Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

新たな始まり

30

 薄暗がりの中を走っていたフリッツは、少し先の角から小さな明かりが漏れているのに気がついた。そこを曲がった先には確か……。

 次の瞬間、彼は躓いて派手に転倒した。
 受け身を取ることもできず、胸のあたりを強打してしまって一瞬息が詰まる。咄嗟に立ち上がることすらできなかった。

 裕福な家の若君が力の限り走る機会なんて、普段どれだけあるというのか。走るのも転ぶのも子供の頃以来だ。わかってはいても、情けなくて涙が滲んだ。

 蹲ったまま、さっき別れたばかりのファビオ達を想った。

 彼らは、足手まといの自分と一緒の脱出は困難だと判断したのだろう。だから身を挺しての足止めを選択し、フリッツにその先のことを託したのだ。
 その姿は、これまでフリッツが憧れてきた冒険譚の海賊そのものだった。

 それに比べて、自分のこの惨めさときたら。

『……っ』
 涙がこみ上げそうになるのをなんとか堪え、フリッツはよろよろと立ち上がった。
 顔を上げ、やっとここがどこかを理解する。

 使用人達の食堂だった場所で、ファン・ブラウワーの一家が越してきてからは、そこまで使用人の数がいないために半分物置になっていた場所だ。

 照明は灯されていないが油布を張られた明かりとりの窓があり、夜でもぼんやりと星明かりが入ってきていた。壁にかけられた古い甲冑は磨かれることもなくすっかり曇っていたが、それでも鈍く光を反射している。

 なんとはなしに視線を巡らせて、フリッツは自分が躓いた物体に目を向けた。

 棚や長卓の濃い影が床に伸びている。しかし、黒く伸びているのは影だけではなかった。
 フリッツは今更その異臭に気がついた。古い家屋特有の埃と黴の混ざった粉っぽい臭いに、鼻腔を刺激する金属質の臭い。転んだ際に床についた手のひらにも、黒い影──もとい乾きかけた血液が付着していた。

『え……?』
 家具の影に隠れるようにして横たわっていたのは、よく見るとこと切れたひとりの男だった。

 すぐ近くに、錆びた長槍が転がっている。そしてその先端が黒く汚れているのを見て、フリッツは口から出かかった悲鳴を慌てて両手で塞いでとどめた。

 哀れなこの男は、誰かに殺されたのだ。

 それがわかると、さすがにもう涙は堪えられなかった。悲鳴が喉から出てくることはなかったが、代わりに嗚咽が漏れてきた。
 口元にやったままの手が震える。頭の中がぐちゃぐちゃで、考えがうまくまとまらなかった。今すぐここから逃げ出したいなんてことが、パッとひらめいた程度で。

 フリッツは、自分が走ってきた廊下の先を見た。その向こうにいるファビオとハルを思い浮かべる。

 そもそもは自分の失態でこうなったのだ。それを咎めもせず笑って許した船乗り達に、再び迷惑をかけるなんてできるわけがない。
 迷惑どころか、下手をしたらこの横たわる男のように、あのふたりも……。

 嫌な想像を振り切るように、フリッツは無理やり足を動かした。
 とにかく、外に出なくてはならない。万が一彼らと離ればなれになった場合は、周辺でエスプランドル人を探すように言われていた。

 しかし、勇気を振り絞って動き出したフリッツの足は再び止まってしまった。廊下の途中に、またしても横たわっている影を発見したのだ。

 犠牲者は一人じゃなかったのかと、沈む気持ちでその遺体を見る。
 暗さですぐには気づかなかったが、見覚えのある服装だという事実が、遅効性の毒のようにフリッツの脳に染み入った。

 膝から勝手に力が抜け、がくんと床に跪く。
『ああ、そんな……』
 今度は声が漏れてしまった。
『嘘だろ、トビアス……!』

 会話をしたのはついさっきだ。別に変な様子もなく、昔のままの真面目な執事だった。仕事でほとんど家にいない父親に代わって、子供の頃からフリッツ達を見守り続けてくれた男。

 あまりにも大きな喪失感に、フリッツは茫然自失になった。
 頭の中が真っ白で、声をあげて泣くこともできずにしばらくの間へたり込んでいた。

 一体何があったというのだ。一体誰が、こんなことを。

 そういえば、ハルが言い争っているような声が聞こえたと言っていたのを、フリッツは思い出す。ディアナを助けるために忍び込んだベインズ夫妻かどうかはわからないが、と。
 トビアスは主犯であるフリッツの腹心だ。それでは、彼を殺したのは──。

「フリッツさん?」

 抑えた声で名前を呼ばれ、彼はばっと顔をあげた。
 明かりのある方角から音もなく現れたのは、アラベラ・ベインズことライラだった。

「声が聞こえたので。でも、どうしてここへ?」
 彼女の少し低い落ち着いた声音に、フリッツは反射的に腰を浮かせて僅かに身を引いた。

 こんな暗がりでも何か感じ取ったのか、ライラはその場で立ち止まった。横たわる男を一瞥し、もう一度口を開く。
「フリッツさん、この男性は……」

 怯えた様子のフリッツが思わず立ち上がって逃げようとしたとき、食事室の窓際にある階段塔から、明かりを手にした男が二人降りてきた。

『──おい、あれは』

 男達がフリッツとライラに気づいて一瞬足を止めた、その隙をライラは見逃さなかった。

 暗がりの中を音もなく駆け抜けて、一気に間合いを詰める。
 慌てて繰り出された拳を左の前腕で防ぐと同時に、相手の鳩尾に正拳を打ち込んだ。まともに一発を食らった男は、腹部を抱えて崩れ落ちる。

 もうひとりは短剣を持っていたが、ライラは切っ先を上体を捻ってかわしつつ、右の平拳で喉元に突きを食らわせた。咄嗟に男が喉をおさえようとした手を左手で払い落として、無防備になった顔に右の拳を叩き込んでやる。

 あっという間に男達が床に沈んだ。
 が、気絶するほどの打撃ではない。呻いてうずくまる男達を、後から小さな手燭と縄を持ってやってきたペドロとバートレットが、手早く縛り上げた。

 それと同じくして、フリッツの傍には小柄な影が駆け寄っていた。
『フリッツ様、ご無事でしたか!』
 侍女のユリィだ。隣にはディアナもいる。

 廊下の先が明るかったのは、その向こうにある台所に彼らが集っていたからだった。

 ユリィはフリッツの両手を握りしめて、泣きながら訴えた。
『キッケルト様が雇った連中が、私達を裏切ったのです。それで、こんなことに……』

 フリッツはまだぼんやりとしていたが、やや時間をおいて聞き返した。
『裏切った……?』
『申し訳ありません。私、どうすることもできなくて。旦那様は、奴らに連れていかれてしまいました。でも』

 この人達に助けてくれと言っていいのだろうか。そう彼女は暗に訊いてきた。

 公用語が得意ではない彼女は、ライラ達がどこまで味方してくれるのか確信が得られなかったのだ。なにせ、ディアナを拐ったのは彼女の主人であるブレフトだ。その彼が危険なのだと訴えたところで、助けてもらうなど虫がよすぎると、ユリィもわかっているのだろう。

 フリッツは少し考えて、彼女の手を握り返した。
『わかった。つらい思いをしたね。大丈夫、この人達は信用していいよ』

 それから彼はライラ達に向き直った。
「取り乱してしまって、すみません。彼は、僕が幼い頃から面倒を見てくれていた人だったので」
「そっか。あたし達が来たときには、もうこの状態だったの」
 と、痛ましそうに言ったのはディアナだ。

「こんな悪事には向いてなさそうな紳士だった。丸腰のところを、不意を突かれてやられたみたい。酷い話よ」

 彼らは、一部始終を目撃していたユリィとペドロから事情を聞いていた。

 しかしブレフト側の事情を知るユリィは公用語が不得意で、ペドロはエスプランドル語しか話せない。よって、ライラ達はふたりからそれぞれ聞いた断片的な話を繋ぎ合わせねばならなかった。

 それで彼らは奥に身を潜めながら、フリッツが馬車の故障で館内にいること、トビアスが諍いの末に生命を落としたことを何とか聞き出していたのである。

 フリッツは、幼馴染をとりまく状況に気を落ち込ませながら言った。
「ブレフト兄さんは、雇った者達に裏切られてしまったそうです」

「そうみたいね。でもファン・ブラウワーを連れ去って、何をするつもりなのかしら」
 ディアナの呟きに、フリッツはさっと青褪めた。

「そうだ……っ、のんびりしてる場合じゃない! ファビオさん達が危ないんです!」