Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

記憶の楔

21

 昼下がりというには遅く、夕方というには早いこの時間は、通りも人で溢れていた。
 今日はこの季節には貴重な晴天だったが、冬に近づくにつれて日没までの時間は短くなっている。太陽が顔を出しているうちに用事を済ませようと、行き交う人々の顔にも焦りの色が滲む。

 忙しないのは陸地だけでなく、運河もだった。
 街のあちこちを走る運河では、物資だけでなく旅客も船で運ばれる。今もまた通りの脇にある係留所に細長い船が停まり、桟橋に人々が降り立った。

 その中に、ギルバートとリックの姿がある。彼らはシュライバー邸へ向かうため、港から運河を上ってきたのだった。

「ギルバートさんがこういう雑用買って出るの、正直意外でした」
 通りの雑踏に紛れて歩きながら、驚きというよりは困惑気味にリックが言う。
「しかも今は甲板長なのに。今回は伝言だけっすよね?」

「身体動かすほうが性に合ってんだよ。ずっと船に張りついてろってんなら、甲板長なんか引き受けなかったね」
 若すぎる後輩に、面倒臭さを隠しもせずギルバートが答える。
 リックとしては、せっかく船公認で外出できる機会なのに、余計なお目付け役がついてきたという気持ちなのだろう。それはギルバートだってわからなくはなかった。

 彼も本当は、目下の連中に煙たがられるような行動はしたくないのだ。彼自身が若い頃そうだったように、船の上司と二人きりで外出など面白くもなんともない。たとえそこに、悪意がなかったとしても、だ。
 それなのに、今は真逆のことをしてしまっている。実はギルバートも自分の行動に戸惑っていて、苦りきった顔で言い訳のように呟いた。

「ま、俺もあっちには、しばらく顔出してなかったしな」
「そういえばそうですね。……あっ。もしかしてギルバートさんも、ココア目当てっすか?」
「は?」

 突拍子もないことを言われ、ギルバートは思わず目をむいた。
 しかしリックはそんなことにはお構いなしで、一人で浮かれている。

「あそこで出されるココア、信じられないくらい美味いっすよね! 金持ちの家だから良いカカオ使ってるんだろうし、砂糖もたっぷりで!」
 勝手に同類にされてしまったが、その仕様もない内容に脱力したギルバートは、咎める気にもなれなくて適当に頷いた。
「……そうだな」

 そのココアは、シュライバー邸でエルセが時々客人にふるまう品だった。もちろんギルバートもご馳走になったことがある。
 甘ったるくて、最初は驚いたものだ。が、質のいい材料を使って丁寧に淹れたものなのは、飲んでいるうちにわかった。

 濃厚で、苦味と甘さの調和が取れていて、舌触りもいい。その辺の店ではちょっと巡り会えない代物だった。
 大量に飲みたいとは思わなかったが、それでも一口めで、ほっと息をついてしまったのは認めるべきだろう。

 何故か、そのときのエルセの穏やかに微笑む姿が鮮明に思い出され、ギルバートは愕然とした。どうしてそんなものを、こんなにはっきり憶えているのだろう……。

 しかし、彼はすぐに我に返った。
 リックが何を思ったか、脇に伸びていた橋を渡って走り出したからだ。
「おい! リック、どこに行く!?」
 慌てて追いかけたギルバートは、すぐにリックが何を見つけたのかを理解した。
 橋の中ほどにいたのは、彼にとっても見覚えのある人物だったのだ。

「ねえ、あんた! えーと、名前! 名前訊いてなかった! その、うちの船に来てただろ。俺のことわかる?」
 手すりに凭れて運河を行き来する船を眺めていた少女は、突然声をかけられて当然ながら驚いてぽかんとしていた。

 彼女は、ギルバートが見たときとは雰囲気が変わっていた。垢で黒ずんでいた肌は明るくなっていたし、髪も梳いてあるのが見て取れる。それに何より、少年のようだった服装が、年相応の少女らしいものになっていた。
 街一番の美少女というわけにはさすがにいかないが、見違えるくらいの変わり様だった。

「あのさ。この間は、ごめん」
 少女の前に立ったリックが、そう言って頭を下げる。
 少女のほうは、何か気味の悪いものでも見るような目つきで彼を見た。
「ごめんって、何が?」
「俺達、無神経なこと言っちゃってさ」

 二人の様子を、ギルバートはしばし静観することにした。
 どうやら自分の知らないところで、何かやり取りがあったらしい。それも、男側が頭を下げねばならないような部類のものが。
 少女は侮蔑するようにふん、と鼻を鳴らした。

「へんなの。謝るくらいなら言わなきゃいいのに」
「そういうわけにもいかねえだろ」
 棘のある態度をとられても、リックはめげない。かと言って逆上するでもない。
 彼は根気強く、少女に向き合った。

「そういえば、こんなところで何やってるんだよ。女の子一人じゃ危ねえし」
「こんなところね。そんなところに住んでるんだよ、あたしは」
「……住んでるからって、安全なわけじゃないだろ」
「屋根もあって食べ物もある大きな船よりは、安全じゃないかもね」

 取り付く島のない少女の態度に、ギルバートはわずかに眉根を寄せた。
 こうやってひたすら揚げ足を取って、自分の気が済むまで相手をいたぶる女はどこにでもいた。ギルバートが出会ってきた中でも、該当者をあげようとすれば何人もの女の顔が思い浮かぶ。

 こいつはまだ少女の年齢だが、このまま成長すればとんだ性悪女になるに違いないぞと、ギルバートはうんざりしながら口を開いた。

「お前、うちの船になんとかして乗りたいようだがな。そうやって突っかかってれば、いつか要求が通るだろうって目算なのか?」

 ハッとして振り向いた少女は、そこにいたのが、船に忍び込んだ際に一度会った男だと気づいて顔を強張らせた。
 しかしすぐに、きつい目になってギルバートを睨みつける。
 あのときの印象も悪く、今の言葉も好意的ではなかったので、負けん気が顔を出したらしい。

「あたしみたいな孤児には、文句言う権利もないってわけ?」
「お前の権利は知らんが、こっちには文句を引き受ける義理もねえ。お前をそういう境遇にしたのは、俺達じゃないからな」
「……っ」
 あの程度の煽り文句では動じない彼に、少女は怒りか羞恥かわからない理由で顔を紅潮させた。

 彼女が次に牙を剥く前に、ギルバートはさらに言った。
「そこのリックだってな、ちょっと前まで路地裏生活してたんだ。お前の境遇がわかってるから、こいつは心配してんだよ。その気持ちすら踏みにじって、あたしはこんなに可哀想だから周りは皆言うことを聞くべきって、本気でそう思ってるのか?」

 攻撃の機会を見失った彼女だったが、ギルバートが喧嘩腰でもなく、あくまでも淡々と告げるので、反発の炎が萎んだようだった。
 そして、言われた内容も耳に届いたようで、彼女はリックを見た。

「あんたも、家なしだったの?」
「まあね」
「……そっか」
 あっさり答えたリックに、少女は言葉をそこで切った。

 戸惑ったように視線を泳がせ、さっきまでの威勢がどこかへ去ってしまった様子で、ぼそぼそと言った。
「あたしそういえば、あんた達に一回もぶたれてないわ。もしかして、ほんとに心配してくれたの?」
「もしかしてじゃなくて、本当に心配してんだよ!」

 ようやく理解されたのを知り、リックが疲労感いっぱいの顔で言い返す。
 すると少女は、はにかんだような、泣き笑いのような、ぎこちない笑みを浮かべた。
「あんた達、変わり者だね。あの黒い人もそうだけど」
 リックは自分と年の近い彼女のその様子に、何かを思ったらしい。抑えた口調で言った。

「たしかに、今の俺は恵まれてるよ。居場所があるありがたさは身に沁みてる。ただしうちは真っ当な船じゃねえから、危ねえことも日常茶飯事だ。男の俺だって、ふたつ返事で乗船できたわけじゃねえ。(おか)のほうが安全だって頭領は言うんだ。今は、俺もそのとおりだと思ってる」
「その……ごめん」
 消え入るような謝罪を受け、リックは大きく息を吐いた。

「いいよ、なんとなく理由わかるし。でもこれからは、ちょっとくらい話を聞いてほしいね」
「あの、ほんとに大丈夫なんだよ。この辺りは、あたしにとって庭みたいなもんだから。なんなら、あんた達を案内してあげられるくらい」
 今度は突っかかる形ではなく、弁明するように彼女はそう言った。

 ギルバートがそんな少女の頭からつま先まで視線を流し、苦い表情で口を挟む。
「ヴェスキアは人の出入りの多い街だろう。地元の大人はいいとして、よそから来た連中はやっぱり危険だ」
「気にしすぎだってば。まったく」

 少女はもう、ギルバートへの敵意も失っていた。
 むしろ、彼女よりずっと大人である彼の苦言が、当て擦りではなく心配によるものだったとわかって、居心地悪そうにもじもじしている。大人の男にこういう扱いをされることに慣れていないのだ。

「よそから来たって言ったって、大体は商人だろうし。すっごく危険な奴なら、他の住人だって気にして噂になるよ」
 少女がそう言うと、そこでふと何かを思いついたらしいリックが口を開いた。
「なあ。お前、この辺の新顔で、ジャックって男の話を聞いてないか?」
「リック。余計なこと言うな」
 ハッとしてギルバートが諫める。

 が、少女は目を丸くしながら答えた。
「誰? ジャックなんてありきたりな名前、いっぱいいるじゃない」
「知らないならいい」
「あ、ちょっと!」
 急に態度を硬くしたギルバートに、少女は口を尖らせた。

「なにさ。そのジャックって人、あんた達になんか関係あるってことでしょ!」
 するとギルバートは、あからさまに舌打ちをした。リックは自分のしでかしたことに気づいて、申し訳なさそうに小さく頭を下げる。
 ギルバートは少女に顔を近づけ、低い声で彼女に言い聞かせた。

「いいか。万が一そういう奴の話を耳にしたとしても、絶対に近づくな。知らねえフリをして、できるだけ遠くに離れるんだ。わかったな?」
 彼のあまりの迫力に、少女は真っ青になってこくこくと頷くことしかできない。
 逆上してぶたれることには慣れていても、気迫のこもった恫喝をされた経験はほとんどなかったのだ。

 脅しが効いたのを見て取ったギルバートは、彼女からぱっと離れた。
 何事もなかったかのようにリックに「寄り道は終わりだ、行くぞ」と無愛想に告げると、身を翻してさっさと元の通りに向かって歩き出す。
「あ、はい! ……あっ。お前、あんまり一人でうろつくなよ! 特にその格好で! いいな!?」
 ギルバートを気にしながら少女に釘を刺すと、リックは慌てて上司を追いかけていった。

 その様子を気の抜けたまま見送り、しばらくして少女は我に返った。
「……お前じゃなくて、あたしの名前はニナっていうんだよ。馬鹿」
 負け惜しみのような独り言が漏れる。名乗らなかったのは自分だとは承知の上で。

 それからニナは顔をあげた。
 突然の出来事に振り回されたにしては、妙に気分が良かった。口喧嘩だって不発だったし、脅しめいた行為も受けたのに、だ。
「あんなに心配しちゃって。男なんて、偉そうにしてても意外と小心者だったりするもんね」
 生意気なことを言いつつも、ふふ、と笑みが溢れる。誰かに気にかけてもらえるのがこんなに気持ちいいなんて、初めて知った。

 けれど、彼らは自分を見縊(みくび)りすぎている。母親が亡くなってからも独りで生きてきたニナにとって、今更ここが危険な場所になるはずがないのだから。

 上機嫌のまま、彼女は橋を彼らとは逆の方向に向かって渡っていく。
 この先にある地区は、船乗り向けの酒場や宿屋が集中している。
 明るい時間の今だからこそどの店も静かだが、お世辞にも行儀の良い地域ではない。暗くなってからは、さすがのニナも近づかない場所だ。

 ここを通り抜けると、また別の運河を挟んで教会や救貧院のある地区になっている。ニナの目的地はそこだった。
 閑散としている通りを足早に歩いていると、不意に声をかけられた。

『どこのお嬢さんかと思えば、ニナじゃねえか』
 彼女が振り向くと、酒場の扉のひとつが開いていて、戸口に昔馴染みの姿があった。
 昔馴染みとは言っても、彼は四十に手が届こうかという年齢だ。若い頃は甘く整った顔が女性に持て(はや)されたらしいが、今はどこもかしこもくたびれていて、見る影もない。

『最近妙に女らしくなっちまって、すぐにお前だと気づかなかったよ』
 にやにや笑うその顔も、昔は女受けが良かったのかもしれなかったが、現在は違う。
 酒で充血した目や黄ばんで欠けた歯、艶もなく寝癖だらけの頭髪なんかは、大体の女達が眉をひそめるものだった。

 とはいえ、見慣れていたニナはこれまで気にとめていなかったのだ。だが、この男が先程会ったギルバートと同年代だと気づくと、急に嫌気が差してきた。
 あっちだって別に貴族というわけでもないのに、どうしてここまで違いが出てしまうのか……。
 そんな思いを押し隠して、ニナは澄ました顔で男に向き直った。

『あら珍しいじゃない、こんな昼間から起きてるなんて。さては、お酒買うお金がもうなくなっちゃったとか?』
『そんなとこだ。しかし悪くない気分だぜ、こうして着飾ったお前さんに会えたしな』

 男は妙に機嫌が良さそうだった。その理由がわからなくて、気味が悪くなったニナは一歩後退(あとじさ)る。
『似合わないお世辞なんかいいよ。あんたの好みはもっと、色気たっぷりの姐さん方だって知ってるんだからね』
『相変わらずませた口利きやがる。ま、当たってるがね』

 男は皮肉っぽい笑みを浮かべるだけで、いつものように怒鳴ってこない。不可解に思いつつも、少なくとも殴られる気配はなさそうだと、ニナは少し警戒を緩めた。

 ルシアス・カーセイザーに言われて身なりを気にするようになったが、それからというもの、この男に限らず街の大人達の対応が変わったのだ。
 もともとニナも貧困からこそ泥めいたこともしてきたため、すべての大人が好意的になったわけではないが、少なくとも会話が成り立つようになったのは実感できた。

 自分からまともに近づいていけというルシアスの言葉は、こういうことだったのかと、ニナは遅れて気がついた。
 だからこそ、船に行く日でなくても手間をかけて身なりを整えるようになったのだ。これが大人になるということなのかも、なんて漠然と思いながら。

『日暮れにはウィレムの野郎が、仕事終えて戻ってくるはずだがね。それまで俺も暇を持て余してるのさ。どうだい、ニナ。俺を助けると思って、ちょいと世間話でもしていかないか?』
 酒代を切らした男は、ニナを相手に暇をつぶそうと企んだらしい。だから怒鳴り散らさなかったのだ。

 ニナは呆れた目で男を見やった。
『あたしは、あんたが喜びそうな儲け話のネタなんか持ってないよ』
 そう言ってから、ふと彼女はさっきリック達が言っていた話を思い出した。
 儲け話ではないけれど──。

『ねえ。あんたさ、ジャックって新参者について知らない?』
『ジャック?』
 男が不思議そうな顔になった。それを見て、ニナはすぐに後悔した。何故だかわからないけど、なんとなく。

『知らないなら別にいいや』
 強引なくらい話を打ち切って、彼女はその場を立ち去ろうとした。が、男が彼女の肩を掴むほうが若干早かった。

『待てよ、せっかちだな。そいつなら知ってる』
『ほんと?』
 ニナがぱっと振り返ると、男はにやりと笑ってみせた。
『おう。なんなら会わせてやってもいい』