今までなかった。
 ただの客人なら遠慮するべきところだろうが、友人なら踏み込んでいってもいいのだと、彼に言われて初めて気がついたのである。

「なんだか不思議な感じだ。ディアナもだけど、エルセさんも。私に同性の友達ができるなんて」
 半ば呆然として、ライラは言った。
「でもこういうの、ちょっと嬉しいな」
 ライラがはにかんだように微笑むと、バートレットも優しい眼差しで頷いた。

 友人というのがどういうものなのか、ライラはこれまでろくに知らずに生きてきた。だが、自分にとっての彼のような存在になれたら、きっとそれが理想なんじゃないかとライラは思った。
 彼のような気配りが、がさつな自分にどこまでできるかわからないけれど。

 しばらくして、部屋の外から人の声が聞こえてきた。
 なんだか騒がしいなとふたりが扉のほうに目を向けていると、前振りもなしにそれが開いた。
 そこに立っていたのはニナである。
 血は拭われて、幾分ましな見た目になってはいたが、とても身だしなみが整った状態には見えない。

「あんたが、ライラ?」
 ライラをまっすぐ見つめ──否、睨みあげるようにして、彼女は言った。
「……」
 ふたりはどきりとした。しかし、さきほどリック達に遭遇したときに、そういえばその名前を呼ばれたと思い出した。

 ライラが反応に困っていると、ニナはむすっとした表情でさらに言った。
「あたしの母ちゃんのほうがずっと美人だ」
 ライラは目を見開いた。予想もしていない一言だったからだ。
 彼女が何か返答する前に、廊下から使用人らしき女性の声がした。
「いけませんよ、そんなふうに家の中を走りまわっては!」
 ぱたぱたと小走りでこちらに向かってくる気配がする。足音は複数だった。

 そのことに気がつきつつ、ライラはようやく口を開いた。
「どうして急に、そんな話をするんだ?」
「……」
 ニナはぱっと下を向いた。
 ライラの対応が意外に冷静だったので、自分もそこで我に返ったとでもいうように。
 しかし、使用人とエルセが到着する一歩手前で、ニナは身を翻して走り去った。
「あ、また……!」
 慌てて使用人の女がその後を追う。

 少しだけ息を乱したエルセが、困惑したようにその背中を見送った。
「さっきまではとても素直だったのに……」
 バートレットが彼女に向かって軽く頭を下げる。
「お手を煩わせて申し訳ありません、エルセ嬢。あの子は、外の世界で生きてきた子どもです。家の中で常に行儀良くというのは、もしかしたら難しいのかもしれません」

「いや、バートレット。あの子は、私個人に何か言いたいことがあるようだった」
 彼の横からライラが言った。彼女が平然としているのを見て、バートレットは短く嘆息する。
「次にリックがきたら、あの子どものことを確認しよう」
 やれやれ、といった様子で彼は言った。
「あいつのそそっかしさはこれまで大目に見てきたが、そろそろ真面目に注意をしたほうがいいかもしれないな」

「彼の率直さのおかげで、こっちの肩の力が抜けることもあるんだ。あまり厳しい言い方をしないであげてほしい」
 ライラが言うと、バートレットは彼女を安心させるように軽く微笑んだ。
「悪いやつじゃないことは俺もわかってる。だが、何かあってからでは本人にとっても良くない。頭領にも相談しよう」

「あの」
 会話の切れ間を見計らったのか、エルセがおずおずと切り出した。
「出港は近いのでしょうか」
 バートレットは頷いた。
「ええ。これでも、予定よりだいぶ遅れているのです。むしろ、急がなくてはなりません」
「次は……次は、いつこの街にいらっしゃるんですか?」
「さあ、それは……。自分達は商船ではないので、そこまで明確な予定は立てないのです」
「そうですか。ありがとうございます」

 目に見えて肩を落としたエルセに、バートレットだけでなくライラも気遣わしげな視線を送る。
 エルセはそんなふたりに、無理やり作ったのが明らかな、弱々しい笑みを返した。
「ごめんなさい、お医者様が来る時間まで少し失礼します。なんだか疲れてしまったみたい」
 エルセは少し青褪めているようにも見えた。心配したライラがすかさず言った。
「お部屋まで送ります」
「ありがとう、でも大丈夫です」
 やんわりと断って、エルセはふたりにきちんとしたお辞儀をすると、淑女らしく背筋を伸ばして立ち去った。

 ライラはその後ろ姿を見つめていたが、やがてバートレットに促されて部屋に戻った。
 しばらくライラは、落ち着かなげに部屋の外を意識していた。
 しかし、気にしたところでどうなるものでもない。諦めて、暖炉の前に置かれた椅子に、先に座っていたバートレットと並んで腰を下ろす。

 室内が奇妙な沈黙で満たされる。
 気まずいわけではなかったが、今日は予想外のことばかりが起こる日だった。騒がしかった反動なのか、いざ彼とふたりだけになると、この静けさが妙に気になった。

「ライラ。お前だって、なかなかの美人だぞ」
 バートレットが突然そんなことを言った。
 ライラが驚いて振り向くと、バートレットは暖炉の火を見つめたまま続けた。
「あの子どもの母親は見たこともないし、正直興味もわかないが」

 その言葉に、ライラはぽかんとした。
「それじゃ、比べようがないじゃないか」
 そんな彼女を横目で見やり、ふふ、とバートレットは含み笑いを漏らす。
「そのとおりだ。……でもどうしてか、今言っておきたいと思ったんだ」

 ライラは彼の顔をじっと見つめた。
 そもそもライラは最近化粧こそしているものの、付け焼き刃は否定できない。それで娼婦と対抗できるはずもないし、しようとも思わなかった。
 ただ、バートレットはそういうことが言いたいのではないのだろう。これは多分、子どもが相手とはいえ、容姿を非難されたライラへの気遣いだった。

 美人だと言われたことよりも、その気持ちのほうが嬉しくて、ライラは微笑んだ。
「ありがとう。優しいね、バートレットは」