Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

記憶の楔

04

「だから、その」
 言い淀みながらも、ライラは何とか言葉にした。
「お前の目、とか、声が……
「目と声? 俺の?」
「苦手、というか」

 痛みを堪えるように、ルシアスが目を眇める。居た堪れなくなって、ライラは俯いてぎゅっと目を閉じた。

 ライラの震えに気がついたからなのか、彼が掴んだ手を離したのがわかった。
 どういうわけか、掴まれていると息苦しいのに、手放されるとそれはそれで寂しい感じがする。

 ともかく、彼の様子にライラも胸が傷んだが、うまく説明するだけの言葉がすらすらと出てこない。しかしここで黙ってはいけないような気がして、ライラは必死になって続けた。

「変なのは、わかってるんだ……っ。お前の傍にいると、緊張して、無駄に焦ったりして……。視線も声も変に意識してしまって、わけがわからなくなる。全然冷静じゃない……。コルスタッドのときもそうだけど、私は……どこかおかしいのかも」

 混乱しながらもライラが告白するうち、ルシアスの表情も変わっていった。
 つまり――心に傷を受けた表情から、気恥ずかしさを持て余すような表情に。

「息苦しいし、意味もなく泣きたくなるし……ルース?」

 ライラが我に返って顔をあげたのは、ルシアスが深々とした溜め息をついたからだった。
 彼はまるで頭痛を堪えるように、右手の中指と親指を使って、自らのこめかみを押さえていた。

……。お前は、どうしてそう……
「え?」
 低いその呟きがまるで怒りを抑えているようにも聞こえて、ライラはさっと青褪めた。

 ルシアスは軽く睨むような目つきで彼女に言った。
「俺を試しているのなら、その辺でやめておけ。俺にだって限界はある」
「試してなんかない」
 こっちは真剣なのにまともに受け止めてもらえなかったのかと、ライラはむっとして言い返した。

 彼女は嘘を言っているつもりはなかった。ロイとルシアスに対して起こる身体の変化は、本当に似ていたのだから無理はない。
 しかしライラに自覚がないだけで、両者では決定的に違う部分があった。前者では血の気が引いて真っ青になるのに、後者では真っ赤になってしまうという部分が。

 少なくとも、ルシアスのほうは彼女の感情につけられた名前を知っていた。
 だからこそ彼は、ライラがそのふたつを混同しているのが許せなかった。

「だが、そうだな」
 ルシアスの手が伸びてきて、ライラは目を見開く。あえて無視して、ルシアスは彼女の顎を掴んだ。やや強引に自分のほうへ引き寄せ、至近距離で彼女の瞳を見つめる。

「コルスタッドと俺とで、お前の反応が同じか。原因は何なのか。お前が確かめたいというなら、俺も手を貸さないでもない。あいつを相手に捨て身にならずとも、ちょうどほら――ふたりきりだ」
……っ」

 ライラは息を呑んだ。そんな彼女に、彼は挑発的な笑みを向けた。

「ふたりになって、警戒を解いて……さあ。お前はここからどうするつもりなんだ?」
「ルース……

 深海色の眼差しに魅入られ、ライラは硬直して動けなかった。

 名を呼んだその形のまま、僅かに開かれてわななく唇。ほんのりと上気した頬。
 逃げることも反発することもできなくて、ライラは悔しそうに眉根を寄せた。潤んだ『翠金石の瞳(スター・オリヴィン)』からはまだ意思の光は消え失せておらず、その双眸はしっかりと彼を捉えている。

 拘束から逃れるためか、それとも睨みあげるためか。
 ライラが、ほんの少しだけ仰のいた。

 彼女の性格を思えば故意ではないだろうが、その仕草はまるで、誘っているかのようにも見えた。
 いや、普段そういう態度を見せないからこそ、それが余計に蠱惑的な挑発行為に映り、ルシアスの瞳の奥で何かが弾ける。

 次の瞬間、ふたりの唇は重ねられていた。深く、深く。

 ルシアスは何度も角度を変え、貪るように彼女の唇を喰む。
 衝撃に耐えるように、ライラは顎を掴むルシアスの腕に縋った。空いた彼の片腕がいつの間にかライラの背に回り、しっかりとその身を抱き寄せる。

 するとライラは押しのけるどころか、おずおずとした仕草で彼の背中に手を伸ばした。控えめな力で背中の服を握り込まれたとき、口付けをしたままルシアスがふっと微笑んだ。
 息をするのすらもどかしく感じるほど激しい口付けは、ライラの身体から緊張が溶けていくにつれ、慈しむような優しいものに変わっていった。

 涙で濡れた彼女の瞳が蕩け切った頃、ようやくルシアスが唇を離した。
「まったく。お前は時々、呆れるほど愚かになるな」
 熱い情欲をはらんだ声でルシアスは言った。

 さすがにライラも、それに反論するつもりはなかった。
 さっきまであれだけ息苦しかったというのに、今はどうだ。心臓は変わらず高鳴っていたが、長い口付けの余韻は心地よいくらいだった。苦しくて拒絶するどころか、むしろ自分からルシアスにしがみついているのだから。

「それで、どうなんだ? 俺とあいつで。お前のその反応は本当に、同じなのか?」
……

 ルシアスの首筋に顔を埋めたライラの表情は、彼からは見えない。
 しばらくしてから、消え入りそうな声でライラは言った。

「全然、違った……
 すると、わかればよろしいとでも言わんばかりに、ルシアスの手がライラの頭をぽんぽんと叩いた。
 たったそれだけで、ライラはまたしても泣きそうになる。

 それから彼は彼女を抱いたまま身体を起こし、長椅子に腰を下ろした。
 そうすると、自分から抱きつく形があからさまになったようで、ライラは尚更顔を上げられない。
 ルシアスの首筋から仄かに立ちのぼる熱は、太陽と海風を思わせる不思議な香りを伴っていて、嗅いでいるとくらくらしてくる。ほう、とライラが思わず溜め息をつくと、それに呼応するように彼女の腰を抱く腕に少しだけ力が込められたのがわかった。
 そのせいで、彼の体躯や体温を余計に意識する羽目になり、ライラは身動ぎひとつ取れなくなってしまう。

 そんなライラの後頭部をあやすように撫でながら、ルシアスは言った。

「とはいえ……。似たような状態になるのは確かなんだろう。蛇に睨まれた蛙もいいところなのに、ふたりきりになって警戒を解くだと? そんな呑気な話で済むものか。馬鹿も休み休み言うんだな」
 ライラは応えなかった。応えられなかった。
「これでもまだわからないというなら、続きをしてやろうか?」
 ルシアスが意地悪く訊いてくるのに、ライラは呻き声をあげた。

「やめてくれ。これ以上何かされたら死んでしまう」
「大丈夫だ、死なない。それは俺が保証する」
「大体、ここは他人の家じゃないか」
「ああ、くそ。そうだったな、忌々しい」

 ちっと舌打ちを漏らしたが、ルシアスはもう自制心を取り戻している様子だった。
 ライラの頬に指で触れ、彼女がそれに促されるようにして顔を振り向けると、ルシアスは愛しげにその頬を指の背で撫でた。

「お前が自分の問題に対して逃げない姿勢なのは評価するが、もう少し頼ってくれ。独りで戦おうとするな」

 ライラは目を逸らし、身体から強張りを追い出すように長く息を吐いた。

「前も言ったけど……お前に何か、思うところがあるわけじゃないんだ。すごく個人的な話で、恥と言ったらいいのか。私自身が自分のことをまだ受け止められていない。そういう意味で打ち明けづらい。お前に、嫌われる気がして……
「今更、多少のことで嫌いになんぞならんよ」
 ルシアスがきっぱりと言い切ると、ライラはくすりと笑みを零した。
 そして彼女は、意を決した様子で視線をあげ、ルシアスを見つめた。

「でも、いつかは。自分の中でちゃんと消化できたら、すべてお前に話すから。だから……それまで待っていてくれないだろうか」

 ルシアスは真正面からその眼差しを受け止めていた。
 やがて彼は、苦笑交じりに嘆息した。
「ずるいな、お前は。俺がお前に勝てないのをわかっていて、そういうことを言う」
「私に勝てない? そんな気はまったくしないけど」
「おかげさまで連敗中だよ、こっちは」

 そう言いつつもあまり悔しくもなさそうな表情で、ルシアスは続ける。

「無茶はしないと、約束してくれ」
「わかった」
「くれぐれも、コルスタッドには警戒を怠るな」
「それもわかってるよ。戦闘には持ち込まないようにするから」
「そうじゃない」

 ルシアスは苛々とした溜め息をついた。そして、ぶっきらぼうに告げる。
「あいつはお前に惚れてる」
 ライラは呆気に取られた。
「そんなわけないだろ」

「ある。何度も奴と話して確信した。生き別れになった片思いの娘の行方を探し回ってると、充分納得できるくらいのしつこさだったぞ」
 ルシアスは顔をしかめ、心の底からうんざりした様子で言った。

 ライラとしては納得しづらかったが、しつこさという点では思い当たるものがあった。
 ルシアスの勘というのも、普段は頼りになるものである。クラウン=ルースは、全く見当違いのことを言う男ではないのだ。

「そこまで入れ込んでもらえるほど、彼としっかり関わった覚えがないんだ。顔と名前は知っているし、会えば挨拶くらいはしただろうけど」

 ライラは考え込みながら呟く。

「だから、彼が諦めずに追ってくるのは別の理由がある気がしてる。それを知りたい」
「別の理由?」
 続きを促され、ライラはばつが悪そうな表情で視線を泳がせた。

「言っただろう、私は逃げ出してきたと。複雑な事情がある。今更誰かが追ってくるとは思ってなかったけど、万が一そういう傾向があるなら、今のうちに情報を集めておきたいんだ」
「奴自身が追手ではないのか」
「違うと思う。彼がそうなら、もっと……手段を選んでいないはずだ。お前に直談判なんて悠長な策をとらない」

 随分と物騒な話を、ライラはさらりと言ってのけた。ルシアスは不敵な笑みを浮かべる。

「それは、なかなか聴きごたえのありそうな話だな?」
「内輪のごたごたとしては、よくある話だ。しかし身内の恥部であることも確かだし、外部に漏らさずに済ませられるならそうしたいよ」
 はあ、と嘆息してライラは言った。

 相当気に病んでいることなのだろうと、彼女のその様子から窺えた。
 ルシアスは腕の中にいるライラの髪を指先で弄んでいたが、やがてその手を止め、彼女の手を取ってその甲に唇を押し当てた。

「シュライバーに言って、隣の部屋で待機させてもらおう。少しでも身の危険を感じたら、叫べ。頼むから人魚(シレーナ) 号のような流れにはしてくれるなよ」
……わかった。もしものときは、必ず」

 ルシアスの過保護ぶりにこそばゆさを感じながらも、ライラは頷いた。
 照れているらしい彼女に、ルシアスは微笑んだ。

「弱っているときに、難しい話をさせてしまったな。もう少し眠るといい。俺もここにいるから」
 そう言いつつも、彼女を解放する様子のないルシアスに、ぎょっとしてライラは言った。

……。忙しいんじゃないのか?」
「愛しい女とのひとときを、何とか捻り出すくらいのことはできるさ」

 そう嘯いて、ルシアスはライラの膝裏に手を入れ、横抱きに抱き直した。このまま寝かせるつもりらしい。
「それに、お前にはいい加減慣れてもらわなくては。逃げてばかりでは解決しないそうだからな」
 それを聞いたライラの頭の中では嵐が吹き荒れたが、時間をかけて考えた結果、二人一緒のほうがお互いを守りやすいのではないか、という結論に何とかこぎつけた。

 そうだ、離れている状態で心配し続けるよりは、ずっといいはずだ。
 ルシアスに対して平常心を保つ訓練というのも、きっと必要だし……

 無理やり自分に言い聞かせながら、ライラは彼の胸に身を預けて目を閉じた。
 もちろん、とても眠れそうにないな、とは思ったが。