Brionglóid
海賊と偽りの姫

記憶の楔
03
ライラはエルセにいくつか頼み事をした後、改めてバートレットとギルバートを呼んでもらった。
その前に、エルセはライラの格好について、家族以外の人間と会うような姿ではないと窘めてきた。女性というのは大変なもので、例え病の床にあったとしても、ある程度の身だしなみは維持しておかなくてはならないらしい。
ライラとしては、肌さえ覆っていればいいくらいの判断だったが、これも海賊達に囲まれて生活する中で感化された結果なのかもしれない。
そこでライラは、髪を簡単に纏めてもらい、上半身をすっぽり覆う上着を借りて羽織ることにした。さすがに胴衣で締め上げるのまでは、体調というより機動力の面から遠慮させてもらった。
顔色が戻った彼女を見て、バートレットのほうは安心したように表情を緩めた。
「よかった。落ち着いてきたみたいだな」
「心配かけてごめん。もう大丈夫」
彼に笑いかけるライラだったが、三人のうちギルバートだけは強張った顔をしていた。
ギルバートは意を決したように、ばっとライラに頭を下げた。
「すまん、俺の手抜かりだ。奴を足止めすることができなかった。本当にすまん」
「顔をあげてくれ、ギルバート」
ライラは彼の肩に優しく触れる。
「経緯はともかく、今私はここにいる。これが悪い結果だとは思わないよ」
「そうは言うが……」
ぎこちなく身体を起こしたギルバートは、納得しきれていない目で彼女を見返す。
ライラは彼の自責の念を見透かして微笑んだ。
「ルース達がどういう判断を下すのか、私にはわからない。ただ、結果が問題ないのなら、この場では先のことを優先して考えてほしいんだ」
「……。涙が出るほど寛大な申し出だな」
苦笑いを浮かべるギルバートに、ライラは肩をすくめる。
「寛大なわけじゃないけどね。既に自省してる人間に懲罰はいらないだろう。そんなことしてる暇があったら、動いてもらったほうが何倍もいい」
「自省の他に償いの意味もあるんだと思うが、まあいい。そういうことなら存分に俺を使ってくれ」
気持ちを切り替えたのか、ギルバートの眼差しに力が戻る。
ライラは頷くと、改めてギルバートとバートレットの双方を見やった。
「私のほうは、今すぐの動きはないはずだ。ディアナ達についても、あとは本人達が対処するだろう。現状問題があるとしたらルース──ジャック・スミスの件だと思う」
「昨夜の段階では街を出た形跡はないらしい。居場所はまだ掴めてないが」
ギルバートは、ただこの屋敷で警護をしながら油を売っていたわけではない。自分自身が動けないにしても、人を使って情報を集めるくらいのことはできた。
船とも定期的にやりとりをしていた彼は、昨夜ルシアスのもとにはジャックが現れていないという報告を受けていた。
「ただ、奴は路銀が必要だと言っていた。ファン・ブラウワーに雇われた時点で前金くらいは貰ってるはずだし、ルースを狙う理由が多少薄まってる可能性もある」
ギルバートはそう言ったが、ライラは不安そうに目を伏せた。
「そうだといいけれど、ただの願望だ。今はルースの守りを固めておきたい」
「お前達がこの屋敷に着いた段階で、船に連絡を入れてある。今後の方針についてはスタンレイも考えてるだろうし、返事が来るまでは待機でいいだろうよ」
ギルバートは穏やかに制した。
バートレットも、彼女の心中を慮って優しく言う。
「お前はもう少し休んだほうがいい、ライラ。何かあったときのために、体力を回復しておくのも大事なことだろ?」
「仮眠くらいはとらせてもらうけど……もしギルバートが動けるのなら、先に船に戻ってもらったほうがいいんじゃないかと思って」
ライラがそう提案すると、ギルバートは小さく吹き出した。
「言われてみりゃ、俺とお前の武闘派ふたりがここに揃ってるってのは、不毛な話かもな。コルスタッドとは、切った張ったでやり合うこともなさそうだし」
「シュライバー嬢には、私が臥せっていることにしてもらったんだ。コルスタッドがここに戻ってきたとしても、直接部屋に乗り込んでこれないように」
ライラは先程のエルセとのやり取りを思い出しながら言った。それを聞いて、バートレットは軽く頷いた。
「それでいい。そうでもしないと、あいつのあの勢いではお前が折れるまで突撃をしかけてくるぞ」
「あの兄さん、悪い奴ではなさそうなんだがねえ」
ギルバートが横から何気なく言うと、バートレットは鼻筋に皺を寄せた。
「悪気がないから厄介なんですよ。俺達が夫婦の偽装をしていたから良かったものの、そうじゃなかったらとても追い払えませんでした。本当にしつこい」
「そいつは、朝っぱらからご苦労なことで……」
ギルバートは同情の目をふたりに向ける。彼はロイの人となりをそこそこ知っているので、どういうやり取りがあったのか想像がついてしまうのだろう。
それから彼は、気を取り直して続けた。
「そういうことなら、船から沙汰があるまで休んでおけよ、ライラ。調整がついたら俺が船に戻るから、ルースについては心配しなくていい」
「ありがとう」
ライラは弱く微笑んだ。
「私も戻れたらいいんだけど、コルスタッドが嗅ぎつけて船まで追ってくるかもしれない。それだとまた、皆に迷惑をかけてしまうし」
「今更水臭ぇこと言うなって。ルースも大事だが、お前のことも放っておく気はねえよ、俺らは。助けが必要なときは遠慮なく言ってくれ」
にやりと笑って、ギルバートは大きな手で年下の女剣士の頭をひと撫でした。
バートレットもまた、安心させるようにライラに言った。
「俺が見張っているから、今のうちにゆっくり眠るといい。夫の目のあるところでは、あいつも無茶はできないだろうからな」
「うん。頼りにしてるよ、旦那様」
ライラが冗談めかして言うのに、バートレットは面食らって言葉を飲み込んでしまった。そこで「可愛い人」と返すほどの度胸は彼にはなかった。
代わりに、わざとらしく戯けて間をもたせたのはギルバートだ。
「おいおい、今の冗談は聞かなかったことにしておくぜ。俺はこれでも平和主義者だからな」
彼は笑いながら、扉のほうへと向かう。
「一応俺のほうからもお嬢さんに話をしておこう。バーティ、あとは頼むぞ」
「アイ、サー」
踵を揃えて応答をするバートレットと長椅子から立ち上がったライラに見送られて、ギルバートは部屋を出ていった。
バートレットはライラを疲れさせないようにと思ったのか、それ以降余計な話をしなかった。
長椅子は、肘掛けに凭れかかれば足を伸ばせるくらいの幅があり、再び横たわったライラに彼は毛布をかけてくれた。
「なんだか本当に病人になったみたいだな」
そうライラがのたまうと、バートレットは小さく笑みを零す。
「似たようなものじゃないか」
すぐ目の前に一人掛けの腰掛けを持ってきて、彼はそこに座った。腕組みをして「俺も仮眠をとらせてもらう」と目を閉じる。
背凭れすらないのをまったく意に介さないのは、彼が悪環境に慣れた船乗りだからかもしれない。
とはいえ彼も夜通し動き回っていたわけで、バートレットの貴重な休息を邪魔したくなかったライラは大人しく瞼を閉じた。
そうしているうちに本当に寝入ってしまったらしく、次に意識が浮上したのは、細やかな衣擦れの音が鼓膜を揺さぶったからだった。
はっとしてライラは目を開ける。
「目が覚めたのか」
低い声に誘われて視線を向けたとき、ライラは驚きのあまり心臓が止まりかけた。
バートレットが座っているはずだったその場所で、長い脚を組んだルシアスがこちらを見ていた。
寝起きの頭で一瞬わけがわからなくなったライラは、呆然と彼の顔を見つめた。しかし徐々に頭の中の霧が晴れていき、これが夢ではないのだと理解する。
「……バートレットは?」
「起きてすぐ、他の男の心配とはね」
ルシアスは面白くなさそうにふん、と鼻を鳴らした。ライラは上体を起こして座り直しながら、呆れた目で彼を見た。
「ルース、言葉遊びをする心境じゃない。彼をちゃんと休ませたんだろうな?」
「当然だ、俺にとってもあいつは大事な部下だからな。失態だの責任だのうるさくごねたから、船長命令で強制的に休ませた」
ルシアスは不機嫌を引き摺らず、淡々と答えた。それを聞いたライラは、ホッと息をついた。
「よかった。彼は責任感が強いから、時々心配なんだ」
「現状ではあいつに落ち度があったとは考えにくい」
ルシアスもまた、ライラに向き直るついでに足を組み替える。
「大事な跡取り息子のためにと、コルスタッドを送り込んだのはシュライバーの奥方だ。スタンレイの張った網もそれでは役に立たんし、ギルバートにこの屋敷のすべてを把握しろというのも無理な話だ。把握したところで止める権限もない」
それから彼は、手を伸ばしてライラの手を取った。労るようにその手を両手で包むと、その深い海を思わせる瞳でじっとライラを見つめる。
「何を言っても言い訳にしかならないな。すまなかった、あれだけ言っておいてお前を危険に晒すなんて」
「謝らないでくれ。ディアナは無事だったし、お前の逮捕も回避できた。私だって、死んだわけでもないし許容範囲だろう」
しっかりと手を握られて、恥ずかしくなったライラは俯いてぼそぼそと言う。
するとルシアスは、手を握ったまま立ち上がり、彼女の足元に膝をついた。そして握った彼女の手を自らの口許に持っていく。
「お前が倒れたと聞いて、俺の神経は焼き切れる寸前だった」
「……。悪かったよ、心配かけて」
手に口付けたまま囁かれては、ライラもそれ以上反論する気になれなかった。
要するに、彼はライラがこの屋敷に着いたという連絡を受け、自ら足を運んだということらしい。なんて無謀なとも思ったが、ライラを心配する彼にとってそんなものは些細なことなのだろう。
ライラとて、頭の中はルシアスをどう守るかでいっぱいだったのだから、お互い様だ。
ライラはそこで深く息を吐いた。
「危険、というのとも違う気がする。彼は私に危害を加えようとしているわけじゃないし」
「ふん。どうだかな」
握った手を離さないまま、ルシアスは吐き捨てる。
落ち着かない気分でライラは言った。
「私が彼に対して妙な反応を返してしまう理由は、自分でもわからないんだ。でも、いつまでもこのままじゃいけないって気もする。逃げてばかりでは何も解決しない」
「言っていることは理解できなくもないが。無理をしてまで解決する必要があるのか?」
ようやく手を離したルシアスは、今度は彼女のこめかみに片手をやった。だらしなく垂れ下がったままの髪の房を、指先でそっと耳にかけてくれる。
その感触にどぎまぎしながら、ライラは何とか言葉を紡ぐ。
「それは……蓋を開けてみなくちゃわからない。でも、得体の知れないものに怯えて暮らすのはうんざりだ。正体を確かめて、それからどうするか判断しても、いいと思う……」
得体が知れないといえば、ロイに対してもそうだが、ルシアスに対してもそうだった。
傍にいると勝手に心臓が早鐘を打ち、息苦しくなって、冷静に物事が考えられない。
まるで自分の心が自分のものではなくなったようで、とても心許ない気持ちになる。
例えばそう、今みたいに。
「次は俺も同席しよう」
ルシアスの申し出に、ライラは首を横に振った。
「いや。彼が警戒して、本質を語ってくれないようでは困る。最初は二人で話を……」
そこまで言って、ライラは反射的に身を引いた。
しかし、ルシアスはそれを想定していたかのように、再び彼女の手を掴んで引き止めた。逆にぐいっと引き戻され、距離が一気に縮まる。
「二人だと? 奴の警戒を解くために? ライラお前、自分が何を言ってるのかわかってるのか?」
強い声で非難され、ライラは怯えたように肩をそびやかす。
もちろん、言われた内容が原因なのではない。いつもの、正体不明の何かが怒涛のように押し寄せてきて、ライラの頭の中はいっぱいになった。
思考が停止する。息がうまくできない。
「……っ。もう、勘弁してくれ……っ」
思わず声に出てしまうと、ルシアスははっとして動きを止めた。
強張ったその表情には傷ついたような色がある。拒絶されたと思ったのだろう。
「ご、誤解しないでほしい、ルース。そういう意味で、言ったんじゃ……、なくて……!」
ライラは焦って言い訳をする。
ではどういう意味なのだと、まっすぐな視線で問うてくるルシアスに、ライラは泣きたくなった。
何が問題かって、その眼差しが一番の問題なのだから。