Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

記憶の楔

08

 長椅子に凭れかかるライラの様子に、ディアナは色を失くして声を上げた。
「どうしちゃったっていうのよ、ねえ!」

 痛ましげにライラを見つめながら、ロイが代わって応えた。
「彼女はもともと身体が弱いのだ。幼少期から」
「はぁ? 嘘でしょ、さっきまであんなに元気で……」
 思わずディアナは目を剥く。

 普段のライラは、背筋が伸びていてだらけた様など滅多に見せない。まるで軍学校の模範生のような彼女が、ロイとエルセに見守られる中でぐったりしているのが、ディアナにはにわかに信じられなかった。
 そもそも彼女は、あのライラ・マクニール・レイカードだというのに。

 ディアナが共に駆けつけたルシアスのほうを見やると、彼は苦い溜め息をついて言った。 
「時折、こういう発作が出るという報告は受けていた」
「何よそれ、初耳だわ」
 愕然とするディアナに、青い顔をしたライラが弱く笑う。
「大丈夫だよ、ディアナ。病気ではないんだ、少し休めば収まる」
「……信じていいのかい、それ?」
 とても言葉どおり大丈夫とは言えない様子に、ディアナは疑わしげに訊き返す。

 彼女は海賊船の船長として病人も怪我人も数多く見てきたが、原因が分からないのに倒れる人間というのは話が別だった。生まれつきの虚弱体質だというなら納得もするが、ライラがそうだとはどうしても思い難い。

 ライラの前に跪いていたロイは、立ち上がってディアナとルシアスに向き直った。
「事情があってここにいるが、リーシャは本来なら安静が必要な身だ。貴殿にも言っただろう、クラウン=ルース。だから俺は、ずっと彼女を探していたのだ。彼女を保護するために」

「リーシャ?」
 聞き慣れない名前をディアナが復唱すると、ゆっくりと身体を起こしたライラが、気だるげに息を吐きつつ答えた。
「私の元の名前」
「ああ……」

 それだけでディアナは、名前の意味以外にも色々と察した。
 身分を偽って活動する海賊にとって、家族や昔馴染が追いかけてきて大騒ぎすることほど、身の置き場がない話もない。

 こっちは新たな場所で新たな人間関係を築いて人生を歩んでいるというのに、追ってきたほうは昔のことを持ち出して過去の時間軸で話そうとする。
 郷里を捨てるわけでもなければ過去をなかったことにするわけでもないのだが、とにかく、追って来られたほうは程度の差はあれども、居た堪れなくなってしまうのだ。

 ライラは海賊ではないものの、似たような状況におかれては誰しも同じ思いを抱えるだろう。その叫びたくなるようなむず痒さを想像したディアナは、女剣士に同情の目を向けた。

 少しばかり落ち着きを取り戻したライラは、保護者を気取るロイに毅然として言った。
「コルスタッド様。私はもう、あの頃のような小さな少女ではないのです」
 振り向いた騎士は、苦々しく彼女を見下ろす。
「か弱い女性であることに変わりはないだろう。今だって、そのような有様だというのに」
「これは病気とは違います」
「病気でもそうでなくてもいい。何であろうと俺は、君のすべてについて責任を取るつもりだ」

 その言い分に、ライラは失望したように小さく首を振った。やはりこの程度では沼に杭もいいところで、ロイの熱意には何の影響ももたらさないようだ。
 再度ルシアス達に視線を向けた彼は、きっぱりと宣言した。

「そういうわけだ。今後彼女のことについては、俺に一任していただきたい」
「それには及ばない」
 薄い氷のように鋭く冷たい声が、すかさずルシアスの唇から放たれた。
「彼女の主治医はうちの船医(サージェン)だ。面倒はこちらで見る」

 絶対零度の冷ややかさは、声ばかりでなくその眼差しにも宿っている。それを向けられたロイが、思わず怯んだほどだ。
 ルシアスの声は普段耳触りの良いものなのだが、一度攻撃性を纏えば、荒らげることなく相手を切り刻むこともできる。

 ルシアスに頼もしさを感じる以上に、まず危険な匂いを感じ取ったライラは、制止するべく口を挟んだ。
「ふたりとも何か思い違いをしてないか? 私は手足の動かない重病人じゃないんだ。医師も必要ないし、自分の世話は自分でできる」

 だが、目の前に敵の存在を察知した男達にはその声も届かない。
 ロイは負けじとルシアスを睨み返して言った。
「俺は彼女の兄上とは長年の友人だ。俺が適任だと思うが」
「では、その兄上とやらの面倒を好きなだけ見ればいい。こっちは彼女と直接の付き合いがある」
 ルシアスはロイの眼差しを薄笑みで受け止める。

 ロイは一瞬ぐっと言葉に詰まったが、気持ちを奮い立たせるようにして何とか言い返す。
「俺のほうが貴殿らより遥かに古い関係だ」
「古いだけで、寝食を共にするほどの間柄ではなかろうよ」
 薄い笑みが見下すような嘲笑に変わり──彼にこれをやられると、本当に腹が立つのだとライラもよく知っていた──ライラはたまらず声を上げる。

「だから! 人の話を聞けったら!」
 当のライラを会話から締め出しながら、事態は収拾がつかなくなりかけていた。
 ルシアスとロイの間には火花すら弾けそうで、まさに一触即発の雰囲気である。エルセなんかは口は出さないものの、さっきからずっとはらはらした様子でそれを見守っていた。

 ここへきて、おもむろに口を開いたのはディアナだった。
「あらあら。昨今の殿方は、他人のお世話も(たしな)んでらっしゃるのかい。聖職者でもないのに頼もしい限りだこと!」

 ライラの声をことごとく無視した男達だったが、船上で命令を出すことに慣れた女海賊の大声までは無視できなかったらしい。
 もちろん彼女の言うとおり、ルシアスにもロイにも人間の介助の経験など皆無に等しい。単なる意地の張り合いであることを看破されて、黙らざるを得なかったのだ。

 男ふたりの視線を集めることに見事成功したディアナは、胸の前で腕を組み、ふんと鼻を鳴らして言い放った。
「アラベラ・ベインズは、書類上あたしのとこの人間よ。法的にも彼女の保護の義務は船長のあたしにあるわ。あんた達ふたりとも、お呼びじゃないの」
「ディアナ」
「モレーノ船長!」

 抗議の声を出すルシアスとロイを、ディアナはひと睨みで黙らせる。
 それから彼女は、眼差しの強さはそのままに艶やかに微笑んでみせた。

「あたしの他に権利がある人間がいるとすれば、そうねえ。この()の愛する旦那様くらいじゃないかい?」
「……っ」
 あからさまな当て擦りに男達が一瞬鼻白むと、すかさず彼女は言った。
「それがわかったら、はやくバートレットを呼んできてちょうだい。今あんた達にできることなんてそれくらいのものなのよ。ほら、行った行った!」

 ディアナは彼らを追い立てるように、ぱんぱんと手を叩く。
 そうしてほとんど追い出す形でルシアスとロイを廊下に出すと、ディアナは彼らの目の前でバタンと扉を閉めたのだった。


 しばらくして、交代するようにやって来たバートレットだったが、呼びに来たルシアスの様子と室内の雰囲気に、察しのいい彼が何も感じないわけがなかった。

「とりあえず呼ばれたから来たが……。何があったのか、詳細を聞いても?」
「それが、ちょっと説明が難しくて」
 長椅子に座ったままとはいえ、この頃には大方調子を取り戻していたライラが、彼をちらりと見上げて曖昧に答えた。

 その一方でディアナは、誰にともなく苛々と文句を垂れている。
「ほんっと、こういうときの男って役に立たないのよね。自分がどうしたいかが先に来ちゃって、何の解決にもなりゃしない」

 室内にはエルセも残っていたが、彼女は余計な口を挟まなかった。萎縮しているというよりは、状況をわきまえて黙っているようだった。
「何をどうするかとか、何ができるかが問題だってのに、あいつら自己評価だけは根拠もなく高いんだから!」

 歯に衣着せぬディアナの物言いを、バートレットは複雑な表情で静聴していた。
 おそらく舌鋒の向けられた先は彼の敬愛する頭領であろうと、彼も薄々理解している。彼自身の生物学的分類もまた男であり、身につまされる思いでバートレットは佇んでいた。

 そのことに気づいたディアナは、ようやく文句の羅列をやめ、いつもの気さくな調子で彼に言った。
「あらやだ、あたしったら。気にしないでくれる? あんたは別よ、バートレット。あいつらもそんな風にお行儀よくできたら、こっちも追い出したりしないのにね」
「……。恐縮です、セニョーラ」
 複雑な表情はそのままに、バートレットは律儀に頭を下げる。

 ディアナの苛立ちが下火になったのを見て、ライラは彼女に礼を述べた。
「さっきはあなたがいてくれて助かったよ、ディアナ」
「いいのよ別に。あんた達には山ほど借りがあったんだけど、この分なら弾丸の速さで返済できそうだわ」
 ディアナは軽くそう返し、それから気を取り直してライラに訊いた。

「それで、肝心の話ってのはちゃんとできたの?」
「まだ途中なんだ」
「彼のあの様子じゃそうか。納得して引き下がる雰囲気じゃなかったものね。故郷から遥々追っかけてきたんだっけ?」
「まあ、ざっくり言えばそんな感じかな」
 苦笑いとともにライラがそう答えると、ディアナは肩を竦めて感心したように言った。

「情熱的なのねえ。あたしの国だと、そういう男は結構モテるんだけどね」
「ああ、ファビオみたいな?」
 何の気もなしにライラが言うと、途端にディアナは目を眇めて苦々しく答えた。

「あれは別。あいつが騎士様の立場なら、追っかけてきたついでに、街で見かけた女の子すべて口説いて周ってるわ」
 情熱的なのと無駄に行動力があるのでは似て異なるのよと、ディアナが言うのにライラは小首を傾げる。

「彼は口はうまいけれど、女性を弄ぶような人には見えないけどな」
「そこなのよ。弄ぶどころか、まともに対応しちゃうから手に負えないのよ」
 ディアナが真顔でそんなことを言う。過去に何かあったのか。

 すると、ずっと大人しく話を聞いていたエルセが遠慮がちに、だが好奇心を持って会話に入ってきた。
「まだお会いしていませんが、ファビオさんというのは、とても精力的な方なんですね」
「まったくだ。すごいな、彼は」
 ライラもうんうんと頷く。

「あら、感心しちゃうんだ? 例えが悪かったかしら」
 ライラとエルセの思わぬ反応にディアナが困惑していると、彼女よりもさらに深く困惑していたバートレットが、とうとう耐えきれなくなって口を開いた。

「すみません、ご婦人方。俺はここにいてもいいのでしょうか……」
 だが振り向いたディアナの返答は、彼の心中など一切考慮しないあっけらかんとしたものだった。
「いいに決まってるじゃない。何か問題ある?」
「……。いえ」
 あまりにも明瞭な回答に、バートレットはすごすごと引き下がる。

 それを機に、ディアナは話題を戻した。
「問題があるのは、あの騎士様のほうよね。いくら情熱的で一途でも、こっちには既に決まった相手がいるわけでしょ。恋って、なかなかうまく行かないもんだわ」
「そうですね。なかなかうまく行かない……」
 何故かエルセが、思い詰めたような顔で同意する。

 ディアナとエルセがやるせなく溜め息をつく横から、ライラは口許にかすかな笑みを載せて言った。
「何とか納得してもらうしかないよ。私のほうからも、訊かなきゃいけないことがいくつか残ってるから、いずれにしても彼とはもう一度話すつもりだ」

 それから彼女は、ばつが悪そうに眉根を寄せた。
「それに、彼には謝らなくては。さっき私は……酷いことを言ってしまって」
「酷いこと?」
 ディアナが訊くと、ライラは小さく頷いた。

「つい感情的になって、喧嘩みたいになったんだ。彼は悪くないのに。過ぎたことをあげつらって、責め立てて……当時、私だって何もできない子供だったくせに。気持ちが落ち着いてきたら、自分の身勝手さにうんざりしてきたよ」

 今度は彼女が、はあ、と溜め息をついて落ち込むのを、バートレットはいつもの調子で慰めた。
「気にするな。しつこく追いかけられて、そのうえ万全じゃない状態で話し合いなんて、穏便に成立するはずがないんだ」
「そうだけど、言ってしまった事実は変えられない。折を見て、彼に謝ろうと思ってる」

 自分の非を認めてしまった以上、なかったことにはできないのがこのライラだった。
 頑なな彼女を、ディアナは呆れた眼差しで見つめる。
「相変わらず、くっそ真面目なのね」
「そういう性分なんだ」
 自覚があるからか、ライラは苦笑で応じた。

 ひととおりの話を聞いていたエルセは、そこで思い切ったように言った。
「アラベラさん。この屋敷でしたら迷惑なんてことはありませんから、どうぞ自由に使ってください。その、こうやって女性同士で集まるのは、私も楽しいので……。フリッツも、あなたのお話を楽しみにしていましたし」

 海賊嫌いのエルセの意識にも男性が含まれていないことに、バートレットが密かに天井を仰ぐが、もはや誰も気にしない。
 ライラは彼女に微笑みを返した。
「ありがとうございます、シュライバー嬢」

 ライラが受け入れたのが嬉しかったのか、エルセの顔にも笑みが広がった。
「どうかエルセとお呼びください。私、あなたともっと親しくなれたら嬉しいわ」
「こちらこそ。よろしくお願いします、エルセさん」

 ライラとしても、エルセの申し出は有り難いものだった。
 きちんと向き合うとは決めたものの、ロイの勢いで連日来られてはとても持ちこたえられそうにない。引き続き体調不良ということにしてもらって、エルセが間に立ってくれるのなら大助かりなのだ。

 そして、案の定。
 ライラの部屋の前には毎朝、騎士の手によるものと思われる、一輪の花が置かれるようになったのだった。