Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

海港都市ヴェスキア

22

 連絡用の小型艇(ディンギー)に乗ってきたのはディアナだった。帰船のついでに使者の役を引き受けてくれたらしい。
 彼女は甲板で出迎えたライラ達に、ロイが船を去ったことを伝えた。

「お目当ての女はいないってことで押し切ったわ。でも、この街を離れるまでは用心したほうがいいだろうね」
 ああいう男って時々前しか見えなくなるからね、と彼女は苦笑を浮かべてみせる。

 その姿はいつもの彼女そのもので、今後の去就に迷う色は殆ど伺えない。
 昨夜から丸一日ルシアスと共にいて、どんな取り決めがあったのだろう。二人は何を話したのだろうか……ライラはロイのことより、むしろそちらの方が気になった。

「あなたの手まで煩わせてしまったようで、申し訳ありません、セニョーラ」
 バートレットが詫びると、夜風に豊かな髪を靡かせたディアナはそれを笑い飛ばした。
「いいんだよ、あんた達にはいくつも借りがあるんだし。それに、面白いものも見れたしね」
「面白い、もの?」

 ライラとバートレットは顔を見合わせた。
 ディアナの笑みには陰りもなく、嘘を言っているようでもなかった。とりあえず彼女の中で踏ん切りはついたようである。

 二人はそんなディアナと入れ違う形で小型艇(ディンギー)に乗り込んだ。
 時間はすでに深夜に差し掛かろうとしている。陸に目をやれば、さすがにヴェスキアといえども灯りを落としている店が大半を占めるようになっていた。

 夕食時に勧められるまま果実酒を飲んだのもあって、ライラはすぐにでも床に入って目を閉じてしまいたかった。
 しかし、ルシアスへの報告をしないわけにもいかないだろう。
 なるたけ手短に切り上げるには何と話せばいいか、気乗りしない頭でライラは考えていた。

「疲れたか、ライラ」

 隣に座っていたバートレットが、さり気なく聞いてきた。
 黙ったままのライラが気になったらしい。

「今日はいろいろあったし、無理もない。今夜は簡単な報告だけにして、面倒な話し合いやらは明日にしてもらおうか」

 幹部でもないバートレットの要請が、実際に何処まで通るかはわからない。しかし穏やかに微笑む彼の優しさが伝わってきて、ライラもつられるようにして微笑った。

「……兄と離れず一緒に育っていたら、あなたみたいだったのかな」
「え?」

 意表を突かれて聞き返したバートレットに、ライラは途端に我に返る。

「えっと、すまない! 今更酔いが回ってきたのかもしれない。今日は、子供の頃のことを思い出してばかりだったから」
「いや……。そう、か」

 バートレットは呆然としたまま呟く。
 ライラは顔を赤くして下を向いた。

「変なこと言ってごめん、忘れてもらえたら……!」
「違う、そういうことじゃないんだ」
 慌てるライラを眺めながら、バートレットはくぐもった笑い声を漏らした。
「そうだな、言われてみれば……。お前に対して感じるこの気持ちは、兄と妹か」
「バートレット?」

 一人で笑い続ける彼にライラが不安になった頃、ようやくバートレットは彼女に視線を戻した。

「実は、俺も不思議だったんだ。お前は俺なんかより遥かに腕も立つのに、どうにも放っておけない気になってしまってな。でも、お陰で納得できた」

 彼が笑ったのは、胸の内で悶々としていたモノの正体が他愛のないものだとわかり、過剰に悩んでいた自分が自分でおかしかったのだ。
 すっきりとした笑顔を見せるバートレットに、ライラも何だか気が抜けて嘆息した。

「肩書ばかり独り歩きしてしまってるけど、言っただろう。私はもともと出来の悪い人間で、そっちが本来の姿なんだ」
「どっちもお前自身さ。今日は特にそう思った。けど、それでいいじゃないか」

 そう言って、彼は片手を伸ばして軽くライラの頬に触れた。

「弱さが顔を出した時は俺を頼ればいい。力になりたいと言ったのは本心だ。お前の兄上の代わりには、到底なれないかもしれないが」
「……。代わりにするつもりなんてないよ」

 ライラは顔に触れられたことで照れくささもあったが、久々に触れた〝兄〟のぬくもりの心地よさがそれを上回った。

 生まれた環境さえ違ったなら、兄妹とはこういう関係を築くものなのだろうか。

(もし、なんて。言い出したところで仕方ないのに)
 小さく笑うと、ライラは彼の手に自分の手を重ねてそっと頬から離した。

 この甘い毒は危険だ。長く浸っては後戻りできなくなる。

「丁度、私達の目の前には越えなくちゃいけない難関があるな。早速だけど援護、期待してるよ」
 彼女がそう言うと、バートレットは進行方向にある大きな船を見上げた。

「難関、か。そうはいっても、頭領だぞ?」
「ディアナと部屋に篭もっていた理由はわかったけど、私が睨まれている理由は謎のままだ。何を言われるか考えただけで、今から震え上がりそうだよ」

 ライラのおどけた言い方に、バートレットが「馬鹿言え」と苦笑交じりに応える。
「こんな時間に面倒な問答は頭領だって嫌うだろう。ただ事実を報告すればいいだけだ」

 そうして二人は、半日ぶりにカリス=アグライア号に戻ってきた。
 船の様子は特にいつもと変わらないように見える。
 ライラ達は、甲板に上がるなり船長室(キャプテンズ・デッキ)へ向かうよう促された。

 部屋ではルシアスとスタンレイが彼らを待っていた。
 奥の私室に当たる部屋で、小さな燭台ひとつつけただけの薄暗い中、二人は海図を拡げて何やら話し込んでいた様子だ。

 顔を上げたルシアスは、疲労の残る顔をしていた。
 ただでさえ忙殺されているのに、今日はライラの捜索とコルスタッドの来訪という、突発案件が続いたのだ。

 少なくとも、今日の大騒ぎは自分に関することで、彼はただ巻き込まれたに過ぎない。自分がここにいる限り、彼が休息できる日は訪れそうになかった。
 夜が明けたら早めにこの船を離れよう。密かにライラはそう決意した。

 帰船の挨拶もそこそこに、説明を求められたバートレットが淡々と報告をあげる。

「……というわけで、その後港に戻ってレオンに会い、彼の勧めもあって人魚(シレーナ)号に乗船していました」
「そうか。ご苦労だった」

 ルシアスが平坦な声で返す。
 頭領の疲労感が、敏いバートレットにわからないわけはない。これを機に切り上げようと、バートレットが「では」と一礼してライラと共に退室しようとした。

「話はまだ終わっていないぞ、バートレット」
 ルシアスに引き止められ、二人は振り向いた。
「聞きたいことがある」
「アイ。何でしょうか」

 バートレットは扉に向かおうとしていたのをやめ、姿勢を正した。
 ライラもそれに倣い、彼の斜め後ろに控える。

 その様子を見てどう思ったのか、ルシアスは口元を皮肉げに歪めた。
「その前に、言伝があったな。コルスタッド氏からだ。お前と、お前の細君にお詫び申し上げたいと」
「……っ」

 バートレットがたじろぐ。ルシアスは笑みを深めた。

「お前が妻帯していたとは知らなかった」
「申し訳ありません。あの場を切り抜けるためにでまかせを言いました」
「では、その細君とやらは?」
「ライラのことです」

 バートレットは大きく息を吐いた。
「自分の妻だから彼女に手を出すなと、そう言えばあの男が引くだろうと」

 そこで、話を黙って聞いていたスタンレイが笑い出した。
 横からルシアスが()めつけたが、航海長はお構いなしだった。

「そいつはいいな。お前は何につけても堅すぎるのが玉に瑕だと思ってたが、咄嗟にそんな立ち回りが出来るとはね!」
「……。恐縮です、航海長」
 からかわれていると重々承知した上で、バートレットが軽く頭を下げる。

「でもそのお陰でこっちは助かった」
 そんな彼の後ろから、あくまでも冷静にライラは言った。
「後から外野が聞けば無謀と思うだろうけど、当事者としてはあれ以上を望むつもりはないよ。彼は私を守ってくれたんだ」

 室内に沈黙が流れる。

 ライラとしては、独断で無茶をしたバートレットを擁護する気持ちで言ったに過ぎない。ライラから見れば、そもそも独断でも無茶でもなかったのだ。
 バートレットの上司達を刺激しないように、ただそれだけの気持ちでの発言だったのだが。

「外野、ね」
 ルシアスの低い呟きは、室内の空気を一気に硬化させるのに十分な威力を持っていた。

 スタンレイがかすかに眉をひそめたようだった。バートレットの背中が緊張するのもわかった。
 ライラ自身、正体不明の獣の尾を意図せず踏んでしまったらしいことは何となく理解した。

 そういえばディアナが別れ際こんな事を言っていた──あんたも苦労するわねえ、カティ、と。
 子猫ちゃん(カティ)の意味がわからなかったが、彼女はきっと、このことを忠告していたのだろう。

 ライラは苦々しく思い返しながら、厄介ごとの予感に身構えた。