Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

記憶の楔

10

 彼女がひとり悩んでいると、やがて扉の叩く音が室内の静寂に終止符を打った。
 やって来たのは、ルシアスとバートレットである。彼らの表情が優れないように見えるのは、悪天候による暗さのせいだけではなさそうだった。

 ルシアスは彼女をじっと見つめてから、口を開いた。
「船に戻らなくてはならなくなった。あっちで問題が起きた」
「問題?」

 驚いて訊き返した彼女に、ルシアスは小さく首を振った。
「大した話ではない。だが、俺が長く船を空けすぎたのが一因でもある。ここには今まで程、頻繁には来られなくなるだろう」
「そうか。そういうことであれば、仕方ないな」

 ライラは頷いたが、ルシアスとバートレットの表情はどこかすっきりしない。
 ルシアスのほうを一度窺ってから、バートレットが躊躇いがちに口を開いた。
「ライラ、コルスタッドの件はどうなってる?」
「ああ……」

 そこで、ライラは彼らが何を懸念しているかがわかった。
 ルシアスが傍にいられないということがどういうことか、ライラも遅ればせながら理解する。
 胸の奥に湧いた小さな恐れが、その冷たい指先で心臓に触れた気がした。

「……彼に訊きたいことが、まだ残ってるんだ」
「そうか」
 ライラの表情の強張りに、ルシアスは気づいただろうか。
 バートレットはそんな彼女を見つめ、それからルシアスのほうに振り向いた。
「頭領、俺が引き続き彼女の補佐をします」
 ルシアスはそんな彼に視線を向ける。

 成り行きで始まったライラとバートレットの偽装夫婦関係は、本来の恋人であるルシアスからすれば不愉快なものだろう。
 事実、ルシアスはあまり乗り気ではない様子で短く嘆息した。
「ああ。そうするしかないだろうな」
 ライラはその返答にかすかに驚いた。なんとなく、彼は却下すると思っていたのだ。

 もちろん、ルシアスが不在の状態でロイと向き合うのは、彼女も不安だ。バートレットだけでも残ってくれるというのは、正直ありがたい話である。
 ただ、ロイはバートレットを、イリーエシアの夫として相応しくないと思い始めている。確かに先日の彼の話は、一介の水夫には荷が重い内容ではあった。
 ロイは、イリーエシアを守るためにはある程度の権力が必要だというようなことを言っていた。そしてそれは、大体合っていた。

 ライラとしてはルシアスを巻き込みたくはないが、それはバートレットについても同様である。どこかで偽装を解かねばと、彼女は思った。
「ルース。バートレットを、いつまでも船仕事から引き離すわけにもいかないと思うんだ」
 ライラがそう言うと、二人はおや、という顔になった。

 ルシアスはわずかに片眉を上げ、探るような目でライラを見た。
「あの男とふたりきりで会うのは無謀だと、この前話したばかりだと思うが」
「既婚だと伝えてあるし、彼は一応騎士だから無体は働かないよ。前だって、私が不調を(きた)さなければごく普通の話し合いだったんだ。バートレットに常に付き合ってもらうほどでもない」

 ライラの言い分を聞いたあと、ルシアスとバートレットはどちらからともなく視線を交わし合った。
 それからルシアスは、呆れたように彼女に言った。

「ライラ。その騎士とやらが毎朝人妻相手(、、、、)に花を捧げているのは、この屋敷中の誰もが知っている」
「……」
 ばつが悪そうに俯いた彼女に対し、ルシアスは責め立てはしなかった。ただ彼は、溜め息をついただけだった。
「それを言ったのがお前でなかったら、身持ちの弛い女が、間男と逢引きするための言い訳をしていると思っただろうな」
「ルース、私は!」
「聞け、ライラ」

 顔を上げて何か言いかけたライラを、ルシアスは静かな声で制した。

「お前があの男に宗旨替えしたなんて、俺は塵ほども思ってない。それなりに、お前のことは見ているつもりだ。そのお前が今は──ひどく怯えているように見える」
「……」
「お前は、奴が追ってくるのは別の理由がある気がすると言ったな。では、ここでバートレットを遠ざける理由は何だ? それに関係するんじゃないのか」

 それ以上見透かされたくなくて、ライラは彼から顔を背けた。だが、ルシアスは言及をやめない。
「コルスタッドは魔導騎士だが、ライラ・マクニール・レイカードを凌ぐほどの剣士には見えない。武力ではなく、別のものだな。お前が冷静さを失うほどの何かをあいつが持って、あるいは知っているわけか」

「……お前なんか嫌いだ」
 ライラは振り向きざま彼を恨みがましい目で睨みあげ、そう毒づいた。
「私が話すまで待ってくれるって言ったのに。そうやって追い詰めて、全部吐かせるつもりじゃないだろうな?」

「約束は守る。だが、お前を守るためなら俺は手段を選ばない。お前が隠し立てするものを暴く必要があれば、そうするだけだ。結果、お前に多少嫌われようと構わん」
 お前さえ無事ならな。
 ルシアスはそう言って締めくくった。

 ライラはその屁理屈に悔しく思いながら、ただ唇を噛んだ。
 ルシアスのことを甘く考えすぎていた。彼はライラのことを大事に思ってくれるけれど、それゆえ彼女が矢面に立つ後ろで、大人しく待っているような男ではなかった。

 ライラが頼る頼らないと悩む以前に、彼は彼女の窮状を察知して勝手に介入してくるつもりなのだ。放っておけば、ルシアスはすべてをほしいままに暴いていくに違いない。心を丸裸にするように、彼女のすべてを。

 けれど、やはり彼らを巻き込むわけにはいかない。関わらせてはいけないのだ。
 どうしたら、ルシアスを引き下がらせることができるのだろう。
 ライラは彼を納得させるために、最低限のものを自ら差し出すことにした。

「……コルスタッドとの話の中で、私も把握しきれていない事柄がいくつかあったんだ」
 ぽつりと、ライラはそう切り出した。
「裏も取れていない状態で、夫として深く関わるのは得策ではないと思う。何かあっても責任が取れない。私だって、お前達を危険に晒したいわけじゃないんだ、ルース」

「……。なるほど」
 ルシアスがそう呟く。バートレットは堪りかねた様子でライラに言った。
「ライラ、そういうことなら俺は、尚更お前の傍を離れるわけにはいかない。どうして一人で抱え込もうとするんだ? こっちは幼児でもあるまいし、責任なんてお前だけが負うべきものでもないだろう」

 ライラは彼がそう言うだろうとは予想していたから、少し困ったような顔で答えた。

「夫婦ということになったら、どうしても夫側に責任の比重が多く行くからだよ。事情もよくわからないのにそれでは道理に合わないし、私も不本意だ。幼児ではないけれど、私はあなたをルースから預かってるんだ。責任の一切は私にあるべきだろう」

 その言葉にバートレットは唖然とし、それから吐き出すように言った。
「頭が硬すぎる」
「あなたに言われたくないぞ」
 うんざりした調子でライラが言い返す。

 その様子をルシアスはじっと見つめていたが、やがて再び口を開いた。
「ライラ。お前は俺が言い当てる以前に、時々自ら迂闊さを露呈するんだが、自覚はあるか?」
「え?」

 振り向いたライラを、深い色合いの眼差しがまっすぐに射抜いた。どきりとしたライラは、密かに息を呑む。
 ルシアスは彼女から視線を外さないまま、感情の見えない声で言った。

「これが単純に、昔馴染からの横恋慕なんて可愛い話じゃないのは、もうわかっている。お前はこうも言っていたしな。大元(おおもと)は身内の諍いだが、もし追手がかかるなら相手は悠長な手段をとらないだろう、と」

 驚いたバートレットがライラを振り向く。彼女は何も言えなかった。
 ルシアスだけが、奇妙なくらいに冷静だった。

「ここでまた、俺達を守るために遠ざけ、責任の一切をお前が負うということは……単にコルスタッドだけの問題ではないはずだ。この件にはそれだけの危険が高い確度で存在し、その上ですべてお前一人が被るつもりだと、そういう意味に受け取れるが?」

 ルシアスの口調はあくまでも静かだったが、そんな真似許してたまるかという真意も垣間見えた。それを感じ取ったライラは、思い切り顔をしかめた。

「……。お前は本当に嫌な男だな、クラウン=ルース」
「お前の脇が甘いのさ、ライラ」
 反対にルシアスは、そこでやっと小さく微笑んだ。その目はまったく笑っていなかったが。

 ライラはしばし逡巡し、やがて項垂れて大きな溜め息をついた。
 何かを振り払うようにかぶりを振ってから顔を上げ、ライラは絞り出すように告白した。

「身内の話だというのは本当だ、影響範囲の問題なんだ。わざわざ追いかけてくるのだってこっちも驚いたし、馬鹿げてると思う。そんな話になってると思わなかったんだ」
 ライラは一旦言葉を途切れさせ、軽く目を伏せて視線を落とした。
「お前にいつかすべて話すって、その約束は私も守るつもりだ。だけど」
「だけど?」

 ルシアスに促されて、彼女は渋々ながら再度口を開いた。

「……記憶が欠けている、らしい。コルスタッドと話していて気がついた。私は、彼と関わりが薄かったから知らなかったんじゃなくて、彼を思い出せなかったんだ。他は大体覚えているのに」
「……」
 ルシアスとバートレットは、まるで示し合わせたかのように同時に目を眇める。

 溜め息をひとつついてから、ライラは続ける。
「彼のことを深く掘り起こそうとすると……思考が止まる。何かがおかしい。でも何が起きてるのか、私も把握できていない。これじゃお前に打ち明ける以前の話だし、こんな危なっかしい状況に他の誰かを巻き込めないだろう」

「その状況の中で、一番危なっかしい位置にいるのはどう考えてもお前じゃないか、馬鹿! 相手はヴェーナの魔導騎士なんだぞ」
 呆れ返ってバートレットがそう言った。続けて彼は、苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てるように呟く。
「あの堅物のコルスタッドが他人の妻に花なんて、妙だと思っていた。あいつは、記憶が曖昧なライラの足元を見たんだな。舐めた真似を」

形振(なりふ)り構ってられないんだろう」
 ルシアスは片頬にのみ笑みを乗せ、皮肉っぽく言った。
「小賢しいとは俺も思うが。夫婦の契りなんてのは倫理的な制約でしかない。本気で欲しかったら、他人のものだからなんて呑気なことを言ってられんよ。どんな手を使ってでも、奪ってしまえばそれで勝ちだ。そうなれば、隙を見せるほうが悪いということになる」

 いかにも海賊といった言い分に、ライラは嫌悪感をあらわにした。
「恐ろしいことを言うな。そんな考え方が肯定されるようでは、世の中は滅茶苦茶になる」

 すると、ルシアスは軽く肩を竦めた。
「だから、無駄な衝突を避けるために、どこの社会にも規則というものがあるんだ。逆に、欲するもののためなら衝突もやむなし、となったら規則や倫理なんて無意味だという話さ。あの男はそういう決断をしたんだろう」

 ライラはそれを聞いて返す言葉を失った。
 ロイのあの情熱は、罪悪感から生まれたものだ。そのために、折り目正しいはずの彼がそんな行動に出ている。
 やはり、彼の言う償いの意味を知らねば、とライラは思った。

「ただ……」
 と、ルシアスが続ける声に、ライラはハッと我に返る。
「お前と対面する前のコルスタッドは、そこまでではなかった気がするが」

 ライラは彼のその言葉にぎくりとした。
 このままでは追い詰められて、本当に洗いざらい白状させられてしまうのではないか。ルシアスのこういうところは、本当に厄介だった。
 頼むからそれ以上踏み込んでこないでくれと、ライラは祈った。

 そこで、バートレットが口を開いた。
「ライラ。お前が何と言おうと、俺はここに残るぞ」
 彼女が振り向くと、やや険しい表情でバートレットは言った。
「昔馴染だからと、気を抜いていい相手じゃない。あっちが形振り構わないなら、俺達も相応の覚悟でいくべきだろう。ひとりでなんて無謀だ。絶対に駄目だからな」

「バートレット……」
 ライラはそんな彼を見つめた。

 ルシアスも、彼の意見を後押しするようにライラに言う。
「本当は、お前とあの男をこれ以上接触させたくもないんだ。それでも奴に会うなら、せめてこいつを傍に置いてくれ、ライラ」

 命令口調ではなかった。彼としても譲歩をした上でそう言っているのだろう。
 わかっているだけに、返答に迷ったライラは俯いた。ルシアスもそれを見て嘆息する。
「そんな顔したお前をここに置いていくのは、気が進まないどころの話じゃない。とはいえ、船が落ち着かないことには、無理に連れて帰るわけにもな」

 苦々しく言うルシアスに、バートレットが尋ねる。
「時間がかかりそうですか?」
「いや、そこまでかけるつもりはない。終わり次第出港する、お前達もすぐ合流できるようにしておいてくれ」
「わかりました」

 バートレットは頷き、それからライラを見た。
「ライラ……」
「わかったよ。こちらの要件も、できる限り早く片付ける。そのために、バートレットには引き続き力を貸してもらうよ」

 ここらが潮時だとライラも感じていた。お互い完全に退くという選択肢がない以上、妥協点を見つけてそこで留めるべきだった。
 ライラは佇むふたりに頭を下げた。
「我儘を言ってすまない、ルース。バートレットもありがとう」

 ルシアスは少し安堵した様子で、けれど納得はしきっていないという複雑な表情でそれに応じる。
「いいさ。その我儘ってやつも、別にこれが最後ではないと覚悟はしてる」
 彼も約束を守ることとライラを守ることの狭間で、今回強引な攻め方をしたという自覚があるようだった。

 バートレットは彼女の肩に手を置き、弱い笑みを向けてくる。
「お前を残して船の仕事に戻ったって、気になって仕方ないだけだ。俺も最善を尽くすから、とっとと片付けよう」
「うん」

 バートレットに微笑み返しながら、ライラもまたすっきりとしない何かを抱えていた。
 こうなったらもう、彼らに深入りさせないうちにロイの件を切り上げて、さっさと船を出してもらうしかないと、半ば自棄になって思った。