Brionglóid
海賊と偽りの姫
記憶の楔
02
エルセは談話室でひとり腰掛け、寝不足で重苦しい目頭を指で軽くなぞってほぐしていた。
朝と言っていい時間帯ではあったが、朝食にはまだ早い。しかし今日は、時間になっても家族はやってこないだろう。明け方まで皆起きていたからだ。
エルセ自身、身体のほうはすぐにでも寝台に潜り込むことを望んでいたが、気持ちのほうがそれを許さなかった。まだやるべきことが残っている。ここで音を上げてなるものかと、妙な自尊心が彼女を奮い立たせていた。
昨日から本当にいろいろなことがあった──少し退屈なくらいの日常が、まるで遠い昔のことと思えるほどに。
エルセは今回のこの誘拐事件について、父ダニエルと海賊達が対応に当たっているのは知っていた。首謀者が幼馴染のブレフトで、だから父が自ら動いているということも。
そんな中で昨夜、弟のフリッツが夕食の時間を過ぎても屋敷に帰ってこなかった。
姉であるエルセは、弟の旺盛すぎる好奇心をよく理解していた。海賊に憧れているフリッツが、この状況に興味をそそられ、いつものように余計なことをしたに違いない。
もちろんエルセも弟の安否が気になったものの、その一方で、相手がブレフトであるなら、すぐさま生命が危険に晒されることもないのではとも思った。
しかし、跡取り息子を溺愛している母はそう考えなかったらしい。
母はフリッツを心配するあまり、ずっと取り乱して周りの人間を振り回した。呪詛めいた罵り言葉を誰にともなく撒き散らし、かと思えば一転して啜り泣いてみたりして。
更には、深夜にもかかわらず街の自警団を全員召集すると言い出し、家中の人間が慌てて宥めすかしたわけだ。
最終的に父が、あくまでも夜道を送り迎えするための、ごく小規模の騎馬隊を編成した。それに母のお気に入りのヴェーナの騎士が同行することで、全団召集を何とか断念してもらったのだった。
散々大騒ぎをして気力体力ともに使い果たした母が、ようやく寝室へと向かってくれた頃には、夜明けも近くなっていた。
父とエルセはもちろん使用人達も皆疲弊しきっていたが、フリッツの無事を確認するまでは休むわけにもいかない。
特に父は、騎馬隊が出立してからも何通かの手紙をしたためて使者を出すなど、相変わらず忙しくしていた。
そこへ血相を変えてやってきたのが、エルセ個人の警護を担っている海賊、ギルバート・ディレイニーである。彼は、父に屋敷を出る許可を取りに来たのだった。
しかし父は最初、首を縦に振らなかった。フリッツまでもが標的になるのであれば、ロイもいない中でこれ以上屋敷を手薄にしたくなかったのだろう。
エルセも突然のことに困惑したのだが、ギルバートが一刻を争う事態だと言うその様子だけで、すぐに腹が決まった。普段──といっても彼とともに過ごした時間はそう長くはないのだが──エルセの子供じみた態度を余裕で受け止めてくれる彼が、あんな真剣な顔をするなんて尋常ではないと思って。
エルセは必死になって父を説得した。そして何とか、船乗りであるギルバートの代わりに乗馬が得意な使用人を早馬として走らせ、そのあと馬車を整えて向かわせることを了承させた。
そんな大騒動を経て、目的を果たした馬車がこの屋敷に戻ってきたのが、ついさっきのことである。
『お嬢様』
声をかけられて顔をあげると、彼女と同じく徹夜の気怠さを纏った執事が立っていた。
『娘の着替えが終わったようです』
『わかったわ』
頷いて、エルセは立ち上がった。
先程馬車でこの屋敷にやってきたのは、若い男女だった。特に女性のほうが強く印象に残っていた。
血で汚れた男物の服を着ていて、髪は縛っただけで編んでもいない。意識は辛うじてあったものの顔は真っ青で、一緒に来た青年に支えられながら、それでも歩くのがやっとという様子だった。
あまりに異様なその姿に、屋敷は一時騒然となった。
だがエルセは瞬時に察した。ギルバートが救いたかったのは彼女なのだと。
廊下を歩きながら、エルセは胸の奥に重苦しい靄が居座っているのを感じた。けどそれを認めたくはなかったし、誰かに知られたくもなかった。
エルセが客間のひとつに入ると、そこには馬車で来た女性と、何故かフリッツがいた。
『あ、姉さん』
弟が能天気な笑顔を向けてくる。
フリッツは、迎えの騎馬隊と入れ違いになるようにして帰宅していた。間一髪のところで危機を脱してきたらしいが、沈痛な様子は見当たらない。喉元過ぎればということなのか、逆に興奮しているようにも見えた。
そんな弟を視線ひとつで黙らせ、エルセは問題の彼女に目を向ける。
肌も髪も汚れていたのと、身体が冷え切っていたのとで、エルセは彼女のために湯を用意させた。風呂まではさすがにやりすぎかと思ったので、大体が布で拭う程度だったけれども。
その女性は長椅子に座った状態で毛布に包まっていたが、エルセを見てさっと立ち上がった。
「シュライバー嬢」
「どうぞお座りになって。まだ身体が回復していないでしょうから。ええと……?」
「アラベラ・ベインズです。この度は既のところをお救いいただき、ご家族の皆様に感謝致します」
アラベラと名乗ったその女性は、やけにきちんとした礼をした。
エルセは妙な違和感を抱いた。その礼は何というか、庶民がするにはきっちりし過ぎていたのだ。そして雑ではないのだが、柔らかさもない。
エルセは改めて彼女を見る。
その顔は凛としていて、確かに美しいのだが、同性の嫉妬を呼び起こす類のものではない。否、最初彼女を見たときに感じたのは嫉妬だったのかと、エルセが他人事のように思えるほど、今のアラベラにはそういう感情が湧かないのだ。
化粧をしていないからだろうか? それとも、愛嬌のある笑みを浮かべてないから?
この屋敷の洗濯女に借りた質素な部屋着を纏い、濡れた髪を垂らしたままのアラベラは、一言断ってから再び腰を下ろした。
「ご主人を呼んできましょうか? きっと心配してると思いますし」
フリッツがアラベラにかけた言葉に、エルセは驚いた。
「ご主人ですって?」
「何言ってるんだよ姉さん。馬車で一緒に来ただろ」
フリッツがそう言って目を丸くする。
確かに、アラベラは金髪の青年に抱きかかえられるようにして馬車から降りてきた。あれが彼女の配偶者だと言われても、何の不思議もない。
エルセは頬が熱を持つのを感じた。
ギルバートがあんな顔で心配をしていたから、てっきり──。
「……嫌だわ、私ったら」
口の中でエルセは呟く。それから顔を上げて、アラベラのほうを向いた。
なんだか急に視界が晴れた気がする。そして、ついさっきまで見えていなかったものが一気に認識できるようになって、エルセは血の気が引く思いがした。
彼女は慌ててアラベラに告げた。
「いろいろ気がつかなくてごめんなさい。すぐに御髪を整えさせるわ。衣装も、私ので良ければお貸しします」
「姉さん、どうしたの? 急に畏まっちゃって」
突然態度を変えた姉にフリッツが口を挟むと、エルセはきつい眼差しを彼に向けた。
「フリッツ! あなたもなんて気が利かないの? 身支度の整っていない婦女の部屋にずかずか入ってくるなんて!」
「え? だって」
「だってじゃないの! 女性はね、こういう姿はできる限り他人に見せたくないものなのよ!」
エルセの言い分に呆気に取られたのは、フリッツばかりではない。何故かアラベラ本人も、目をぱちぱちさせている。
「あー……。確かに、ベインズさんを差し置いてっていうのは良くなかったかな」
フリッツは決まり悪そうに頭を掻いて、それから悪戯っぽい笑みをアラベラに投げかけた。
「僕がここにいたこと、内緒にしておいてもらえますか? ベインズさんが気を悪くするといけないから」
「わかりました。けど、バートレットは気にしないと思いますよ」
アラベラが苦笑交じりに返すと、フリッツは笑みを深める。
「僕、アラベラさんの武勇伝をもっと聞きたいんです。でもそのためには、ご主人の機嫌を損ねないようにしなくちゃ」
「港にいる間、お互いの都合が合えばいつでもお話ししますよ。大した話でもないですが」
「本当ですか!? やった、約束ですからね!」
目をきらきらさせた弟に、エルセは既視感を覚える。これは海賊の話をするときのフリッツそのものなのだが、一体どういうことなのか。
「さあ、もういいでしょフリッツ。アラベラさんの支度の邪魔をしないでちょうだい」
「はーい」
エルセに注意されて、フリッツは拗ねたように下唇を突き出しながら部屋を出ていった。
含み笑いがしてエルセが振り返ると、アラベラが笑みを浮かべていた。
「姉弟仲が良いんですね。羨ましいです」
「出来の悪い弟でお恥ずかしい限りです。無礼をどうかお許しください」
エルセは溜め息をついて苦笑した。
「どうも甘やかしてしまったようで。あのとおり飄々とした子ですから、アラベラさんも多少強く言ってくださっても大丈夫ですよ」
「彼は昨夜、親しかった人物の死を目の当たりにしてしまったんです。少しでも気休めになるなら、話なんていくらでもしますよ」
「……」
アラベラの静かな口調に、エルセは目を瞠った。
フリッツが妙にはしゃいだ様子だった理由を、エルセは理解した。そして、アラベラに対して妬む気持ちが砂粒ほども残っていないのも。
再度小さく嘆息してから、彼女はまっすぐアラベラを見た。
「ありがとうございます。ですが、あなたも体調を崩してらっしゃるのですから、無理は禁物です」
「お気遣いに感謝します。けれど、我々は所詮ならず者。事が片付いた今、長居してはご迷惑がかかります。今後の動き方について話をしたいので、バートレットとギルバートをここへ呼んでいただけますか?」
「えっ」
思わず声をあげたエルセに、アラベラも驚いて目を瞬く。自分の反応に戸惑いながら、エルセは言葉を無理に繋いだ。腰の前で組んだ両手の指を、忙しなく動かしながら。
「あの、その……。もう少し、お休みになってからでも良いと思います。お腹は減っていませんか? お飲み物のほうがいいかしら」
「……? いえ、特には」
「そうだわ、服! 着替えの用意がまだでしたね」
ぱん、と両手を合わせたエルセに、アラベラは穏やかな微笑みを向けた。
「シュライバー嬢。どうかお気遣いなく」
「そう、ですか……」
エルセが肩を落としてしまったのを見て、アラベラは少しの間だけ思案した。
そして迷いつつ、彼女は口を開いた。
「……もし、お言葉に甘えてもいいのでしたら」
「はい、何でしょうか!?」
顔を上げたエルセが必死に見つめてくるのを、アラベラは苦笑交じりに受け止める。
それから彼女は、エルセをまっすぐに見つめ返して言った。
「あなたに、協力していただきたいことがあるのです」