Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

記憶の楔

07

「何を馬鹿な」
 ライラが呆れた声を出すと、ロイは緩く首を振った。

「馬鹿な話でもない。実際、あれから何人かに候補が絞られた。我がコルスタッド家も名があがっている。俺も、そのひとりということだ」

「いいえ、こんな馬鹿げた話もありません。あれだけ私の存在を脇にやって無視しておきながら、今更結婚ですって? それに、いない娘をどうやって嫁がせるというんですか」

「君が知らないだけで、婚約の話自体は君が姿を消す前から出ていたのだ。君が出奔したことは極秘扱いになっている。しかし君はもう結婚適齢期を過ぎるから、これ以上話を進めないのも周囲に怪しまれる」

 ライラは返す言葉を失って呆然としていたが、しばらくして、苦い溜め息とともに俯いた。
「地盤を固めたいという狙いは理解できなくもないけれど……無茶にも程がある」

 娘個人のことは目障りで気に入らないのだとしても、政治の駒として使うのはまた別ということなのだろうか。嫁がせてしまえば完全に目の前から消えるわけだから、むしろ利用できる部分は利用して手放すほうが賢いのかもしれない。
 ロイもまた、明るくはない表情で肩を竦めた。

「皆無茶は承知の上なのだろう。病気がちで外には滅多に出ないとは言われていたが、何年も君の姿を見た者がいないというのは、さすがにおかしいからな。しかし極端な話、それらしい代役を立ててでも、成婚さえできれば両者の目的は達成される」

 自分の知らないところで進んでいた胸の悪くなるような結婚話に、ライラは呆れ果てた。

 つまり、この結婚によって父は縁戚という味方を獲得できる。相手の一族は強力な後ろ盾を得ることになるし、持参金の中に不動産も含まれていれば定期的な収入増も見込める。

 病弱なイリーエシアに子供ができなくても不自然ではないから、跡継ぎが欲しければ、他の女性を別に迎え入れればいい。そして姿を見せない(、、、、、、)イリーエシア(、、、、、、)に代わって、その女性が女主人として家を管理するのだ。
 男性側からすれば、こんな都合のいい縁談もないだろう。

「相手の一族が目を閉じ耳を塞ぎ口も開かなければ、まあ……。条件は、それほど悪くない」
 ロイの口調からも、それほど悪くないどころではないことが知れる。コルスタッド家はこの話に乗り気なのだなと、ライラは思った。

 だが貴族同士の結婚とは、大抵が損得勘定に左右されるものだ。何らかの特権を得るだとか財産を増やすだとか、そのために子を作るというと聞こえは悪いが、婚姻の仕方によって一族が繁栄するかどうかが決まる。それによって実家が豊かになれば、次の子孫の婚姻はもっと有利に運ぶ。その繰り返しだ。

 この話もその延長線上にあると思えば、理解できない話でもない。むしろライラにとって、どこか馴染みのある、そこまで違和感を覚えない理屈だった。
 謀り事など縁がなさそうなこのロイがこんな話をすらすらとするのも、似たような環境で育った人間である以上、そういう思考がとりまく社会に慣れているからだろう。個人よりも一族を優先し、自らも駒であることを受け入れるのは、彼らにはほとんど常識なのだ。

 しかし今のライラは、懐古はしても、そのたび不快な摩擦感を持つようになってしまった。
 本当は、ルシアスのような存在こそが非常識だったはずなのに。 

 猥雑な事情など一切関係なく、ただ単純に一緒にいたいと思える相手ができたことのほうが、彼女には青天の霹靂で。

「……その話では、私自身がいなくても問題がないように聞こえますね」
 ライラが言うと、意外なことにロイも頷いた。
「そう、最悪君がいなくてもいい政略的な話なのだ。実際いないのだから、むしろその選択肢はこれまで現実的なものとしてとらえられていた。兄上の不在のほうが問題は大きく、君の話はついでのようなものだったのだ」

 ロイはそこで一旦言葉を切ると、じっと彼女を──その淡い色の瞳を見つめた。

「君は『翠金石の瞳(スター・オリヴィン)』の持ち主で、それはお母上の側、『知恵の民(アル=ヘクマ)』にとって大きな意味を持つ。お母上もが行方の分からない中、騒ぎ立てる声が年々大きくなってきている。本物の君であれば、現地の抵抗勢力も纏められる可能性がある。子供も、もしかしたら産めるかもしれない。そうなれば事態は一転する。だからお父上は、君を探しておられるのだろう」
「……っ」

 ライラは突然目眩に見舞われた。同時に吐き気を催して、咄嗟に口元を抑える。
 よろめいた彼女を、ロイが腕を伸ばして支えた。
「リーシャ、顔が真っ青だ」
 差し出された彼の腕を強く握りしめて、彼女は荒い息の下から訊ねた。

「コルスタッド様。あなたは……、ヴェーナではなく、父の命を受けて、ここに……?」
「違う。俺は独断で動いているから、報告の義務はない。お父上にも、ヴェーナにも」
 口早に答えながら、ロイは狼狽えて言った。
「すまないリーシャ。君の身体が丈夫ではないことを、すっかり失念していた。座るといい、なにか飲み物を持ってこようか?」
「いえ、お気遣いなく。大丈夫です……」

 ライラは必死に息を整えながらそう答えたが、ロイは彼女を支えたまま長椅子のほうに移動した。
 直接触れたことで、毅然と振る舞う彼女の身が相変わらず細く軽いことを、彼は知った。
 ロイは丁寧に彼女を支えながら座らせると、そこに膝をついて視線の高さを合わせた。
 ライラの両腕に手をやり、真剣な表情で告げる。

「リーシャ、時間がかかってもいい。もっと話をしよう。大丈夫だ、俺が盾になる。君を道具扱いになど決してさせない。時間をかけて、君のことを知っていきたい」
 ライラは力なく首を振った。
「お忘れのようですが、私は既婚の身です」
「彼では君を守れない」
 ロイはきっぱりと言いきる。

 その言い分に苛立ちを覚え、ライラはきつい目で彼を見た。
「夫を侮辱することは受け入れられません。どうか訂正を」
「気を悪くしたことについては謝ろう。だが事実だ」
 ロイも譲ろうとしなかった。
 肩に触れる彼の手を跳ね除けて、ライラは言った。

「何も、知らないくせに……!」

 無性に腹が立った。
 バートレットは偽りの夫ではあるが、彼がどれだけライラを守ってきたか。
 腕力に頼ることだけが守りではない。バートレットは傍に寄り添って、常に彼女を気遣い続けてくれた。時には共感し、時にはライラをその背に庇って。
 そのことに思いを馳せ、ライラ自身も改めて理解した。
 そうだ。自分はずっと、バートレットに守られ続けていたのだ。

「私を守る? もし、彼の何分の一かでもその気のある人間があなた達の中にいたなら、私は今ここにはいないんです。もしいたというなら、是非訊いてみたい。いったい今まで何をやっていたのかと!」
「リーシャ、落ち着いてくれ」

 ライラの剣幕に驚いたのか、ロイは怯んだ様子で彼女を宥めようとした。
 その、日和見で一歩引いた態度に更に怒りを煽られて、ライラは言い放った。

「普段は聞こえのいいことを並べ立てながら、権力者の顔色を窺うばかりで何もしない。都合のいいときだけ出てきて、好き放題言って……。人を振り回すだけ振り回して。もう、いい加減にしてくれ……!」

 叩きつけられたその言葉に、何を思ったのだろう。
 ロイは表情を歪めたが、それは怒りではなく苦痛によるものらしかった。ライラが言ったのはロイ個人にではなく、自分を傍観していた不特定の連中に対してだったが、彼の中で思い当たる節があったようだ。

 ロイが特に人より雄々しく見えるのは、大きくがっしりした体躯だけでなく、男性的な顔つきにも起因している。しかし今、その一見揺るぐことを知らなそうな顔は苦悩でくしゃくしゃに歪められ、これ以上は砕けてしまいそうだった。

「すまない、イリーエシア。いくら詫びても、おそらく足りることはないだろう」
 絞り出すような声で、彼は言った。
「あのときは俺も無力だった。忸怩(じくじ)たる思いを抱えて今日まで来た。だが、二度と繰り返さないと誓う」

「……」
 ライラは彼のまっすぐな眼差しを受けて困惑した。
 彼の言葉の中に、自分の把握しきれていない事象が含まれていることに気がついたのだ。
 ロイは、何の話をしている……?

「イリーエシア。俺だって、すべて納得していたら、今日君とここで話をしてはいない。どうか、あの当時のことだけで俺を裁かないでくれ。俺は君に一生を捧げるつもりで、ヴェーナに渡ったのだ……」

 ライラの困惑を他所(よそ)に、ロイは尚も言い募る。
 彼女の手を取り、その瞳をじっと見つめ、本当に魂まるごと彼女に捧げんとするかのような熱意で懇願する。

「お願いだ。過去の愚かな自分を否定はしない、だが今の俺を見てほしい。できればこの先の未来も。償いが必要だと言うならいくらでもしよう。人生を賭ける覚悟は、とうに出来ている!」

 ライラはロイのあまりの迫力に圧倒された。
 過去の愚かな自分とは何だろう。ロイを裁くとは? 彼は、ただ顔を見知っただけの間柄だったはずなのに。
 いや、本当にそれだけの関係だった人間が、いくら結婚話が浮上しているからといって、自ら異国まで追いかけてくるだろうか。

 不安と疑念に駆られ、ライラは記憶を辿ろうとした。何か大事なことを忘れてやしないか。だが、靄がかかったように不明瞭で、うまくいかない。
 そもそも自分は、どうやって家を抜け出したのか──?

 そのとき、ライラの脳裏に女の泣き叫ぶ声が一瞬の稲妻のように響いた。
 聞き覚えのあるその声は、聞いているほうが胸を押し潰されるような、悲痛な響きを持っていた。
 意味をとらえられるほど長い記憶ではなかったけれど、一瞬閃いて瞬く間に消えたその映像は、声、情景、すべてが覚えのあるものだった。

(彼女は誰だ)
 知っているはずなのに思い出せない。
 記憶をもっと深く掘ろうとして、しかしライラはそこで突き刺すような頭痛に阻まれた。

「う……っ」
 息が詰まり、思わず側頭部を抑えてうずくまる。頭蓋を圧迫されるような感覚に、目が回った。
 冷や汗が全身に滲む。一瞬でも気を抜けば、意識が閉じてしまいそうな危機感があって、ライラは必死に抗った。

「リーシャ? 大丈夫か!?」
 慌てたロイが彼女の顔を覗き込もうとしたとき、部屋の入口から別の声がした。
「失礼いたします。なにか問題でもおありでしょうか? 大きな声が聞こえましたが」
 声の主はエルセだった。彼女もまた、すぐ近くに控えてくれていたのだ。

 ライラはそちらに視線を向ける余裕すらなかったが、エルセのほうはすぐに異常に気がついた。
「アラベラさん!? 大変、酷い顔色だわ!」
 彼女が駆け寄り、ロイの隣に膝をつく気配がする。
「横になれますか? どうか楽になさって。気付け薬をお持ちしましょうか、お医者様は必要かしら」
「ありがとうございます、シュライバー嬢……」

 苦しい息の下からなんとか礼を述べていると、また別の足音が聞こえた。入口付近で一度立ち止まり、状況を把握してか、そこからバタバタと駆け込んでくる。
 忙しない雰囲気なのに、ライラはそれを聞いて気持ちが落ち着いていくのを感じた。

(ああ、来てくれた)

「アラベラ!」
 ディアナの声がした。ライラの化粧を手伝ったあと、そのまま残っていてくれたのだ。

 そしてもう一人、声こそ出さないまでも彼女のために駆けつけてくれる存在。彼女のすべてを背負うと宣言し、その言葉のとおり動いてくれる男。
 ライラは緩慢な動きで顔をあげ、霞む視界の中に映った端正な顔に向けて、かすかに微笑った。

「ルース……」