Brionglóid
海賊と偽りの姫
新たな始まり
34
もちろんその名を知らなくとも、彼女が屋根裏部屋に囚われていた女であることは敵側の男達もすぐに察した。
しかしあのときと違って、男達は気圧されている様子だった。
共寝の相手としてすこぶる魅力的なこの美女は、正面から敵対するとなると、派手な見た目も相まって迫力が並大抵のものではない。
数名の部下を後ろに控えさせたディアナは、まるでこの場を統べる女王のようだった。
「さあ、攻守交代の時間だよ。今度はあたしがあんた達を天国に連れてってあげる番。お互い楽しみましょ?」
手斧を片手に、ディアナがそう言って艶やかに笑う。
「と言っても、ちょっと出遅れちゃったかしら。これでも急いだんだけど」
「思ってたより大分早かったよ」
彼女の部下に髭面の男を引き渡したライラが答える。
周囲をちらりと見渡したディアナは、まともに立っている相手がいないのを確認すると、少し残念そうに嘆息した。
「これ、殆どあんたがやったわけ?」
「いや、私は後半に加勢に入っただけだから。ほんのちょっとだよ」
ライラが平然と嘯くのに、ディアナは鼻白む。
が、諦めたように肩を竦めた。
「まあいいわ、そういうことにしといてあげる」
それから彼女は、改めて男達に向き直ると、きっぱりとした口調で宣言した。
「この屋敷はもう包囲されてるわ。あんた達のお遊びもここまで。もうすぐ自警団も駆けつけるだろうけど、それまで誰一人、一歩もここから出さないからよろしくね」
ディアナの言葉のとおり、正面玄関が開いて何人ものエスプランドル人が雪崩込んできたところだった。彼らはまるで事前に訓練でもしたかのような機敏さで、各所の配置についていく。
窓の外からは新たな人の気配がし、残党狩りをしているのがわかる。二階には既に使用人用の通路を使って入り込んでいたようで、階段越しに複数人が動き回っている音がした。
あちこちでちょっとした小競り合いが発生しているようだが、それもじきに収まるだろう。
しかし事態が小康に入ったかと思われたそのとき、ディアナが突然、弄んでいた手斧を何処かへ投げつけた。
石壁に当たった斧は甲高い音を立てて弾かれ、ごとりと床に落ちる。
しかしディアナの視線は斧ではなく、そのすぐ傍、身を低くして階段裏の扉から逃げようとしたひとりの男を捉えていた。
「大人しくできない悪い子はどうしたらいいのか、あたしがきちんと教えてあげる」
彼女は腰の剣をすらりと抜くと、切っ先をその男に向けながら微笑んだ。
優しく語りかけるような口調に、当の男は真っ青になってディアナを見上げている。
「そうねえ、お代は一回につき指一本なんてどうかしら。二十回もやってりゃ、馬鹿でも覚えるってもんよ」
「ひ……っ」
男は尻餅をついたまま、足をジタバタと動かして踵で虚しく床を掻いていた。どうやら腰を抜かしたらしい。
ファビオに肩を貸した状態のハルは、やや同情混じりの眼差しでそれを見ていた。
「味方だってわかってんのに、なんか、おっかねえんだよな……」
「一応心配してたんだが、案外元気そうでよかった」
ハルの呟きに対し、ファビオのほうは見慣れているせいか平然としている。
否、彼が上司を見守るその目は、平然どころか少し嬉しげだ。ディアナが言葉どおり元気そうだからだろう。
「いいこと? うまく建物から出れたとしても、関所も市壁の要所もすべて抑えてあるし、港は『天空の蒼』が目を光らせてるわ。だから観念することだね。この街でシュライバーの息の掛かった人間に手を出しておいて、タダで済むと思わないことだよ!」
ディアナが意気揚々と言い放つ頃には、もう彼女を出し抜いて逃げ出そうなんて浅はかな考えを持つ者はいなくなっていた。
何せこの場にはもうひとり、男達が到底太刀打ちできない技量の女剣士がいる。逆らったところで無駄に命を散らすだけなのは、彼らの頭でも理解できるくらい明らかだった。
その後ディアナは現場の監視がてら、ひっきりなしに届く報告を受けつつ、手際よく指示を出していた。彼女がファビオのほうへとやってきたのは、ようやくひと息つくくらいの余裕ができた辺りのことである。
ファビオは自力で立って彼女を迎え、ゆっくりと丁寧に一礼した。
『ご無事で何よりです、我らが船長殿』
顔をあげたファビオは、いつものごとく不敵な笑みを載せてはいたものの、怪我が目立って痛々しい。流れ出た血は乾いて張り付き、殴られた箇所は青黒く変色してきている。
ディアナはそれを見てやや目を眇めたが、すぐに表情を改めて、ふん、と鼻を鳴らした。
「ちょっと見ないうちに、いい男ぶりになったじゃないの。その軽口さえなければ完璧なのにね」
少し冷たさすら感じるほどあっさりと身を翻すと、ディアナはライラに言った。
「ファン・ブラウワーは保護したわ。軟禁されてたけど案外手薄だったんで、すんなり行ったの」
「そう、よかった。……ジャック・スミスは?」
「それが、いないのよねえ。こういうときに尻尾巻いて逃げる男には思えないんだけど」
どこ行っちゃったのかしら、とディアナは首を傾げる。ライラも不審に思った。
彼女もライラも、最も警戒すべき相手は彼だという認識は一致していた。
ファビオ達とブレフトの両方を救出するにあたって二手に分かれたが、ライラはここにジャックがいないことでディアナが彼と遭遇したのだと考えていたし、ディアナのほうは自分がはずれを引いたのだと思っていた。
一応エスプランドルの男達が建物内を捜索しているが、破落戸はその殆どがファビオ達を始末するためにここへ集中していた。ブレフト側が手薄だったのもそのためだ。
これだけの大騒ぎを繰り広げているのに出て来ない時点で、ジャックは既に姿を消している可能性が高かった。
「手強そうな相手に当たらずに済んだってことで、良しとしておこうかね。あんたは肩透かしかもしれないけどね」
あからさまに物足りなそうな様子のディアナに言われ、ライラは苦笑した。
「そうでもないよ」
すると、横からファビオが割って入ってきた。
「ディアナ、セニョリータは想像以上だぞ。お前も一度見たらその素晴らしさがわかる」
「ここの状況を見れば、だいたい想像つくわ。あんただけじゃなく、あのルースが入れ込んでるって相当だもの。普通の女じゃそうはならないでしょ」
腹心の熱弁に若干呆れつつも、ディアナは同意する。人魚号で多少見てはいたが、あれがライラの全力だとは彼女も思っていなかった。
一時期は恋敵だった関係のライラは、美女というよりも男顔負けの手練の剣士という面が強い。なによりルシアスがその部分を高く評価していて、整った容姿はあくまでもおまけという認識らしかった。
そのことを知ったディアナは、いつの間にか、恋愛という分野でライラと競う気にならなくなっていた。もし彼女に勝とうとするなら、剣術道場にでも通って鍛錬に鍛錬を重ねることになりそうだ。実に馬鹿馬鹿しい話である。
おかげでディアナも、嫉妬なんてものに煩わされることなく済んだのは正直ありがたかったが。
「悔しいが、クラウン=ルースは女性を見る目も確かなようだ。ああ、運命とは実に残酷なものだな。俺が先に出会いたかった……」
嘆くファビオに、まさかお前もじゃないだろうなという視線を投げてから、ディアナはライラに言った。
「ここはあたしらに任せて、早く戻って無事な姿を見せておあげよ」
「それはむしろ、あなたの話だろうが。それに、人手は足りてるのか?」
ライラが目を瞬かせたのも無理のない話だった。
元人魚号の水夫達はそもそも、操船するのにもギリギリの人数まで減っていた。それが異国の地で転籍となり、帰国の希望を捨てられずに船を降りた者もいないわけではなかった。
今回『天空の蒼』は表立って動くことができず、動かせる人数はとても厳しいものだったのだ。
しかしディアナは事もなげに頷いた。
「大丈夫よ。若様が夜戻らなかった時点で、シュライバー邸では既に動き出してたみたいなの。こっちが若様を送り出してすぐくらいに、立派な騎馬隊が来てびっくりしたよ。金持ちは違うわね」
つまりディアナが使いを出すまでもなく、シュライバーが息子を迎えにいくという名目で、追加の人員を送り込んでくれたらしい。この短時間で建物の包囲が可能だったのは、そういうことだったのだ。
ディアナはそれから、人差し指でライラの胸元を小突いた。
「それにあんた、結構ひどい格好だよ。そんな返り血飛んだ服装で彷徨いてたら、そのうち誰かに通報されちまうよ。シュライバーの旦那に馬車でも手配してもらって、ついでに風呂も借りたらいいんだわ」
驚いてライラが自らの服を見ると、たしかに、お世辞にも小綺麗とは言い難い姿だった。
服こそ破れていないものの、生々しい程の血の痕跡があり、かすかに鉄臭い匂いもしている。
「たしかに、戻るにしてもその格好じゃ大騒ぎになるな。ここから港まで歩いてるうちに、空が明るくなるだろうし」
傍らのバートレットにもそう言われ、眉尻を下げたライラはディアナ達に後を任せることにした。
「それじゃ、お言葉に甘えることにするよ……」
ふたりはディアナと別れ、外にいるシュライバー家の者達に馬車の依頼をするべく玄関に向かう。
が、今度は横から声をかけられて足を止めることになった。
「お前は、あのとき船にいた女だな」
振り向いた先には、エスプランドル人の水夫に付き添われた若い男が立っている。
当然、ライラにも見覚えのある相手だった。船に新造船の見積もりを持ってきた、あの青年貴族だったからだ。
「……」
ライラは答えなかったが、ブレフトは勝手に納得したらしい。
自嘲するような苦い笑みを浮かべ、彼は言った。
「じゃあやっぱり、これは全部クラウン=ルースが仕組んだことなんだな。ここにあのエスプランドル女がいることを知っているとしたら、僕と交渉をしていたあいつとシュライバーくらいだ。エスプランドル人達を唆すにしても、お前がここにいる理由がない。そうだな?」
ライラはそれにも答えるつもりがなかった。バートレットが、ライラを庇うように半歩前に出てブレフトを牽制する。
もしブレフトがこの期に及んでまで敵意を見せてくるなら、ここで食い止めなくてはならなかった。
ブレフトは少し怯んだが、それよりもライラと話したい意思が勝ったらしい。彼は懸命に言葉を繋いだ。
「わからないことがある。どうして奴は、僕を助けたんだ」
「それが、シュライバー氏の望みだったからです」
そこではじめて、ライラは口を開いた。
ブレフトは驚いたように彼女をまじまじと見た。
訛の少ない発音や落ち着いた口調は、海賊船にいるような女の話し方とはかけ離れていたからだろう。
「シュライバーの?」
「クラウン=ルース本人はあなたのこと、一発殴ってやりたいとは言っていましたが」
ライラが冗談めかして言うと、つられたのかブレフトの表情も少し緩んだ。
「ふん、殺されてもおかしくないくらいのことをしたって、僕もわかってる」
「あなたは間違いを犯しましたが、罪を裁くのは法であり、個人の感情ではない。ルースはそのくらいのことは弁えています」
ライラがやんわりと、だがきっぱりと訂正する。
その眼差しの強さにまたしても怯む様子を見せたブレフトだったが、やがて言葉の意味を飲み込んで目を伏せた。
「やっぱり、僕は裁かれるのか……海賊がそれを言うなんてね」
「屁理屈かもしれませんが、彼は法を蔑ろにしているわけではありません。国と法が助けない人々の側に立っているだけです」
「屁理屈だな」
「そう、だから――あなたを助けたいというシュライバー氏の願いも、聞き入れたんだと思います」
静かなライラの言葉に、ブレフトは顔をあげた。
「……僕は奴の屁理屈に救われたってわけか。借りができたな」
それまで自尊心で何とか保たれていたブレフトの表情が、泣きそうに歪んだ。
犯した間違いの代償はあまりにも大きかったが、どん底に落ちる寸前でシュライバーとルシアスに拾い上げられたのだ。
脅迫事件は成立しないままディアナも無傷で自由になった。被害者が訴え出なければ、彼の罪が明るみに出ることもない。
それまでのブレフトであれば、この処置に胡座をかき、似たような過ちをその後も繰り返していたかもしれない。だが、今の彼はそうしなかった。
ブレフトは零れ落ちそうになる涙をたっぷり時間を使って何とか堪え、ライラをまっすぐに見つめた。
「クラウン=ルースに伝えてくれ。今はまだ不可能だが――借りはいつか返す。必ず返す、と」
「わかりました。伝えます」
短く答えると、ライラ達はようやくその場を後にした。