Brionglóid
海賊と偽りの姫

新たな始まり
33
倒れたファビオを横目に、ハルは舌打ちをした。
彼自身も目の前に敵がいるので、駆け寄ることもままならない。
こいつはさすがにまずいか、とハルの胸に諦念を抱きかけた。まさかこんなところで、それも陸で、死ぬことになるとは──。
そのとき、廊下の室内からは死角になっている辺りから、『何だお前ら!』という叫びが聞こえてきた。それに打撃音と、男達の短い悲鳴が重なる。
ハルは一瞬でも諦めかけた己を恥じた。
気合を入れ直すかのように、とりあえず目の前にいた敵を殴り倒す。
「ハル、ファビオ! 無事か!?」
「……その声、セニョリータ、か!?」
軽い脳震盪を起こしていたファビオだが、何とか持ちこたえたらしい。
倒れ込んだ彼に追い打ちを掛けようとしていた者がいたが、その男も闖入者に気を取られていた。それを、ファビオが足払いをして転倒させる。
そこへハルが敵を蹴散らしてやってきて、ファビオを抱え起こした。舶刀を振り回して威嚇しながら再び道を切り開き、強引に廊下へと出る。
すると、彼らふたりの姿を確認したライラとバートレットが駆け寄ってきた。
「加勢に来た。ファビオ、大丈夫か?」
ふたりの盾になるようにして立ったライラは、背中越しにそう尋ねた。ファビオがこめかみから血を流しているのが気になったのだ。
ファビオは苦笑を浮かべながら答える。
「何とか生きてるよ。セニョリータ、本気で君が天使に見えてきたぜ」
廊下には既に、伸びたり蹲ったりしている男達が何人もいた。
それを見て、ファビオは笑いがこみ上げてくるのを止められなかった。本当に彼女がやったのかという信じ難い思いと、その細い背中に感じる妙な安心感との差異が大きすぎた。
彼女は本物のライラ・マクニール・レイカードなのだと、ファビオは今更ながら実感したのだった。
ライラは、この混乱の中で不釣り合いなほど冷静な声で言った。
「話はフリッツさんから聞いた。ディアナが配下の者に召集をかけている、それまで堪えてくれ」
「承知した」
「ハル、ファビオを頼む。バートレットはハルの援護を」
「わかった」
ハルとバートレットが頷きを返す。最年少の小娘からの指示に、船乗り達は自然に従っていた。そもそも、指示を飛ばす彼女が自然すぎるのだ。
男達を庇いながら先頭に立つライラを見て、破落戸のひとりが声をあげた。
『お前は、あのときの女……!』
あのときとは、もちろん彼らがディアナ奪還のために侵入したときのことだ。縛りあげられたうちのひとりがこの男だったのだろう。
ご丁寧に、男は公用語に変えて叫んだ。
「あのときは、よくもやってくれたな! 今度こそ嬲りものにしてやる!」
「よく見りゃいい女じゃねえか! ちょうどいい、男どもを始末すりゃこいつで全員楽しみ放題だ!」
別の目的が出来たことで、破落戸達は色めき立った。女というのは、それだけ魅力的な報奨なのだろう。
逆に、船乗り達は侮蔑の表情を浮かべた。特にバートレットなどは、怒りで眼差しを鋭くしている。
そこでハルに支えられたファビオが、演技がかった大きな溜め息をついた。
「ああ、聞くに堪えないな。セニョリータ、今すぐ耳を塞ぐんだ。断言しよう、あの手合は死んでも治らない」
するとライラは意外にも、いつもどおりの口調で返してきた。
「気遣いをありがとう。でもああいう悪態を聞いて、私はむしろ安堵しているんだ」
「安堵?」
ファビオが聞き返すと、ライラはちらりとだけ振り向いた。
その目は、茶目っ気たっぷりに微笑んでいた。
「多少加減を忘れても、こちらの心が傷まなくて済むからね」
そのやりとりを聞いて、破落戸連中は激怒した。一度痛い目を見せられているからこそ、許し難い発言だったのかもしれない。
「生意気を……!」
「ふん、威勢がいいじゃねえか、アマ」
濁声の主、もとい赤髭の男が手下の群れの中から歩み出て言った。
「ちょうどいい。俺はな、お前みたいなお高く止まってる、気の強い女をいたぶりながら犯るのが好きでな。血まみれで泣き喚く女ってのが、最高にクるのさ」
下卑た笑いを浮かべながら、男はライラに近づく。
いつ以来身なりを整えていないのか、ぼさぼさなのは髭だけではなく髪の毛もだ。双眸は酒精によって充血して濁り、髭の間から覗く歯は茶色く、ところどころ欠けている。
手下から受け取った手斧を握る姿は、まるで千年ほど前の蛮族のようだった。
「簡単に股を開く商売女じゃ意味がねえのよ。お前みたいに、男を知らなそうな澄ました女を力ずくで、とことん辱めてやるのがいいんだ。案外、すぐに好くなって強請ってきたりしてなぁ?」
「アラベラ。こいつは俺にやらせろ。この手であの口永遠に塞いでやる」
殺気立ったバートレットが、髭の男をきつく睨みつけながら低く告げる。だが、ライラは首を横に振った。
「落ち着いて。ただの挑発だ、乗ってやる義理はない。あなたはあなたの役目を全うしてくれ」
「そうは言うが、セニョリータ。あの男はいくら何でも──」
ファビオも不快そうに口を開いたが、それでもライラは了承しなかった。
「問題ないよ」
平然と言ってのけ、ライラは赤髭の男をまっすぐに見つめた。
「それだけふんぞり返ったところを見ると、貴様が首魁か」
「おうよ。俺が手ずから可愛がってやろうってんだ、光栄に思えよ小娘」
「貴様のような男に会うのは初めてじゃないが、どうして皆、判で押したように同じことをほざくのだろう。不思議でならない」
にやにやしている男とは対照的に、ライラはややうんざりした様子で嘆息した。抜き身の剣をひゅっと横に捌いてから、構えの姿勢を取る。
「いい加減、聞き飽きた。どいつもこいつも下半身事情に囚われすぎだし、過信しすぎだ。貧相な木の枝を掲げてこれぞ自慢の宝剣だと誇られても、こっちは対応に困るというのに」
「……この、糞アマ……ッ」
赤髭の男は、たったそれだけの煽りで顔を紅潮させた。
しかしライラ本人はどこ吹く風だ。
「そっちは私を力でねじ伏せた暁には、思うままにしようという腹づもりらしいが。私は貴様を倒したところで、寝所に呼ぶどころか今後関わるのもごめんだ。報奨に差がありすぎる、不公平にもほどがあるぞ」
ライラの背後で、ぷっと小さく吹き出す気配がした。ファビオだ。
「ははっ、君の言うとおりだセニョリータ。この汚い髭面が素っ裸で寝台に横たわってても、なあ? 公平どころか、楽園と死体置き場くらい差がある。彼女と同じ天秤に乗ろうって時点でおこがましいね」
「ほざいてろ、垂れ目の死にぞこないが! 小娘の背中にこそこそ隠れやがって、口だけは大したもんだがな!」
男は怒鳴ったが、ファビオの表情を崩すことすらできない。むしろファビオは、小憎らしいほど鮮やかに微笑んでみせた。
「おや、その様子だと美しい娘に庇ってもらったことがないと見える。すまんな、人徳か男としての格の問題だ。こればかりは俺にもどうしようもない、諦めてくれ」
「ぐ……っ。この、田舎者の、低能の……ッ」
赤髭の男は何とか反論しようとするが、血ののぼった頭のせいか、元からの語彙力の問題か、効果的な罵倒の言葉を見つけだせずにいた。
ファビオほど口が達者ではないハルとバートレットは、半ば呆れた様子でやり取りを聞いている。よくまあここまで相手の神経を逆撫でできるものだ、と。
案の定、赤髭の男は髭の色に負けないくらい顔を真っ赤にしてがなり立てた。
「糞ども喜べ、お前らは残らずここで殺してやるッ! その前に手足切り落として、そこの小娘が泣き喚きながら玩具にされるのを見物させてやるから覚えとけッ!」
「だから下半身から離れろってば」
はあ、とライラが溜め息をつく。
「それに──悪いがお前達に負ける気は欠片もなくてね」
言うが早いか、ライラが床を蹴る。
隙をついたつもりなのか、脇から破落戸が刃を突き出してくるところだった。ライラは身体を捻り、剣を閃かせる。数拍遅れて血飛沫が舞った。
男が倒れるのを待たずに、ライラはもう次の相手に剣を向けている。立て続けに男達の絶叫が響いた。
常に次の一手を考え、時には攻守同時に行うライラの動きに無駄はない。流れるようなそれは、まるで舞踏のようだった。
特に、彼女から手ほどきを受けたバートレットは、そのひとつひとつの動作の意義を理解できるだけに、目を奪われない理由がなかった。
ろくに反撃もできずに倒されていく中で、破落戸達も次第に戦意を喪失していった。一太刀浴びただけでも、敢えて立ち上がろうとする者はいない。そんなことをしても再び床に沈められるだけ、下手をすれば、二度と立ち上がれなくされるかもしれないからだ。
仲間のあまりの惨状に赤髭の男は呆然としていたが、それでも降参を選択するほどではなかったらしい。
男は意を決した様子で手斧を握り直すと、ライラの背に向けて無言で振り下ろした。
間一髪で気づくことができたライラは、身体を翻してその刃をかわした。
しかしすぐ、返す刃が襲ってくる。ぶん、と空気が鳴いた。
「大人しくしろ、糞アマ……!」
「く……っ」
右へ左へと、斧は何度も振り回される。ライラは必死に避け続けた。
力任せで技法も何もあったものではないが、その力が強大である以上、技法の拙さを補って余りある。むしろ素人である分、動きが読めない乱雑さが厄介だとライラは気を引き締めた。
男は怒りから疲労を感じにくくなっているのか、その攻撃が止まる様子がない。
やがて、刃が窓枠の一部をかすって木っ端が舞った。
「うっ」
極小の破片か埃が、ライラの視界を遮る。彼女の動きが鈍ったその瞬間、男は勝利を確信した。
これがとどめと、斧がライラの頭上めがけて振り下ろされる。
が、すんでのところで体勢を整えたライラは、身体を捌いてよけながら、交差させた手首で挟むようにその腕を叩き落とした。
左手で男の手首を掴んで自分の脇に引き寄せ、近くなった相手の横顔に剣の柄頭を食らわせる。怯んだ男の首の後ろへ右手をそのまま滑らせると、ライラは剣を握った手でぐいっと手前に引き込んだ。
もともと前屈みの体勢に持ち込まれていた男は、抗いきれずにつんのめってしまった。
しかし右手はライラに掴まれたままで、支える手のない男はぐるりと身体を回転させて仰向けに倒れこむしかない。
身体の大きな男が細身の若い女にあっさりと転がされてしまった光景に、船乗り達は思わず「おお」と声を漏らす。
ライラの動きがあまりにも早すぎて、何が起きたのか正直なところ誰もよくわかっていない。が、見事な武芸を披露されたことだけは、全員が理解した。
一方のライラは、まだ動きを止めていない。
ライラは掴んだままの男の右腕を背中側に捻り上げると、斧を握った手首を容赦なく殴打した。
彼女自身、柄を握った状態なのでその拳は強度が増している。苦痛から呻き声をあげた男は、ついには武器を落としてしまった。
手斧が、重たげな音を立てて床に落下する。膝をついていたライラは、剣を置いてその柄の部分に触れた。
死を予感した男の顔が、さっと青褪めた。さっきまでの威勢はどこへやら、恐怖から顔をひきつらせている。
しかしライラは何を思ったか、手斧に重ねた手をくいっと回して横に滑らせた。
手斧は床をくるくると回転しながら滑っていった。
そしてその先で、靴底でそれを受け止めた足がある。
自らが足蹴にした凶器をゆっくりと拾い上げ、検分するように眺めると、その当人は楽しげに笑んだ。
「あーら、あらあら。こんな夜更けにこんなもの振り回して。ひと様のお屋敷で、随分と物騒じゃないかい?」
そこに立っていたのは、手勢をまとめてやってきたエスプランドルの元海賊、ディアナ・モレーノだった。