Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

記憶の楔

09

 その日は曇り空で朝から薄暗く、室内では灯りが必要なほどだった。
 窓から覗く空には鼠色の雲が低くたちこめ、いつ雨が降り出してもおかしくはない。日差しの恩恵を受けていない大気は温度も上がっておらず、雨が降れば更に低くなるだろうと思われた。

 ライラはひとり窓際に佇み、暗い空をじっと眺めていた。
 そこに立つと硝子窓の冷たさで肌寒いくらいだったが、今の彼女にはその冷気に縋りたい気持ちがあった。冴えた空気が思考を纏める一助(いちじょ)になれば、と。

 ──償いが必要だと言うなら、いくらでもしよう。

 ロイの言葉が脳裏に焼き付いている。その償いの意味するものが、何度考えてもわからなかった。

 いや、あの発作を警戒して、記憶の海を奥底まで潜ることに躊躇しているのは、きちんと認めるべきだろう。表面を撫でるように過去を思い返してみても、おそらく意味がないのだ。

 あの発作自体も、ライラには不可解だった。
 彼女が幼い頃に病がちだったのは確かだが、成人する頃にはその片鱗もなかった。今まで何の違和感もなくライラとして旅を続けてきて、ロイに再会したことで歯車が狂い始めたのだ。

 最初は追跡者の存在に動揺しすぎたのかと思っていたが、どうやらそんな単純なものではないらしい。
 償い以前に、ロイと関わった記憶がごっそり抜け落ちているようだった。兄の友人以上の要素が、本当に思い出せないのである。

 自分の子供時代のことは覚えているし、両親のことも兄のこともわかる。翻弄されるだけだった日々については所々忘れている部分もあるが、大まかなことは記憶にあった。

 第一、故郷を捨てると決めた時点で、思い出の大半は不要なものになっていた。記憶の引き出しに仕舞われたままなら、時とともに細部がぼやけていくのも仕方のないことだろう。もしかしたら、忘れてしまったことそのものに気がつかないかもしれない。
 ロイが現れなければ、それでも良かったのだ。

(いや、良くはないか)
 ライラは短絡的な思考を即座に否定した。

 聞いたところによると、やはり父はイリーエシアを探しているというではないか。今回、事前にそういった情報が掴めたのは、不幸中の幸いとも言える。

 ただ、記憶が曖昧な状態では、いくら情報が手もとにあったとしても活かし切るのは難しいだろう。忘れてしまった部分が、そのまま盲点になりうるからだ。
 せめて、何が欠けているのかの特定くらいはしたほうがいい。そのためには、ロイの協力が不可欠になる。

「……とはいえ」
 ライラの唇から、低い呟きが漏れる。

 ロイと接触することで起こるあの発作は、五感のすべてを振り回されるような、不快極まりないものだった。

 呼吸すらままならず、苦しい最中に死の恐怖がちらつく。戦いの先にあるものと違って、何の意義も見いだせない不本意な死については、ライラであっても恐怖を抱くのだ。
 たとえそれが記憶を辿るのに必要なことだとしても、何度も進んで体感したいものではない。

 それに、どこまでロイを信じていいのかわからなかった。記憶がない以上、彼が信用に足る人物かどうかの判断材料が乏しいのだ。

 今のところ、ロイは無害な男に思える。しかし彼に関わることでライラに発作が起き、失われた記憶も彼に関するものとなれば、隠された何かがあると考えるのが妥当だろう。
 隠された何か──それを探ろうとすると、ライラの思考はそこで止まってしまう。必要性は感じるのに、抵抗感はどうしても拭えなかった。

(そういえば、ルースが近くにいると思ったら、気持ちがかなり楽になったな)
 ふと、ライラはそんなことを思い出した。

 恋人だからというよりは、多分ルシアスだからだろう。何があっても、安心して任せられる相手だからだ。実際、彼にはそれだけの力があった。

 ライラはそのルシアスが傍にいてくれることを、まるで奇跡のように思っていた。

 恋人に限らず友人でもなんでも、遠慮なく頼ってほしいなんていうのはよく出る言葉である。
 しかし現実はどうだろう。誰かの力を借りたい場面とは、些細な手伝いから命がけの大事まで様々だ。特に後者──自分一人ではとても手に余るという問題に直面したときこそ、他人の助力は喉から手が出るほど欲しくなるものだ。

 けれど個々の能力にはばらつきがあって、それは残念なことに“助けてあげたい”感情の強さと比例しない。
 結果、やっぱり無理だと途中で投げ出されてしまうかもしれない。それならまだいいほうで、負担の重さに相手が潰れてしまう可能性もある。

 そうしないために、本当に助けが必要な大きな問題ほど、孤独に対処せねばならなくなるわけだ。少なくとも、今までのライラはそうだった。

 ルシアスは、能力においても胆力においても、そういった不安要素が限りなく少ない相手だ。大抵のことなら涼しい顔をしてこなしてみせるだろうし、多少の無理があったとしても、そう簡単には潰されない。
 その彼が、あろうことか恋人という地位に収まり、ライラへの助力を惜しまないという。これが奇跡でなければ、何かの冗談に違いないとライラは思う。

 しかし、何事にも絶対ということはありえない。万が一ということを考えると、ライラはどうしても躊躇してしまうのだ。

 ライラの思いをよそに、彼のほうは事ある(ごと)にもっと頼れと言ってくる。
 その気持ちもわからなくはない。彼女が彼の立場でもそう言うはずだ。なかなか胸の内を打ち明けてくれないことに、疎外感すら感じるかもしれない。

 ライラ自身、彼が自分の問題に踏み込んできてくれたら、本当は嬉しいのだ。寄り掛かってもう楽になってしまいたい気持ちも、正直ある。
 でもライラがその欲求に負けた結果、彼が傷つき、最悪失うことにでもなれば──。

(そんなの考えたくもない……!)
 嫌な想像を振り払うように、彼女は首を振った。

 誰も頼れなかったから、強くなる必要があった。強くなってしまったから、頼れる相手もいないと思っていた。
 その葛藤を打ち砕いてくれたルシアスを、失えるわけがないのだ。

 もう滅茶苦茶である。頼ってもいい稀有な存在だからこそ、失うのが怖くて頼れないなんて。

「馬鹿か、私は」
 ライラの唇から、長い溜め息が漏れた。

 とはいえ、彼にはいつかすべてを話すと約束してしまった。
 あのときライラは彼の気持ちに報いたくてそう言ったのだが、それはある程度目処(めど)がついた時点を想定していた。しかしロイと話したことで事情に変化があった今、そう簡単な話ではなくなってしまった。

 そもそも、目処なんかつくのだろうか。当初抱えていたロイの問題に加え、発作や記憶の欠如という未知数の課題も出てきたというのに。
 ルシアスを巻き込みたくはないが、かといって自分一人で対応しきれるのか。それとも、支障のない範囲であれば、ルシアスを頼りにするのも可能なのか。

(いや、それは無理だ)
 中途半端に彼を関わらせることが、ライラは怖かった。

 広い海を自由に生きる彼と比べ、(おか)のしがらみからいまだ逃れられない自分が惨めだった。気の向くまま各地を旅する賞金稼ぎのライラなんて、はったりの存在なのだ。みっともなくて恥ずかしくて、その事実を彼に知られたくなかった。

 家だの結婚だの義務だの、当たり前のものだと思って育った。しかし一度外の世界に飛び出してみれば、狭い檻と煩わしい鎖にしか見えなくなった。今更そんな所に、ルシアスを引きずり込むなんて冗談ではない。

 それでも彼自身は、ライラが打ち明ければまるごと許容してくれるのだろう。それがどんな内容だったとしても、彼にどんな負荷をもたらすものだったとしても。
 すべてを背負ってやるなんて、格好つけるためだけに(うそぶ)く奴ではない。何なら本当に、とことんライラに付き合おうとするかもしれない。

「だから、困るんだけどな」
 はあ、とライラは暗い表情で再び溜め息をついた。
 どうしたらいいのか、答えがまったく見えなかった。