Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

海港都市ヴェスキア

12

 腕の中にいるライラの耳元に口を寄せ、バートレットは早口に告げた。

「俺がいいと言うまで顔を上げるな」

 先程のロイの声をライラも聞いていたはずで、一瞬身を強張らせたが、小さく頷くと反論も抵抗もしなかった。

 安心させるように彼女の背中をひと撫でした後、自分の身体ですっぽり覆うように抱え直す。ライラも彼の胸に顔を埋めたままじっとしていた。
 客観的には、恋人達の熱い抱擁に見えるだろう。

「おい、君。ええと、そこの金髪の……!」
 小走りで駆け寄ってきたロイが、改めて二人に声をかけてきた。
 バートレットは、少し間を置いて振り向く。
「何でしょうか」

 ロイ・コルスタッドは、五フィートほど離れた位置で立ち止まっていた。
 周囲の雑踏が、彼らを避ける形で流れていく。

「……。君は、どこかで見たことがあるな。いや、それよりもだ」
 ロイはロイで動揺しているのか、一度言葉を切って咳払いをした。
「そのご婦人に用があるんだ」

 ライラの身体がびくりと反応した。庇うように彼女を抱く腕に力を込めながら、バートレットは応えた。
「……俺の妻に、何の御用があると?」

 ロイが愕然とする。
「妻……?」
「ええ。妻、です」

 牽制するように、意識して冷たい響きの言葉を投げつけてやる。
 ロイは先程よりも動揺していたが、それでも冷静さを装って更に尋ねてきた。

「失礼だが、細君のお名前を伺ってもよろしいか」
 すると、ライラが服の胸元の辺りを握り込んできた。バートレットはそれに気づきながら答えた。

「アラベラ」
「……」

 ロイは、難しい顔つきでじっとこちらを見つめている。
 やがて、ロイがまた口を開いた。

「思い出した。君はクラウン=ルースの船にいた水夫だな」
「それが何か?」

 バートレットは、背中が汗でじっとりと濡れていくのを感じた。もちろん、顔には出さない。
 冷ややかな蒼灰色の眼差しを物ともせず、ロイは話しかけてくる。

「ここに入港したのは話に聞いていたんだ。ちょうど君達の船にもお邪魔しようと思っていたところだ。船長はご健在かな」
「ええ、相変わらずですよ」
「アリオルでは世話になったが、気がついたら出港していて驚いたよ。リスティーの一件でそちらにも報告をしたかったんだが」
「お構いなく。こちらも予定がありましたから」

 呑気に世間話をするような状況ではない。やや苛立ちながらバートレットは適当な受け答えを続ける。
 それが見て取れたのか、ロイは苦笑いを浮かべてみせた。

「気を害してしまったかな」
「航海の後の久しぶりの再会に、水を差されたわけですからね。用がお済みでしたら、そろそろ解放していただきたい」
「用は済んでいないんだ」

 ロイは苦笑いを引っ込め、真剣な顔つきで言った。
「無礼を承知で言うが、君の細君のお顔を確認させてはいただけないだろうか」

 バートレットは目を眇めた。
「確かに無礼だ。他人の妻に興味を持つのがどういう事なのか、その御身分にあってご存じないとは。まさか俺の妻までも、どこかから拐かしてきたとでも言うんですか?」

 あえて怒気をあらわに言ってやると、ロイは少し狼狽したようだった。しかし、必死に言い募ってきた。

「いや……言っただろう。俺は人を探している」
「ならば、見当違いもいいところですよ。妻は俺の幼馴染で、良家のご令嬢なんかじゃあない。すべての女性に、そうやって手当り次第に声をかけるつもりですか?」

 ロイは怯んだ。まるで軟派な男であるかのような当てこすりは、彼のような堅物には耐え難いものだろう。

「幼馴染……。そうか……」
 あからさまに落胆した様子で、ロイは俯いた。

 ややしてから顔を上げたが、とても気を取り直したとはいえず、まだ暗さの残る表情で告げた。
「申し訳なかった。長い間探し続けて、何度も捕まえ損ねてきたものだから……、面影が似てると、つい期待してしまうんだ。本当に、申し訳ない」

 深く頭を下げる大柄の男に、周囲の人間も奇異の目を向けている。目立ち過ぎだと思ったバートレットは、さっさと切り上げたくてつっけんどんに言った。

「頭領なら船にいますよ。会ってくれるかどうかは知りませんが」
「ありがとう。一応掛け合ってみる」

 それじゃ、と言って彼は身を翻し、市庁舎の門を潜って行った。そろそろ閉庁時間なのを思い出したのか、それとも彼が未練を断ち切りたくてそうしたのか、やや急ぎ足だった。
 その背中が建物の中に消えたのを確認してから、バートレットはやっとライラを解放した。

「もういいぞ」
 顔を上げたライラは、ずっと腕の中にいたこともあって少し頬が上気していた。
 不安そうに彼を見上げている。

「バートレット。あの……」
「少し、歩かないか」
 あえて言葉を遮るように彼は言った。

 こういう時、レオンだったらもっと気の利いたことを自然に言えたのだろうか。彼女の不安を拭い去れるような、柔らかい笑顔で。
 自分はいかんせん不器用だからなと、心の中で自嘲しながらバートレットは言った。

「船に戻るのは後でいい。それより話がしたい、ライラ」


 来た道と違う通りを抜け、二人は運河の川辺りに来ていた。

 夕暮れ時で、川を行く小船も少ない。既に係留されている方が数が多かった。
 野草の生えた土手を、二人はゆっくりと並んで歩いた。水際を洗う水音に混じって、秋の虫の鳴き声があちこちから聞こえてくる。

「ありがとう。庇ってくれて」
 長く伸びる自分達の影を何となく眺めながら、ぽつりと、ライラが言った。

 それを受けて、バートレットも口を開いた。
「お前があいつに追われているのは知ってたからな」
 ライラは何も言わない。バートレットは続けた。

「ああいうのは苦手だから自信がなかった。妻なんて言って悪かったな、せめて妹にしとけばもっと楽だったのに、咄嗟に思いつかなかった」
「変なところに拘るんだな。何とかなったからいいじゃないか、そんなの」

 思わず小さく吹き出したライラに、ホッとしながらバートレットもつられて笑った。

「運が良かっただけさ。それに必死だった」
「それにしては機転が利いてた。アラベラって、どこから持ってきた名前なんだ?」
「俺の母だよ」

 短くそう言ってから、バートレットは苦笑とともに付け足した。
「物心つく辺りに生き別れて、ほとんど記憶にないけどな」
「そうか……。でも今回は御母堂に助けられたよ」

 バートレットは、そんな穏やかな表情のライラに違和感を感じ、抱えていた疑問をぶつけた。
「なあ、どうして急に黙って出ていったんだ?」

 ライラはきょとんとした。

「出ていく? ……確かにちょっと出てくるからって言伝したけど、船には戻るつもりだったよ」
「は?」

 バートレットはバートレットで、思いも寄らない返答に目を点にした。
 ライラもさすがに何かがおかしいと気づいて、戸惑いながらも弁解した。

「だって、積荷の揚げ降ろしの間、私は出来ることも特にないし……。手間のかかりそうな用事を先に済ませてしまおうと思っただけだ」
「……本当に?」
「嘘じゃない! アリオルで予定外に海路を来てしまったから、旅券が無効になってるのがずっと気になってた。でも、あれだけ世話になっておいて、ルースに何も言わずに立ち去るわけにもいかないだろう?」

 そう説明してから、ライラは脱力したように大きく息を吐いた。
「なるほど、出ていったと思われたから追いかけてきてくれたんだな」
「……。相当焦ったぞ」

 片手で荒く頭をかいたバートレットに、ライラは申し訳無さそうに言った。

「本当にすまない。仕事の邪魔をしないつもりが、こんな風に裏目に出てしまうなんて。横着しないで直接声をかければよかった。でも結果的に助かったよ、来てくれてありがとう」
「レオンにも後で礼を言っておいてくれ。あいつもかなり心配してた」

 バートレットは、気を取り直して自分で乱した髪を撫で付けるようにかきあげる。
 そして少し間を置いてから、彼は慎重に切り出した。

「ライラ。なんで追われてるのか、聞いてもいいか?」
「……」
「全部じゃなくていいんだ。でも、俺はお前の力になりたい。頭領がどうこうじゃなく、俺個人として。話せる部分だけでいい、お前のことを教えてもらえないか?」

 微かに潮の香りを残したそよ風が、二人のもとを吹き抜けていく。
 ライラはしばらく黙って川の水面を眺めていたが、やがて振り向いた。

「ルースや他の皆には、言わないでほしいんだ」
「頭領にも?」

「ただの我儘なんだけど……あなた達とはそういう私の個人的な話と、無関係の付き合いでいたかったから。私自身、過去を捨てて生きてきた。ルースにはいつか話す時が来るのかもしれないけど、せめて、それまでは……」

 バートレットはそんなライラをじっと見つめていた。

「……わかった。言わないと約束する」
 バートレットが頷くと、ライラは弱く微笑んで「ありがとう」と言った。