Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

記憶の楔

19

 昼を過ぎてすぐ、ライラの様子見にジェイクがシュライバー邸を訪れた。
 今日の彼は、亜麻布(リネン)の中着の上に腰丈の上着を重ね、さらに足首に届く長さの外套を羽織っていた。医師としてはさっぱりしすぎているが、お決まりの片眼鏡(モノクル)と暗い色合いの外套だけで、それなりに知的職業らしさが出るのだから不思議なものである。

 簡単な問診に、熱や脈拍を測ったりとひととおりの診察を終えたあと、ジェイクは船の様子を話してくれた。

「一応船倉(ホールド)を総点検して、葡萄酒以外の積み荷に問題がないことはわかってる。大した話じゃなさそうだが、まあ、流通が関わってくるからな」
「見過ごせない話でもありますね」
 バートレットの言葉に、ジェイクも軽く頷く。
「ここでなぁなぁにしちまうと後が怖いと、ルースも念のため警戒したんだろう。ま、船で大問題が起きているというわけじゃないから、お前らも心配するな。もうじき片付くさ」

 彼はそう言いながら、使った道具を鞄にしまいこむ。それが終わるなり、彼はさっさと立ち上がった。
「そろそろ時間だ。次に行かせてもらうよ」
「お疲れ様です」
 バートレットが仕事鞄を持とうとすると、ジェイクは苦笑いをしてそれを止めた。
「どうせ同じ屋敷の中だ。お供されるまでもない」

 ジェイクがシュライバー邸にやってきたのは、ライラの体調が気がかりだったというだけではない。
 先日ライラに呼ばれた折に、彼はシュライバー一家に身分を明かしていたのだが、医師と聞いたシュライバー夫人がならば自分もと診察を依頼したらしい。そのとき夫人に気に入られたようで、今日は唐突に呼び出されたのだという。

「シュライバー夫人が病気とは、知らなかったな」
 ライラが呟くと、彼は肩を竦めた。
「先日診た限りじゃ、特に異常はなかったね。顔色も髪艶も悪くなかったし、歩行も正常。診察してみなきゃわからんとはいえ、今回も大病を患っている可能性は低い」
 呼ばれたから行くだけなのだと暗に匂わされて、ライラはバートレットと顔を見合わせた。

 ジェイクは組合や協会のような医療団体には所属しておらず、場所によっては正規の医師と認められないこともあった。(おか)に来ても、その地域の医師達の縄張りを荒らさないよう、往診は積極的には受け付けていない。
 しかし今回は、ルシアスの知己でライラも世話になっている関係で、シュライバー家については特例と位置づけたようだ。波風を立てないようにという彼なりの配慮だろう。

 それを理解したライラは、恐縮して頭を下げた。
「ジェイク、その……ありがとう」
「ここに来るにはいい口実さ。ギルバートも戻っちまったし、バートレットひとりじゃ手が足りないこともあるだろうからな」
 にっと笑って、彼女の肩を軽く叩くと、彼は夫人の待つ部屋に向かっていった。

 しかし次の日、ジェイクはまたライラ達のもとにやってきた。
 彼はいつもどおりのやり方でライラの問診と診察を行ったが、ライラの体調は毎日医師に診てもらうほどではない。

 バートレットも訝しく思ったのか、彼に訊ねた。
「何かあったんですか?」
「ん? 何もねえよ」
 ジェイクは軽くあしらったが、それで誤魔化されるバートレットでもない。
 診察が終わってジェイクが帰船する段階になって、バートレットは彼を外まで送ると言いだした。
 そこまでくると、ジェイクも無理に断ることはしなかった。ふたりはライラを残し、連れ立って退室した。

 しばらくして部屋の扉が叩かれ、ライラが応対に出ると、そこに立っていたのはフリッツだった。
「アラベラさん。お医者様は、もうお帰りになったんですか?」
「ええ、ついさっき。彼に何か?」
「そうですか。じゃあ、どうしようかな……

 フリッツがやってきたことにライラも困惑していたが、彼自身もどこか戸惑った様子だった。
 ただ、使用人ではなく次期当主の彼が来たのは何か理由がありそうだと思って、ライラはさっと廊下に出た。

「追いかければ間に合うかもしれません。呼び戻してきます」
「あっ、僕も行きます!」
 玄関に向かって歩きだしたライラのあとを、フリッツが慌てて追う。隣に並んで歩きながら、彼が言いづらそうにしつつ打ち明けた。

「母が、良くしていただいたお医者様にお礼をしたいということで、晩餐にお誘いするよう言われたんです」
……
 ライラが横目で見ると、フリッツも身を縮こめるようにして俯いた。
 良くしてもらうも何も、ジェイクの話では、シュライバー夫人にはこれといった異常はなかったということだったが。

「ジェイクも一応、海賊ですよ」
「そうですよね。ただ、先生ははっきり言われない限り海賊に見えません。対応も紳士的でした。それで母も、抵抗がなくなったのだと思います」
 抵抗がなくなったから、ジェイクは連日シュライバー夫人に呼び出されていたのかと、ライラはそこでようやく腑に落ちた。

 おそらくジェイクは、適当に夫人の相手をしたあと、ライラの診察を口実に切り上げていたのだろう。色男も大変だな、とライラは思った。

 フリッツは溜め息をついて、苦笑を浮かべた。
「先生について、母はもう大絶賛ですよ。あんな素晴らしいお医者様はいないって。だから失礼のないように、僕がきちんとお誘いするよう言いつかったわけです」
「そうだったんですね」
 ライラは同情の眼差しを彼に向けた。

 その程度の言伝を使用人ではなくフリッツに任せたのは、彼の言う礼儀の他に、誘いを断りづらくさせる意図もあったのだろう。もちろんフリッツもその辺のことはわかっていて、それでずっと歯切れ悪く、申し訳なさそうにしているのだった。

「母はもともと気持ちが不安定な人なんです。それが、先生にお会いしてからは毎日落ち着いて、というより機嫌が良いくらい。息子の僕としては、せめて出港の日までは先生に傍にいていただきたいなと思っています」

 フリッツは率直に言い、それからハッとしてライラのほうを見た。
「あっ、もちろんアラベラさんの主治医であるとは聞いています。ちょっとだけ、先生をお貸しいただけたらと……
「リーシャ」

 ふたりが階段を降りきった辺りで、廊下の先からやってきたのはロイだった。小走りで来たところを見ると、バートレットがライラから離れて外に出たのをどこかで見かけたのだろう。
 ライラは足を止め、舌打ちしたいのを堪えて一礼した。

「ごきげんよう、コルスタッド様」
「こんにちは、騎士殿」
 フリッツもそれに倣って礼をしたが、ロイはそれに対してなおざりに会釈したかと思うと、すぐにライラに視線を戻した。

「イリーエシア。これから君の時間を少し頂くわけにはいかないだろうか」
「申し訳ありませんが、今はご容赦ください。急がないと医師を乗せた馬車が行ってしまいます」
「今だ。少しでいい」
「騎士殿、緊急のご用件ですか?」
 ロイの勢いに困惑しながらも、フリッツはふたりの間に入った。

 ロイのアラベラに対する執着は当然彼も知っていた。夫のバートレットが不在なら、彼女を守るのは他の男性、つまりフリッツの役目である。
 しかしロイのほうは、バートレットのいない今が好機と、頭がいっぱいになった状態でフリッツを煩わしげに睨んだ。

「緊急だし、大事な話だ!」
「ではこの場でお伺いします。手短にどうぞ」
 怯んだフリッツに代わって、冷静極まりない声でライラが言った。
 するとロイは、傷ついたような顔で彼女を見た。

「どうして、そんなに冷たい仕打ちができるのだ? 君は血の通った心を持たない女性なのか?」
「夫以外の異性からの誘いを、ほいほい受ければそれこそ誤解をされかねません」
「本来は俺が夫になるはずだった」
「私の知らないところで勝手に進んでいた話でしょう」
 にべもない態度で言い、それからライラはまっすぐにロイを見つめた。
「コルスタッド様。ご用件を仰ってください」
「イリーエシア!」

 ロイが縋るように彼女の名を呼んだとき、彼の後ろから「何の騒ぎですか」と声が飛んできた。
 三人が視線を向ける先に立っていたのは、この屋敷の女主人であるマティルデ・シュライバーだった。つまり、フリッツとエルセの母である。

 まず目を引くのは、ぴんと伸びた背筋と、ぴっちりと結い上げている栗色の髪だ。特に頭髪は、大量の油を塗り込んだのが見てわかるほど、一筋の乱れもなく艶めいている。
 富豪の夫人らしく、服装も上等な生地をふんだんに使ったもので、あちこちに真珠が縫い付けられていた。
 齢は四十ほどのはずだが、肌艶は良くて実年齢よりも若く見える。ただし、その肌に刻まれたのは朗らかな笑い皺ではなく、気難しさを表すような眉間の皺だった。

 その場の視線を一身に集めたシュライバー夫人は、息子とお気に入りの騎士に挟まれたライラを睨みつけた。これみよがしに深い溜め息をつく。

「またあなたですか」
「ごきげんよう、シュライバー夫人」
 ライラの礼を無視し、夫人はさらに(まなじり)をつり上げた。
「わたくしは、夫の寛容さを尊敬しております。だから屋敷にあなた方が滞在するのも、夫に倣い、快く受け入れたつもりでしたけれどもね。こうも毎日騒がれるようですと、夫から留守を預かる者として黙っているわけにもいかなくなります」
「申し訳ございません」

 ライラは深々と頭を下げる。しかし、それだけでは気が収まらないのか、夫人はさらに続けた。
「客人の身分であるのを良いことに、昼間からそうやって殿方を侍らせているなんて、シュライバー家の品性まで疑われかねません。あなたのような奔放な女性に相応しい場所は、他にあるのではありませんか、と言いたくもなります」
「母上。言いすぎです」

 堪らず口を挟んだ息子に、夫人は一瞬驚いたように見、それからきつく睨みつけた。

「フリッツ。あなたはまだ世間をよく知りません。このような女性の手にかかれば、素直なあなたはあっという間に籠絡されてしまうのよ」
「誤解です。アラベラさんはそういう女性ではありません」
「お黙りなさい。なんて子なの、親に口答えするなんて……!」

 客人の面前でまるで小さな子どものような叱られ方をして、フリッツは羞恥で顔を赤くした。
 息子を黙らせることに成功すると、今度は夫人はロイに目を向けた。

「騎士殿、突然部屋を飛び出していったので何事かと思いましたよ」
「申し訳ありません、夫人。急を要することだったので」
「まあ。では、こんなところで足止めをされるのは不本意でしょう。ここはわたくしに任せて、どうぞお行きくださいな」
 にっこりと微笑みかけ、夫人は親しげな仕草でロイの二の腕に触れた。
 ロイ本人は困惑した様子で、しかし無下にするわけにもいかないのか、曖昧な態度で夫人にされるままになっている。

 ライラは密かに嘆息し、さてこの場をどうやって切り抜けようと思案していると、玄関の方角から扉の開閉する音が聞こえてきた。

 そちらに目を向けると、ジェイクを見送ったバートレットが戻ってきたところだった。彼は廊下に集まる面子を認めた途端、歩調を速めて彼らのもとにやってくる。
「ごきげんよう、皆さん。このようなところに集まって、どうかなさったのですか?」

 彼は、ロイから壁になるように、ライラの横にさり気なく入ってきた。
 落ち着いた口調と表情だったが、バートレットは相当焦っているようだ。ちょっと離れた隙をロイに付け入られたことで、おそらく苛立ってもいる。
 ライラは彼の気苦労を見て取り、何だか申し訳ない気持ちになった。

「ジェイクを晩餐に呼びたいって言われて、あなたたちを追いかけている最中だったんだ」
「そうか、生憎だが馬車が出たところだ」
 ライラの言葉に、バートレットは何か思い当たることがあったらしい。いつもなら気を利かせて「船に使いをやりましょうか」くらいは言うはずなのに、今はそうしなかった。

 彼は意図的に、妻を見つめた状態で言った。
「本人もあのとおり忙しいうえ、毎回馬車を手配してもらうのも気が引けるから、船が落ち着き次第戻ってこいと言われたよ。船にいてもらったほうがお前の診察をするのが楽だから、と」

 すると、シュライバー夫人は慌てた様子で口を挟んだ。
「まあ、なんて謙虚な……。馬車の手配など、大した手間でもありませんよ。往来が大変だと仰るのなら、先生のお部屋を用意することだってできるんですから。シュライバー家は先生のために尽力を惜しみませんと、そうお伝えください」
「すでに我々がお世話になっているのに、なおも寛大なお申し出をありがとうございます。ですが、出港まで日がありませんし、お気持ちだけ頂戴いたします。船医(サージェン)と船長に代わってお礼申し上げます」

 バートレットはそつのない態度で礼を述べる。
 が、言っていることは拒絶でもあった。
 彼とジェイクの間で何かやり取りがあったのだろうと、理解したライラはバートレットに横から告げた。 

「丁度、こちらのお屋敷を騒がせていることについて、夫人から指摘を受けたところなんだ。ご厚意からああ言ってくださってはいるけれど、実際にはご迷惑な部分も多いのだと思う」
「なるほど、それもそうだ」
 バートレットはライラに対してそれらしく頷くと、夫人に視線を戻した。
「申し訳ありません。危うく、あなたの寛大なお心に甘えきってしまうところでした」
「いえ、そんな……
 シュライバー夫人は思いもよらない展開に唖然としている。

 バートレットの物腰はあくまでも丁寧で、むしろ夫人を尊重したものだ。
 実はシュライバー夫人は、相手にこういう対応を取られるのが大好きだった。
 しかし、(へりくだ)られているのは確かなのに、自分の望むとおりの会話になっていないので、彼女は困惑していた。形容し難い心地悪さがあった。

 いつもなら、こうはならない。シュライバー夫人の機嫌を損ねないよう、周囲は気を回し、彼女の意を汲んで物事を進めてくれるのだ。彼女の夫や子ども達でさえも。
 それですべてが上手く行っていたし、上手く行っていたということは正しい証拠に他ならない。
 なのに、なぜ……

「当家については、どうかお気になさいませんように。父も迷惑だなんて思っていませんから」
 はっきりと返答しない夫人に代わって、フリッツが言った。
「むしろ、ご迷惑をおかけしているのはこちらです。アラベラさん、先ほどの母の非礼をお詫びいたします」
「フリッツ……?」

 愕然として、シュライバー夫人は息子を見つめた。
 フリッツは毅然とした態度で、ライラとバートレットに告げた。

「晩餐の件も、聞かなかったことにしてください。マッキンタイア先生はもともとアラベラさんの主治医ですし、そこへ無理を言って母の診察をしていただきました。それで充分です。これ以上、お時間を取らせるわけにはいきません」
「フリッツ、何を言うのです。勝手な発言は許しませんよ!」

 夫人から厳しい言葉が飛ぶと、フリッツは一瞬怯えたように身体を硬直させた。
 しかし、ぎゅっと唇を引き結ぶと、必死の眼差しをバートレットに向けた。
「シュライバー家一同、先生には感謝していたと、くれぐれもそうお伝えください。お礼はいずれ改めていたします」

 その場にいる全員が、驚いたように彼を見つめていた。
 フリッツは明るい性格だが子どもっぽさが抜けないところもあり、そこがまた憎めない青年だった。屋敷内では父に次ぐ権力者である母に対し、彼はちょっとした我が儘を言うことはあっても、真っ向から歯向かうことはなかったのだ。

 その彼が、震えながらも自分の言葉を言ってのけた。母におもねった言葉ではなく。

「さすがは次期当主。ご立派な態度だ。お父上も、さぞ鼻が高いだろう」
 感心したようにロイが言った。
「このようなご子息がおられるからこそ、お父上も安心して仕事に集中できるのでしょう。もちろん、これまで夫人が細腕ひとつで立派に育てられたことも大きい。シュライバー家も安泰ですな、夫人」

 にこにこと語りかけられたシュライバー夫人は、しどろもどろになりながら「ええ」だの「はい」だの言っている。
 息子に反抗されたことが衝撃的だったのに、お気に入りの騎士がそのことを絶賛してもいる。混乱に続く混乱に、あれだけ苛烈な光を伴っていた彼女の瞳は、どこか虚ろになっていた。

「フリッツさん。お母上はお疲れのようにお見受けします。船医(サージェン)が、気分を落ち着かせる香草茶をお持ちしているはずです。淹れて差し上げてはどうでしょう?」
 バートレットの助言に、フリッツは何か気づいたようだった。
 バートレットがライラの肩を抱き寄せたのを見て、心得たように頷いた。
「本当だ。顔色が優れませんね、母上。お部屋で少し休んだほうがいいでしょう。コルスタッド殿、手を貸していただけませんか? あなたがお傍にいるだけで、母も心強いはずです」

 そう言われてロイはぎょっとしたが、騎士としてこのような要請を断る選択肢はない。渋々ながら、彼は首肯する。
「承知した。お母上をお部屋までお連れしよう」
「では、我々も一度部屋に引き取らせていただきます」
 バートレットがそう断ると、フリッツは申し訳なさそうに告げた。

「ご自由にお過ごしください。騒がしくて迷惑だなどというのは誤解ですから、今までどおりで結構です」
 夕食の時間に誰か呼びにやらせます、と告げてフリッツ達は去っていった。

 厄介な人物達をフリッツが一手に引き受けてくれたのに感謝しつつ、ライラとバートレットはまっすぐ部屋に戻った。