Brionglóid
海賊と偽りの姫
海港都市ヴェスキア
03
ヴェスキアとは、ヤースツストランドという自然豊かな北の国が有する街だ。北西部に向けて細長く伸ばされた半島の南側が、ぐるりと陸で囲まれた大きな入り江になっている天然の港だった。半島の先と本土側の二箇所に城塞があって、有事に限らず港を監視している。
港内は浅瀬が続いており、喫水の深い船が奥まで入り込めない。そのためこの港を利用する大型船の停泊所は沖合近くになるわけだが、検疫場所となると更に街から遠のくことになる。
シュライバーの船に案内され、カリス=アグライア号と人魚号の二隻は、港の入口脇にある泊地に錨を降ろしていた。
隔離されているとはいえ、カリス=アグライア号の内部は慌ただしかった。検疫期間中の食料や水の手配を新たにしなくてはならなかったし、人魚号についてエスプランドルと交渉する必要もあった。
船は降りられないが、こちらが仕入れる物品に関しても根回しが始まっていた。予め交渉だけして、商人に必要な品数を揃えておいてもらうのだ。その傍ら、シュライバーとの商売も隠密理に進めねばならない。検疫中とはいえ支払い能力の高い船とあって、関係各所の使者を乗せた小型船は競うようにして船までやってきていた。
主に多忙を極めていたのは事務方の高級船員とルシアスである。
使者といっても検疫中の船に上がるわけにはいかず、基本的にはお互いの甲板から口頭で告げたのを書記に書き取ってもらう形だ。込み入った内容については、ジェイクの出した報告書によって何とか書類でのやり取りを認めさせた。それも受け取るのがほとんどで、こちらから出す手紙は最低限にせねばならないという制約つきだ。
その手間のかかる方法で必要な事務処理をこなそうと、彼らは四苦八苦しているのだった。
結果、ライラがいた船長室の一角は今や書類の山で溢れかえっている。胡桃材の円卓の上は言うに及ばず、床の上も書類の詰まった木箱が所狭しと並んでいた。
そしてまた、先程届いたばかりの手紙に目を通したカルロが、苦笑しながら言った。
「例の茶葉は、シュライバーの旦那のお眼鏡に叶う品質だったようだ。次も持ってこいってさ」
それを聞いたスタンレイは心底呆れたようだった。
「西のお貴族様の東洋好きは知っていたつもりでしたが、ここまでくると常軌を逸しているとしか思えませんな」
「金になるなら何でもいいさ」
ルシアスは表情も変えずに言ってのける。
購入した現地では庶民の嗜好品として安価で売られていたものが、ここでは関税が三十割を優に超える貴重品だという。シュライバーは、税関吏の目を逃れるためにヴェスキアではなく離れ小島での取引を打診してきた。
これで、検疫期間の短縮については利害が一致したということだ。
「気を抜くにはまだ早い。エスプランドルから返事は来てるか?」
ルシアスが聞くと、視線を戻したスタンレイが即答した。
「まだです」
「遅いな」
「元々人質に対する金の払いが良くない相手ですからね。渋る可能性もあるかと」
すると、カルロも不満げに鼻を鳴らす。
「あの国はどんなに頑張っても一人頭二〇〇ライヒスターラー、もっと低いか。一五〇ライヒスターラーくらいしか出さねえよ。大体ギルダー金貨二二五枚ってとこか? 金持ちっぽい国なのにな」
「しばらく戦争続きだったから、冗談抜きで国庫が底を突きかけてるのかもしれん。でもエステーべ教会は別だ」
ルシアスがいうと、意図を読んだスタンレイが告げた。
「そちらの返答もまだですね。確かに教会は、優秀な聖職者に対しては多少財布の紐が緩かったと思いますが、あの男だとどうでしょう。第一死にかけてますし」
あの男、というのはもちろん、肺病にかかって現在はジェイクが看病しているヘロニモ・クレメンテ・ゲレーロ神父のことだ。神父はジェイクが診断書を出したことによって下船して入院することが可能な状態だったが、なぜかまだ船に留まっていた。
エスプランドル側の動きが鈍いのを見て取ったルシアスは、その事もあって交渉先を増やしたのだった。
「宣教師を任命されるくらいだから、まったくの無能ではないはずだ。……あとは、奴自身の人望か?」
ルシアスの呟きに、残りの二人は複雑な表情になった。あの男で人望があるとするなら、エステーベ教会内の人望というのは、寛容さや慈愛で得られるものではないのだろう。どちらにせよ、金で引き取ってくれるのであれば別に構わない話だったが。
この手の人質交渉は海賊の、否、海戦する機会のある武装船であれば当たり前の業務だ。
特に海賊なら、高い地位についているなど価値のある相手を優先的に捕縛して身代金交渉を行う。虐殺の印象が強い海賊ではあるが、実際は無駄な殺戮は避ける事が多かった。もたもたしていれば逆に捕まる危険があるためだ。
虐殺を行うのはそれなりの理由を持った輩──すなわち、宗教や人種などの対立による憎悪をもった人間や、猟奇的な行為で快楽を得る人間だ。そして、そういう連中は海に限らず陸にも存在した。
海賊たちは積荷や火薬を奪った後はさっさと立ち去るのだが、今回彼らがそれをしないのは、相手がディアナ達であるために他ならない。
人魚号は当初から人員も物資も不足していて、放逐しても生き延びられるか難しい。かといって専門業者に身柄を預ければ、国に身代金を払ってもらえなかった乗組員達は奴隷として売られる羽目になる。
さすがに見知った相手がそうなるのを見過ごすわけにもいかず、まとめて母国に帰れるよう彼ら自身が交渉に当たっているのだった。
「あまり長居はしたくないんだがな」
ルシアスは短く嘆息した。
今のんきに検疫期間を過ごしていられるのは、場所が自治意識の強いヴェスキアで、彼らが捕まる危険が多少低いからだ。
とはいえヴェスキアは彼らにとって母港でもなく、いざとなればどうなるかわからなかった。
「頭領。情が湧くのも理解しますが、もしもの時はご決断を」
「わかっている」
スタンレイの静かな声にルシアスが頷いた時、部屋の外から声がかかった。
「失礼します。エステーべ教会から返答が来ました」
「入れ」
手紙を持って入ってきたのはティオだった。差し出した手紙は二通。どちらも筒状に丸めた状態で、赤い蝋で封がしてあった。
「片方は、神父宛だそうです」
ルシアスは無言で受け取ると、まず自分宛の方の封を解いた。ざっと目を走らせる。残る三人は息を潜めて待った。
やがて、ルシアスが顔を上げた。
「……交渉に応じる用意があるそうだ。が、神父と修道士二名の事しか書いていないな」
「教会として取り急ぎってことか?」
疑問を口にするカルロに、ルシアスは首を振る。
「わからない。だが待ってばかりもいられないからな、まずはエステーベ教会と話を進めよう」
「アイ、サー」
交渉の緒がようやく見えたとはいえ、ルシアスの表情は晴れなかった。停泊して二週間が経とうとしているが、時間がかかりすぎている。
彼が人魚号の乗組員を全員捕虜としたのは、何も情ばかりではない。
エスプランドルがディアナ達に価値を見出さなくとも、国王が共有船主という人魚号については無視をしない可能性があった。船を回収したい場合は操船のための人員が要る。となればその流れでディアナ達を引き取ることになる、と踏んだのだ。しかし未だに返答がないとなると、読みが外れたと見たほうが良さそうだった。
「こっちの手紙も確認するぞ」
カルロがそう言って神父宛の手紙を手にとった。封がしてあっても、中身を確認せずに渡すほどお人好しではない。
「ちっ、案の定古語で書いてやがる。所々はわかるが、駄目だな」
手紙を開いたカルロが舌打ちしたのを見て、ルシアスとスタンレイは視線を交わしあった。
良くない兆候だった。
ルシアス宛の手紙が公用語で、神父宛のものがエスプランドル語だというのならまだしも、聖典に使われるような古語を用いてくるとは。
「仕方ない。手紙を神父に渡してやれ」
硬い響きのする口調で、ルシアスはティオに言った。