Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

記憶の楔

16

 エルセに来客だと言われて部屋で待機していると、やってきたのは『天空の蒼(セレスト・ブルー)』の少年水夫に連れられた片眼鏡(モノクル)船医(サージェン)だった。

「奥さん、往診の時間ですよ、と」
「ジェイク!」
 不敵な笑みも懐かしく思えて、出迎えたライラは顔を輝かせた。
 そんな彼女の反応に気を良くしたのか、ジェイクも表情を柔らかくする。

「ご指名どうも。何度かぶっ倒れたんだって?」
「倒れたってほどでもない、いつもの発作みたいなものだ。普通にしてる分にはなんともないし、怪我や病気だというわけでもないんだけど……」

 言いながら、ライラは彼に椅子を勧める。
「あなたと話がしたくて、連れてきてくれるよう無理を言ったんだ。──リック。ありがとう」
 彼女が振り向いて礼を述べると、入り口から入ってすぐのところに立っていたリックは一瞬驚いた顔になり、それからはにかんだ笑みを浮かべた。

「いえ、このくらいなんてことないっすよ、仕事ですから! お役に立てたようで何よりっす」
「皆さんにココアをお持ちしますね」
 エルセがそう言って部屋を出ていく。
 すると、リックは少し嬉しそうにそわそわしはじめた。実は、この屋敷のこういったもてなし目当てに、ライラとの連絡係を希望する少年水夫が後を絶たないのだった。

 ジェイクは、バートレットに仕事道具の入った重たげな鞄を預けてから席に着いた。エルセが来るのを待たずに、正面に座ったライラに向けて早々に切り出す。

「怪我でも病気でもない。では、なんで俺なんだ?」
 ライラは神妙な面持ちで彼をまっすぐに見た。
「迷っていることがあって……。ジェイク、あなたは医学界からも宗教界からも距離を置いている。そういう客観的な位置からの指摘が欲しい」

「俺達は退室していましょうか?」
 空気を読んだバートレットが、横からジェイクにそう訊いた。ココアにありつけなくなると思ったリックは顔を強張らせる。

 しかし話の全容がわからない船医(サージェン)はライラのほうを窺い、そして彼女は軽く首を振った。
「大丈夫。聞かれて困るような話にはならないと思うから。もし退屈だったら出ていても構わない」
「わかった。……リック、念のためここで聞いたことは他言無用で」
 先輩格のバートレットの言葉に、リックは背筋を伸ばして「アイ、サー」と応えた。

 会話が途切れたのを見計らって、ジェイクはライラに言った。
「悪いが、俺でも無理だよそいつは。いくら距離おいてようが、俺個人の目線にすぎん。俺だって生身の人間だからな、感情も利害関係も一切排除しろと言われたらそうする努力はするが、無にすることはできない」

 きっぱりとした口調だった。
 冷たく聞こえるが、これが彼の誠実さでもあった。医師として発言に対する責任を認識しているからこそ、他人におもねった言動をとることはしない。
 もちろんライラも、そういう相手だと理解した上でのことなので、断られても機嫌を損なうことはなかった。逆に、素直に頷いて受け止める。

「そうか。では、言い方を改めよう。私に今必要なのは、治療よりも指標となるものだ。世間話とでも思って、思考を整理する手伝いをしてほしい」

 するとジェイクは、心得たように薄く微笑った。
「なるほど、それで俺(、、、、)か。で? 迷える仔猫ちゃんは何をお悩みなんだい?」
「心というか、記憶の話なんだ。ルースから聞いているかもしれないけれど、私は過去の記憶が一部欠けている」

 ライラの言葉を受け、船医(サージェン)は内容を咀嚼するようにやや時間を置いてから口を開いた。
「……確かにそういう患者を()たことはあるが」
 彼はそう前置きして、それから苦笑交じりに続ける。

「俺は正直、そっちの分野は得意じゃないんだよな。世間話とはいえ、迂闊なことは言いたくない。そもそも、心や記憶というのは医学の範疇かどうかも曖昧だ」
 ライラは違和感を覚えた。医師として無責任なことを言えないのはいいとして、博学な彼が世間話すら避けようとするのは少し引っかかった。

「あなたらしくない言い方だな」
「そうかい?」
 試すような視線を向けられ、ライラは言葉を探しながら答える。
「素人の考えだけど、あなたは医学の領域がどこからどこまでとかより、患者の状態そのものを重視している気がするから」

 すると、ジェイクが笑みを深くした。
「忘れてたよ、お前さんは勘がいいんだったな。どうだ、いっそ俺と一緒に医療やるってのは?」
「失業したら考えるよ」
「はは、期待して待ってるぜ」

 ライラの返答に、ジェイクは本気かどうかわからないくらい軽い調子で言い、それから表情を改めて続けた。

「……ま、お前の言うとおりだ。だが嘘をついたわけでもない。迂闊なことを言えない段階だという話なのさ。なんたって、心ってやつは目に見えないからな」
 そうして彼は「そうだな……」と呟き、本当に世間話でもするような口調で語り始める。

「かつて、エディルの南西部では病気という概念はなく、精神と肉体どっちだったとしても、人の不調はすべて罪の証と考えられていた。今そう呼ばれるのは、らい病(レプラ)くらいだがね。エステーベ教、公用語だとステファノ教か。ステファノ教のもとになったステパノスって男は、その時代の巡回治療師だったそうだ」

 その男は、皮膚病だろうが骨折だろうが悪霊憑きだろうが、人の苦しみを癒やして歩いた。言い伝えでは死者すら蘇らせたという。人々が苦しむのは罪によるもので、彼はそこから解放する救いの主というわけだ。

 ステファノ教はエスプランドルに限らず、エディル大陸を中心として広く信仰されている。信者ではないライラも、そのステパノスという人物にまつわる話はなんとなく知っていたほどだ。
 今や一大勢力となったステファノ教の始祖と、目の前の男が同業者だと思うと不思議な感じがした。

 分野に関係なく人の苦しみに対応しようという点では、両者は似通っている。だが、ライラの中でステパノスに対して持っている勝手な印象と、ジェイクの印象がどうしても重ならなかった。
 ステパノスのほうは、ジェイクが今明言を避けている精神の問題にも対応したという部分では、確かに違うのだが……。

「実はステパノス以外にも、むしろその男が生まれるよりずっと昔から、巡回治療師は存在した」
 ジェイクはそう続けた。
「ステパノスのように、手で触っただけでどんな病も消し去るなんて芸当ができない彼らは、人の不調というものに真っ向から向き合わねばならなかった。まだ外科も内科もない、哲学しかないような時代に」

 その辺についても、ライラは薄っすらと知識があった。といっても一般的なものだが。
 昔は身体は入れ物のようなもので、そこに精気(プネウマ)と栄養を含んだ体液が充満していると考えられていた。病気はその体液の乱れによるものだとされていて、病気の名前も種類もなかった。今の時代の町医者がやたらと瀉血(しゃけつ)をさせるのもその名残りだ。悪い血さえ出してしまえば不調は治る、というのである。
 ステファノ教も、教義の上では身体と魂を切り分けて考えている。そういう観念の時代だったのだろう、とライラは思った。

 そういえばライラは、ジェイクが瀉血をしているのを見たことがなかった。ステパノスが生きた時代は実に千七百年前、人間はようやくその思想から抜け出し始めたということか。

「当初は医学の中に迷信も哲学も一緒くたにされていて、その時点で言うなら精神的な不調も医学に入るかもしれない。病気は一種類しかなく、人によって違った症状を見せるだけだと考えられていたんだ」
 語り続けるジェイクは、普段の飄々とした男とはまるで別人のようだった。知識をひけらかす尊大な雰囲気でもなく、淡々と言葉を連ねていく。
 彼にとって思考の海を泳ぐことは、呼吸と同じくらい当たり前のことなのだろう。

「ステパノス亡き今、人間の健康にとって重要になってくるのは、地道で泥臭い経験と知恵の結晶だ。時代を下るにつれ徐々に科学的な視点が加えられ、逆に超自然的な視点が排除されていった。その試行錯誤は今もなお続いていて、それが医学という形になった」

 その話を聞いて、ライラは考え込むように目を細める。
「では、排除されてしまった精神の問題はどこに行くべきなんだろう? 今回の私の記憶について、教会にも神殿にも救いを求めようという考えはなかったんだ。自分でもわからないけど、なんとなく」

「宗教で得られるのは演繹(えんえき)的な解釈による(ゆる)しだからだろう。俺を指名してる時点で、お前が求めてるものとは異なるね」
 彼女の迷いを、船医(サージェン)はあっさりと看破してみせた。
「それに、心が神とか精霊とかいうような超自然的な分野に入ると決まったわけじゃない。医学もまだまだ発展途上だ。外科だって、医学に転用できる発見がここのところ続いたというだけで、まだ正式に医療分野として認められていないしな。精神となるとなおさらだ。病状が目視できず、治癒したかどうかも確認しようがない」

「私の場合、記憶が戻れば治癒したことになるのだろうけど……。そんなの私にしかわからないものな」
 ライラはうーんと唸ってしまった。
 ジェイクは外科医(サージェン)だ。人の不調や、心とは人間の身体のどこにあるものなのかという疑問に対しては、解剖学的な観点で考えているのだろう。だから「迂闊なことは言えない」という返答だったのだ。

 それとは逆に、人々は迷信好きだった。
 昔ほどではないにしても、今だって感染症は罪や呪いのせいだと言われ、錯乱すれば魔女だ悪魔憑きだと言われる。原因が目に見えないものだから、断定もできないが否定するのはもっと難しかった。

 ライラの記憶についてはどうだろう。
 これが悪魔のせいではないと誰かに説明したとしても、信じてもらえる確率は低かった。さすがにもう疑わしい人物は即火刑なんていう時代ではなくなったが、可哀相な人として隔離され、監視下に置かれるに違いない。
 ライラがこの問題を不安なく相談できるとしたら、ジェイク以外にいないのだった。

「あえて外科に限定して言うなら、だ。一応脳の解剖は行われていて、記憶は大脳皮質、知覚と想像はそれぞれ線状体と白質だと最近になってまた新しく定義されたようだが……おそらくそうだろう、という域から出るものではないな」
 ジェイクはそう言って、暗に外科手術で記憶を取り戻すという方法を否定した。

 もちろんライラも、手術で手っ取り早くなんとかしてくれと言うために彼を呼んだわけではない。記憶を取り戻すためとはいえ、手足を押さえつけられて頭部を切開されるなんて御免だった。

 ジェイクは片眼鏡の奥から、知性の漂う目で彼女を見た。
「そもそも、心に病気という概念は当て嵌まるのか? 日常に起こる感情の波とどう違う? まずはそこからさ。医学かもしれないし、哲学かもしれない。やっぱり神学かもしれない、あるいはそのすべてかも」

 ライラは、ステパノスと彼の印象が重ならない理由を何となく理解した。
 ジェイクは、病気や怪我といった現実と対峙する探求者だ。慣習や常識、思い込みに厳しい眼差しを向け、本当にそうなのかと常に疑問を投げかける。

 一方でステファノ教は、宗教である以上奉仕という理念が先に立つ。苦しむ人々を助ける行為または助け合う精神が大事なのであって、病院を作ったりするのはその副次的な産物だった。
 そして宗教というのは、真実の追求とか合理的な考え方とかいうものと、しばしば相性が悪かった。
 元が同業とはいえ、両者は決定的に異なるのである。

 どっちが正しいという話でもない。ただ、ジェイクが指摘したように、ライラが今求めているのは赦されて楽になる途ではなく、多少苦しかろうが真実を探る途のほうだった。

「自分で言い出しておいてなんだけど、こんな雲を掴むような話に付き合ってくれて感謝するよ」
 溜め息交じりにライラが言うと、ジェイクは軽く笑った。
「そこまで暗中模索でもない。病症が目視できないとはいえ、臨床で得られるものも馬鹿にできないもんだ」

 ライラは彼を見つめた。
 ジェイクは、これまで船医(サージェン)として乗組員達のあらゆる不調を見てきた。それはもちろん、外科に限らない。

 ライラは感染症について、ジェイクの説が正しいのではないかと考えるようになっていた。理論だけでなく、船での生活を通して実践と結果が伴っていたからだ。目に見えるものだけがすべてではないと、そのことを知れただけでも、彼女にとっては得難い経験だった。
 彼は想像力だけでそこに辿り着いたわけではない。そこにはきっと、細かい観察と丁寧な分析があったはずだ。

「ジェイク。世間話から逸脱してしまうかもしれないが、今の話を踏まえてあなたの見解を知りたい。あなたにはどう見える?」
「どう、とは?」
「治療という次元の話でないことはわかった。記憶が戻るに越したことはないんだろうけど、それよりも、失くした過程や取り戻す意味を無視してはいけないような気がするんだ。でも、その判断にも自信がない。今の私は正常ではないから。だから……、あなたの視点を借りたくて」

 ライラは慎重に言葉を紡いだ。
 ジェイクは片眉を上げ、どう応えたものか思案深げな顔をしていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「自己判断の、自己が欠けている状態だからな。仕方ないことだ。……そうだな、医師としてじゃなく、あくまでも俺個人としてだが」
 医者はライラの瞳を真っ直ぐ見つめ返し、それから軽く笑ってみせた。

「その記憶がないことで特に不都合もないなら、無理に掘り返さなくてもいいと思うね」
「……」

 ライラが不安そうな顔をしたのに気づき、ジェイクはあえてからかうような目で彼女を見た。
「お前、どうせもともと過去は捨ててた身なんだろ? だったらそのまま蓋をしといて、ルースとの未来だけ見つめて生きても、いいんじゃねえのかい。あいつの横なら退屈はしないさ」
「ルースとの、未来……?」
 呆然と呟き、それからライラは頬を紅潮させた。
 その初々しさにつられて、船医(サージェン)も思わず微笑を浮かべる。

「人生に必ずしも過去が要るわけじゃない。今日と明日があればな」
 そう言って、彼は会話を締めくくった。
 丁度そのとき、エルセが人数分の温かなココアを淹れて戻ってきたところだった。


「バートレット。ちょっといいか」
 要件を終えて退室する際、ジェイクはバートレットを呼んだ。
 いつもの口調で、まるで船仕事の伝言でも告げるような雰囲気だった。だから、何の気なしに廊下に出たバートレットは、船医(サージェン)が険しい表情に変わっているのを見て驚いた。

「あいつから目を離すな。これまで以上にだ」
 低い声でジェイクは言った。
「俺は一刻も早くライラを船に戻せるよう、ルースの尻を叩いてくる」
「どういうことです?」
 困惑しきって、バートレットは訊いた。室内での会話では、そんな緊急性は微塵も感じなかった。

 すると、船医(サージェン)は更に顔をしかめ、苦々しく告げた。
「あいつは、おそらくアレだ。船でもたまに出るだろ。派手な戦闘のあと、怪我もないのに痙攣したりする奴」
 バートレットは、愕然として目を瞠る。ジェイクが何を言っているのか、ようやく理解したのだ。

「そんな……」
 バートレットが絶望の色をした呟きを漏らすと、ジェイクは深い溜め息をつき、落ち着かなげに片手で髪を掻き毟った。

「ったく。騎士様に会ったときの反応で嫌な予感はしてたんだよな……。記憶が無いんじゃ、そりゃ平気で生活できるわけだ。しかし、対人でああなるってのがよくわからんが」
 ぶつぶつとそんなことを言い、ジェイクはもう一度、睨むような目つきでバートレットを見た。

「とにかく、あの騎士様にも今後二人きりでは会わせるな。下手をするとあいつ、ぶっ壊れるぞ」