Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

新たな始まり

29

 フリッツの要望をブレフトが伝えると、二階の一室に陣取った男達は揃って渋面になった。
『面倒臭ぇなあ。金持ちのお坊ちゃんは、寂しい独り寝は無理ですってか?』

 赤髭の男は何とか探し当ててきた酒を持ち込んで、惜しむことなく豪快に飲んでいた。
 詰め物の入った上質な長椅子には、今夜だけで様々な染みがつき、無残な姿になっている。周りには空いた樽や瓶が無造作に転がっていた。中身の入っているものもいくつか見受けられたが、なくなったらなくなったで、どこぞから見つけてこいと命じれば出てくると思っているのだろう。

 時折、蝦蛙(ガマガエル)のような音を立てて臭い息をわざと顔面に吹き付けてくるので、ブレフトは自衛のために俯きがちで佇んでいた。

『まあいい。あのお坊ちゃんがいる部屋に鍵がないんだったらよ、扉の取っ手を鎖でぐるぐる巻いときゃいいんじゃねえか? お付きの連中もまとめて閉じ込めちまえばいい』
『……』

 何も言わないブレフトに、男は気を悪くするでもなくゲラゲラと大声で笑ってみせた。

『そう怯えんなって。俺達は仲間だ、悪いようにはしないって言ったじゃねえか。一蓮托生なんだからよ』

 おそらくそれは、半分は本気で言ったのだろうと思われた。クラウン=ルースにシュライバー商会と、次々に富豪との繋がりが出てくるブレフトに、男達は旨味を見出したらしい。これで貧乏ともおさらば、ようやく人生のツキがまわってきたと、彼らは上機嫌で酒を飲んでいるのだった。

 それは、金を引き出せる間はブレフトの生命の保証もある、ということでもあった。

 しかし実際のブレフトの立場は、貴族の肩書も看板だけ、ヨーゼフがいない今は伝手もなく、シュライバーに見限られた途端に立ち行かなくなってしまうほど儚いものだ。

 それがこの男達に知られたらどうなるか。
 何度もそのことを考え、その度にブレフトの脳裏には、光を失った執事のうつろな眼差しが蘇るのだった。

 一体どこで何を間違ったというのだろう。父が遺してくれた家も財産もあり、頼れる執事もいて、余裕はないにしてもどん底の人生ではなかったはずだ。まだまだこれからだった。

 なのに、今のこの状況はなんだ?
 ここで自分は終わるのか、自分はこの程度だったのかと、ブレフトは身を焼くような屈辱と悔恨に苛まれた。

『……。フリッツに乱暴はしないでくれ。さもないと大変なことになる』
『わーかってるって! シュライバー商会の跡取り息子なんだろ? 一回きりで使い捨てなんて、そんな勿体ねえこと誰がするかい。なあ?』

 がははと豪快に笑って酒瓶に直接口をつける男を、ブレフトは褪めた目で見つめた。
『そうじゃない。シュライバーは、商人としてだけじゃなく裏の顔も持っている。敵に回すとどうなるか、よく考えたほうがいい』

 笑い声が徐々に萎み、男達は中途半端に酔いから覚めたような表情になった。
 そのうちのひとりが、酒精(アルコール)で充血した目をしながら口を開いた。

『そういや、聞いたことある。この街には、金を貰ってよろしくやってる犬みてえな輩もいるって』
『ふうん、そういうことかい』

 首魁の赤い髭の男は、口から酒瓶を外すと雑な仕草で口を拭った。それから、ふと何かを思いついたように男は微笑った。

『俺らみてぇな流れの連中にはよ、とっつく隙もあったもんじゃなかったが、これはもしかするとだぞ。跡取り息子をうまく使えば、犬扱いなんてチンケなもんじゃなく、対等な関係ってやつを築けるかもしれねえな』

 策士にでもなったつもりなのか、男はたった今思いついたその案について、賛同というより称賛を求めて仲間達を見やった。

 しかし好き放題酒を体内に流し込んだ男達は、即座に反応することができない。それどころか、酒で濁った目と頭ではうまく内容が飲み込めず、男達は揃ってぽかんとした。

『対等……? 脅して金をせびるんじゃ?』
『連中みてえに、命令されたら尻尾振ってワンワン走り回るのは、俺ぁ、ごめんだな。恥ってもん知ってたら、そんなことできねえよ』
『今みてえに、酒飲んで楽しくやって、気が向いたら働くってのが一番いいや!』

 どっと笑い声があがる。
 あまりにも程度の低い話に、ブレフトが無意識に顔をしかめる。が、すぐ傍の赤い髭の男はそれを咎めなかった。
 男もまた、仲間を見下すような目つきで睨みつけていたからだ。

『馬鹿がよ! 今までと同じことしてるようじゃ、また前の惨めな暮らしに逆戻りするだけだろうが。俺はそっちのがごめんだ』

 下っ端の男達は笑うのをやめ、居心地悪そうに黙り込んだ。

 それぞれ事情は異なるものの、人生の落伍者(らくごしゃ)であることは一緒だ。中には、今ほど好きに飲み食いできたのは人生初、という者もいたかもしれない。
 誰からも尊敬されず、道を歩けば後ろ指を指される。彼らに優しくしてくれるのなんて商売女くらいだが、金が無いとわかれば彼女達も手のひらを返す。

 彼らは救貧院に入るにはまだ若すぎたし、気性も荒すぎた。生きていくためには、何とか稼がねばならない。だが、それができたら苦労はないのである。
 一日中働き通しの割に贅沢のできない農業も、親方に怒鳴られながら腕を磨く職人も、満足にこなせていたなら誰もここには来ていないのだ。

 だから、髭の男はそんな一同を見渡して、内心を見透かしたように不敵に微笑った。
『あのお坊ちゃんには、とことん付き合ってもらう。俺達を大事な客人として扱いたくなるようにな』


 旧ファン・ブラウワー邸は、下流の貴族が住むには広すぎる建物と言えた。

 元々の持ち主は、かつて大勢の使用人を住まわせ、友人達を招き、時には城塞として機能するような規模と頑丈さを誇りに思ったかも知れない。しかしそのどちらもが、時とともに負の遺産となっていった。

 石造りの堅牢な建物は快適さと真逆にあるもので、それでいて改修も建て直しも困難な代物だった。手間においても費用においても。

 城のようなこの邸宅を、一族の末裔は安価で手放した。
 所持していても金ばかりかかるし、何より生活に不便で住みづらい。寄贈して修道院にしてはどうかという話もあったようだが、結局は売れるのなら金に変えてしまえとなったようだ。

 事情はどうあれ、外国からやってきたヨーゼフ・ファン・ブラウワーの一家にとって、ここはまさしく夢の城だった。

 フリッツ・シュライバーもその煌めいた思い出の一片を共有していたはずだが、今現在の彼は、不気味な静寂の支配する夜の廊下に尻込みしていた。

 照明器具はあるものの、火が灯されているのは玄関に近い数箇所程度で、奥のほうは闇に沈んでいる。時間のせいもあってか今は人の気配もない。

 漆喰(しっくい)の壁面は引っ越しの際に装飾品のほとんどを外され、現在は各部屋に通じる木製の扉が点々と並ぶのみだ。花瓶や置物もなくがらんとしている。
 まるで天涯孤独の身の上で重い病に侵された老人達が、最後に過ごす療養所のようだった。

 いや、温かみのないその光景は療養所なんかよりもさらに異様で、フリッツには悪夢の一場面のように思えて仕方ない。しかし船乗りふたりは、気にする様子もなかった。

 彼らは、前もってフリッツ自身が説明した裏口を目指していた。

 廊下の先の正面には二階から階段が伸びていて、玄関側からはそこが突き当たりのように見える。しかし階段脇に回ると扉があり、使用人達が働く台所などへ行けるようになっていた。
 難なくその出入り口にたどり着き、扉を開けようとした手を、ファビオが直前で止めた。

「……」
 彼だけでなくハルも、黙って階段の上部を見上げる。
 二階から複数の男の濁声(だみごえ)がした。一人や二人ではない。
『鎖はどこだ? 念の為に外に回って窓も塞いじまえ。従者は、邪魔なら殺せ』

 会話の内容をかろうじて聞き取ることができたフリッツは、驚いてファビオの腕に縋った。

「……ぼ、僕達を捕まえる気らしいです……っ。それになんか、殺せとか……!」
 懸命に小声で訴える。ファビオもハルも、薄闇の中で表情を硬くしたように見えた。

 ファビオはハルに目顔で合図し、彼が頷くのを受けてフリッツに応えた。
「先に行きな。俺らが時間を稼ぐ。いいか、打ち合わせたとおりにやるんだ」
「で、でも」
「急げ」

 青褪めたフリッツに二の句を告げさせぬまま、ファビオは扉を開いて彼の身体を中に押し込んだ。
 どん、と力強く背中を押し、フリッツがつんのめっている間に扉は閉められてしまった。

 フリッツが呆然としていると、やがて閉ざされた扉の向こうから怒号が届いた。初めて身近に感じる戦闘の気配に、背筋が凍る。

『……ど、どう、しよう……どうしよう、どうしよう……っ』
 混乱極まったフリッツは、その場に立ち尽くして意味もなく呟いた。

 だが、扉を開けて戻ったところで、自分がなんの役にもたたないことは痛いほどわかっていた。

 ──打ち合わせたとおりにやれ。
 何とかその言葉を思い出し、震えよ止まれと祈りながら深く息を吸って呼吸を整える。

 それからフリッツは、ありったけの勇気をかき集めて身を翻すと、真っ暗な廊下を一目散に駆け出した。