Brionglóid
海賊と偽りの姫
記憶の楔
11
「うん、だいぶ様になってきたんじゃないかね」
化粧を施したライラの顔をひとしきり眺めてから、ディアナは満足げに頷いた。
「なかなかの美女よ。これならもう、あたしが手を貸さなくても大丈夫」
「そうか、よかった」
やや緊張した面持ちだったライラだが、ディアナの言葉に安心して破顔した。
最近の化粧品の種類すらわからない状態から、少しずつ教わって、今の彼女はなんとか自力で彩るまでになっていた。ディアナには毎回出来栄えを確認してもらっていたのだが、ようやく合格点を貰えるくらいになれたらしい。
彼女達がいるのは、晴れ渡った昼下がりの中庭である。
芝生に大きく広げた敷布の上には、見るからに高価な品々が無造作に散らばっている。女達は昼食がてら、先程外商から買い漁った化粧品や装飾品を手に、ああでもないこうでもないと議論を繰り広げていた。
秋の庭園は花も蝶も数が少なかったが、彼女達のはしゃぐ声はそれを充分補う華やかさがある。
専ら吟味するのはディアナとエルセで、ライラは話題についていくのが精一杯という有様だったが。
少し離れた場所の木陰には一回り小さな織物が敷かれ、そちらには食べ物が隔離されていた。バートレットとフリッツがそこで軽食をつまみつつ、楽しそうな彼女達を眺めて談笑している。
「ベインズさん達がここへいらしてから、姉は随分明るくなりましたよ」
常にああだといいんですけどね、と冗談めかして笑うフリッツに、バートレットは目を向ける。
「そうなんですか?」
「ええ。もともと真面目な性格ではあるんですが、長女という立場もあってか、難しく考え込んでしまう癖があるんです。でも最近は、ああやって女性らしい物事にも積極的だし、とても楽しそうだ」
エルセを見つめる目を細めて、フリッツは言った。
「もしかしたら、あれが本来の姉なのかもしれません。僕がちゃんとしてないせいで、姉はその分まできちんとしようって頑張ってくれていたんです」
「いいお姉さんですね」
「そうなんです。姉はこれまで、縁談をすべて断ってしまっているんですが、今思うと僕が頼りないからだったのかも。そして僕自身、姉にまだ傍にいて欲しかったから、わざと……」
フリッツはそこで泣き笑いのような表情になった。
「甘ったれですよね。わかってるんです。でも姉さんのあの顔を見たら、それじゃいけないなって強く思いました。思い詰めた顔じゃなくて、あんな風に笑っていてもらいたい。今更だとも、思うんですけど」
バートレットは、ライラ達と笑い合うエルセに視線を投げた。細かな宝石が輝く髪留めを手に、光がきらきらと反射するのをうっとりと眺めるその姿は、年頃の娘そのものだ。
他愛のない光景だが、バートレットはフリッツの気持ちが理解できた。
エルセの傍らにいるライラもまた、穏やかな表情で彼女と話をしている。
ロイが急に態度を強めてきたことには腹が立ったが、ライラのこの姿を見ては仕方ないとも、バートレットは思った。
着飾って髪を結い上げ、紅を差した彼女の姿は、贔屓目を抜きにしても美しかった。ディアナのような日差しを目一杯浴びた向日葵のごとき派手さはないが、彼女には、冴えた月光の下で咲く一輪の白百合のような孤高さがある。
彼女の苦痛に歪んだ顔も、悲しむ顔も、バートレットは見たくなかった。けれど、立ち止まることをよしとしないライラにとって、困難はつきものである。もしそれが避けられないことであれば、緩和させるために彼は何だってするつもりだった。
そうだ。彼女が笑っていてくれるなら、自分は何だってするだろう……。
「遅いなんてことはありませんよ」
視線を遠くにやったまま、バートレットは呟くように言った。
「守りたいものを自覚できて、はじめて一人前の男になれるんじゃないでしょうか。それがいつかなんて、大きな問題ではない。自覚したあと、どう生きるか、です」
「奥様のこと、すごく愛していらっしゃるんですね」
フリッツの言葉に、バートレットは驚いて振り向いた。
フリッツは、そんな彼をやけに大人びた笑みで見つめていた。
「ごめんなさい、ご夫婦なんだから当たり前ですよね。言葉の重みっていうのかな、全然違うなと思って。僕も、今から頑張ればあなたみたいになれるかな」
「それは……」
バートレットは言い淀んだ。不自然に感じるぎりぎり手前の沈黙を挟んで、彼は続けた。
「なれる、と思います」
フリッツが見つめてくるのを真正面から受け止めて、バートレットは繰り返す。
「なれますよ。守りたいものがあれば、人はいくらでも変われるので。俺も、そうでしたから」
「ベインズさんがそう言うなら、それを信じて僕も頑張れそうです」
バートレットの返答を受けて、フリッツは笑みを深くした。
その表情は何故か、一抹の寂しさを内包しているように見える。少なくとも数日前までの、海賊に憧れる彼が持っていた無邪気なだけの笑顔ではなかった。彼は、既に変わり始めているのだった。
不意に、ディアナが「あら」と呟いて正門のほうを見た。
外出先から帰還したヴェーナの魔導騎士が、外套を翻し、大股で歩いてくる姿がそこにあった。
ロイは中庭に集まる彼らに気づくと、方向を変え、通路を外れてこちらにやってきた。
「御機嫌よう、皆さん。楽しそうな集まりですな」
武人らしい風体をしているとはいっても、貴族出身の騎士であるロイは、こういう場での身のこなしも洗練されている。
彼はまず、この場の女主人であるエルセの前に跪いてその手に口付けた。次にディアナに同じ礼をし、最後にライラに向き合う。
だが膝をついた彼は、彼女の指先に触れたまま、じっとその顔を見つめた。
そして、眩しそうな顔で囁くように言った。
「……何ということだ。こんな無骨者の俺でも、日を追うごとに美しくなる君に目を奪われずにはいられない」
「……」
返答に窮しているライラに代わって、呆れた声を出したのは横にいたディアナだ。
「何が無骨者よ。それだけ浮ついた台詞をさらっと出せる時点で、申し分ないくらいの軟派じゃないのさ」
「それが困ったことに、本心からの言葉なので自然に出てくるのだ」
振り向いた騎士は苦笑いを浮かべている。ディアナは肩を竦めた。
「生憎だけどその美女は人妻よ。旦那はあそこ。それ以上何か言うつもりなら、まず彼に許可をとることをお勧めするわ」
そう言って、ディアナが木陰のほうを親指で指し示す。バートレットはそこから、じっと彼らを見つめていた。
「かたじけない。ご忠告のとおりにしよう」
ディアナに律儀に頭を下げたロイは、立ち上がってバートレットとフリッツのほうに足を向ける。わずかに遅れて、ライラがそれに倣った。
「ベインズ君」
名を呼ばれるより前に、バートレットもまた立ち上がって彼を迎えた。愛想の欠片もないどころか臨戦態勢の厳しい横顔を、フリッツが戸惑いながら見守っていた。
「君の美しい奥方を、一時的にお貸しいただけないだろうか。といっても、どこかに連れ出すつもりはないので安心してほしい。彼女と話がしたいのだ。同郷の昔馴染みが相手だと、昔話もなかなか尽きなくてね」
バートレットのこの態度は想定済みだったのか、ロイは特に怯むこともなくそう言った。むしろ、受けて立つつもりだとでも言いたげな挑戦的な眼差しで、彼はバートレットを見た。
騎士の後ろから、追いついたライラが歩み出る。
「バートレット!」
「アラベラ」
彼女の腕をさっと取ると、バートレットはその腰に手を回して抱き寄せた。裳が脚に絡んで、躓きかけたライラは、そのまま彼に身を預ける体勢になってしまう。
「……!」
驚く彼女の瞳を間近から捉え、バートレットは静かに言った。
「慌てないで大丈夫だ。お前の思うとおりにするといい。心配するな、俺は近くにいるから」
「う、うん……」
バートレットに今までこんな、熱のこもった目を向けられたことがなかったライラは困惑した。が、その彼の言葉でなんとなく理解した。
彼はロイに対して牽制をしているのだ、と。
ライラがロイと話をしたいと言ったのを踏まえて、バートレットは夫の立場を示しつつ、彼女が気兼ねなく話せる場を作ってくれたのだろう。彼は細かいものにまで気がつく人なので、こういった部分でライラが感心させられることもしばしばだった。
頼もしさを覚えたライラは、彼の眼差しをまっすぐ受け止めて頷いた。
「わかった」
「無理はするんじゃないぞ。気分が優れなくなったらすぐに切り上げるんだ。いいな?」
「うん、ありがとう。バートレット」
至近距離で見つめ合う男女に、フリッツは頬を赤らめている。すぐ傍に佇むロイは表情を消していたが、ライラとバートレットのふたりを見て何を思うのだろうか。
ディアナは離れた位置から褪めた目で一連の様子を眺めている。
「ではベインズ君、彼女を一時お借りする。……あちらへ行こう、リーシャ。座れる場所があるようだ」
ロイに促され、ライラはバートレットの腕から抜け出すと、何度か彼を気にするように振り返りながらもロイとその場を後にする。
エルセは目の前で繰り広げられた複雑な人間模様に、あんぐりと開いた口を手で隠している。ディアナが苦笑しながら、「あっちで香草茶でも飲みましょ」と彼女の肩を叩いた。
エルセを伴って木陰にやって来たディアナは、冷たい眼差しで去っていくライラ達を見送るバートレットに声をかけた。
「あれ、行かせて良かったわけ?」
どう見ても口説くつもりでしょと、ディアナは花壇の脇の長椅子に並んで座るライラ達を一瞥する。
肩の力を抜くように、バートレットは嘆息してようやくふたりから視線を外した。
「……。彼女がそう望んだので」
「あら。ルースはこのこと把握してるの?」
「しています。こちらにいる間は好きにさせていいと」
「ふうん、あのルースがねえ」
信じ難いとでも言うような口振りで、ディアナは呟いた。返事も待たずに座り込み、皿に盛られた梨を手にとって齧り付く。
バートレットも同じように敷布に腰を下ろすと、彼女に補足した。
「ジャック・スミスの所在がいまだ掴めないので、船内が落ち着くまではこちらにいるように言われています」
「そういうことね」
その説明で納得いったのか、ディアナは薄く笑った。
今のルシアスにとってライラは弱点でもあった。船内に問題を抱えている中で、得体の知れない敵に彼女の存在を気取られたくないのだろう。少なくとも、ロイはライラの生命を狙っているわけではないので、シュライバー邸にいてもらったほうが安全だとルシアスは判断したのだ。
「あの……。ディレイニー様がここのところお見えにならないのも、何か関係しているのでしょうか?」
彼らの会話を聞いていたエルセが、不安そうな表情でそう切り出した。
梨を咀嚼していたディアナは一瞬目を丸くし、梨を飲み下してから答えた。
「彼はね、半分あたしのせいでいないのよ」
「モレーノ船長のせい……?」
「そ。ルースの部下をひとり引き抜いちゃってさ、出帆までに引き継ぎが必要になったのよね。彼が後任を引き受けるんですって。そういえばバートレット、始めはあなたに白羽の矢が立ったって聞いたけど?」
話を振られたバートレットは、苦笑とともに謙遜した。
「役職を得るのなんて、俺にはまだ早いですから。幸い頼りになる先輩方が船にはたくさんいるので、彼らに任せますよ」
「あら勿体ない。あの船の高級船員なら、収入だって全然違うでしょうに」
「その分結果と責任を求められます。俺はまだ、自由に動けるほうがいいというか……」
バートレットが言葉尻を濁すと、ディアナは即座に察して笑った。
「そうよね、あの子のお守りもできなくなっちゃうか。それは困るわね」
「引き抜きって、ハルさんのことですよね。彼の役職は何だったんですか?」
今度はフリッツが、興味津々といった顔で訊く。するとバートレットは、果実液を白葡萄酒で割ったもので口を湿らせてから答えた。
「掌砲長です。けど、当艦には水夫長がいないので、その役割も航海長と分担する形になっていました。むしろ今は掌砲長を置かない船のほうが多くて、今回そのあたりも含めて整理するという話を聞いています。かなり重要な役職になるはずです」
「へえ、ギルバートさん凄いや!」
目をきらきらさせたのはフリッツばかりではない。エルセも瞳を潤ませ、まるで夢でも見ているように頬を紅潮させて聞き入っていた。
それを視界の端に捉えていたディアナは、何気なさを装って言う。
「大出世ね。ところで彼、所帯は持ってたかしら?」
エルセの顔が一気に強ばる。それには気づかず、バートレットは笑って答えた。
「ギルバートですか? 彼のあの能力と経験で、今まで無役だったのが逆におかしいんですよ。自由気ままを愛する性分は俺の遥か上です。養う相手がいたなら、また違ったと思いますけどね。今回も散々渋られて、引き受けてもらうのが大変だったんですから」
「……っ」
エルセが目を見開く。
ディアナは悪戯っぽい笑みを湛えて、こっそりと「ですってよ。良かったわね」と彼女に囁いた。
それを聞いたエルセの顔は、耳まで真っ赤に染めあがった。