Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

新たな始まり

26

『う……っ、うう……っ』
 薄暗闇の中に、微かな啜り泣きの声が漏れていた。

 角に身を隠して廊下の先を注視していたペドロは、たった今目の前で起こった惨劇が幕を閉じ、人がいなくなったのを見届けてから、ようやく振り返った。

 彼の背中に縋るように服の端を掴んで、侍女は懸命に堪らえていた。唇を強く噛み、とめどなく涙を流しながら。

 彼女が一連の出来事を目にしてしまったのは、本当に不運でしかなかった。
 怪我の手当てをしてくれただけでなく、残り物の汁物を温め直してくれたこの優しい少女は、胸を突かれて倒れる執事のもとに咄嗟に駆け寄ろうとした。間一髪でペドロがそれを強引に引き止めたのだ。

 人を殺して気が高ぶっている男達は危険極まりない。もし彼女が飛び出していたら、ペドロひとりで守りきる自信はなかった。

 ともあれ、破落戸(ごろつき)に気づかれることなく済んだようである。

 彼には連中の言葉も事情もわからなかったが、内輪揉めを起こしたらしいことは理解した。あっという間に二人の生命が奪われ、その片方はついさっきペドロを見逃してくれた中年紳士だった。つまり、あまり旗色がよろしくないということだ。

 早く仲間に知らせなければと思うが、彼自身が下手を打って計画通りに動けなかったため、現状どうなっているのかも不明である。

 ライラ達はディアナを無事助け出せただろうか。そういえば、庭先で彼を捕らえた男はとんでもなく強かった。もしかしたらあれが、事前に聞いていたジャック・スミスなのかもしれない。

 いくらライラが名のある賞金稼ぎなのだとしても、あの男との接触はできる限り避けるべきではないか。ほんの少し痛めつけられただけでも、ペドロがそう焦りを抱くのに十分な相手だった。

 しかし、この侍女を暗い台所にひとり置いていくことも、ペドロとしては気が引けた。彼の上司であればきっと、涙するご婦人を置き去りにするなど言語道断だと言い切るだろう。

 侍女の押し殺した泣き声は、彼を落ち着かない気持ちにさせた。
 ペドロは屈んで、彼女の顔を覗き込むようにして囁いた。

『……そんなふうに泣かないでくれ(ノ・ヨレス・アシ)きっと大丈夫だから(エストイ・セグーロ・ケ・エスタ・ビエン)

 侍女は赤くなった目で彼を見つめ返した。やはりエスプランドルの言葉はわからないのだと、その表情で察した。
 しかしペドロは、公用語もあまり話せなかった。ヤースツストランドの地元言葉となるとまったくである。

 この状況でこの先どうすればいいのかと、溜め息が彼の口から漏れたそのとき。

 廊下の先に、再び人の気配がした。


「ええーっ、南の島ってそんなに海が綺麗なのぉ?」
 甲高い声が妙に頭に響き、ルシアスはほんの僅かに眉をひそめた。

 偽装のためにと我慢しているが、首に抱きついた状態で嬌声をあげるのは勘弁してほしかった。

「素敵ー! あたしも行ってみたーい!」
「ねー!」
 隣りに座った給仕女(オーベル・フラウ)も負けじと声を張り上げる。

 彼女達が意図的に密着してきているのは、彼もだいぶ前から気がついていた。

 最初はやたらと酒を継ぎ足してきていたのだが、ルシアスが簡単には潰れそうにないと見たのだろう。腕にべたべたと触れてくるのに始まって、太腿に手を滑らせ、胸を押し付け、終いには胸元をはだけさせる者もいて、彼女達はどんどん大胆になっていった。何とかしてルシアスを個室に引きずり込みたいらしい。

 それも致し方のない話で、他の海賊達も酔って騒いではいるものの、二階に上がろうと誘っても頑として席を立たなかった。彼らは頭領の目を気にしているのだと彼女達は考えたようだ。

 確かに、今回はあくまでも偽装だと申し渡していた。そういう意味では部下達はルシアスのことを気にして飲んでいる。

 しかしそうでなくとも、酒場の女と酔った勢いでしけ込むなんてのは浅はかな行為なのだ。ろくに回らない頭で記憶も朧気な一夜を過ごし、陽が高くなってから目が覚めてみれば、女も財布も綺麗サッパリ姿を消しているのがお決まりの流れだった。

 両方とも残っていることもあるが、それは運良く仕事慣れしていない初心(うぶ)な女に当たったか、相手が本気になったか、だ。

 どれをとっても有難くないルシアスは、だから大衆酒場で飲むのが嫌いなのだった。

 女に纏わりつかれても振り払うわけにもいかず、仏頂面のまま耐えている頭領の姿に、航海長(マスター)はずっと苦笑いをしている。彼とて店の女将に目をつけられて頻繁に絡まれているので、そう他人事でもないのだが。

「頭領」
 声をかけられてルシアスが酒杯から目を上げると、連絡役を任せていた青年が立っていた。
 やっと来た。

「鴎が飛び立ちました」
 それは前もって決めていた引き際の合言葉だった。
 頭領と航海長(マスター)がほっとしたのも束の間、青年は悩む様子を見せながら一言付け加えた。
「ですが、籠の中は依然騒がしく……」

 こちらは合言葉ではなかったが、ルシアスは彼の言わんとしていることを察した。スタンレイも貼り付けていた愛想笑いをわずかに動かした。

 しかし航海長(マスター)は周囲に気取られる隙を与えぬうちに、長時間座りっぱなしで凝り固まった肩を回した。
「ああ、いい加減ケツも痛くなってきたな。そろそろ河岸(かし)を変えましょうか、頭領」
「そうだな」

 あっさり応えて酒杯を置くルシアスを、目的を達成できなかった女達が恨めしげに睨んだ。

「もう行っちゃうの?」
「ああ。今夜は世話になった」
お世話(、、、)はまだ終わってないわよ、旦那。野暮なこと言わせないで」

 一番積極的だった黒髪の給仕女(オーベル・フラウ)が、そう言いながら彼に抱きついて首筋に顔を埋めてきた。
 さすがのルシアスもこれは放置せず、彼女の肩を掴んでぐいっと引き剥がす。すると、女は気を悪くしたのか意地悪な目で彼を見た。

「心配しなくても、うちに躾のなってない娘はいないわ。それともまさか、女は趣味じゃないなんて言うんじゃないでしょうね?」
 ここまで媚びたのに落とせなかったというのが、どうやら彼女の自尊心を傷つけたらしい。

 確かに彼女は、ツンと突き出したような唇に、豊かな胸と肉付きのいい腰回りをしていて、大抵の男ならむしゃぶりつきたくなる系統の女だった。

 頭ではいい女だと認めながら、まったく食指が動かないことをルシアスは呆れ半分で自覚した。
 今の状況も当然あるのだろうが、おそらく平時であってもそれは変わらない気がした。

 ルシアスは軽く嘆息してから答えた。
「仕事が残ってるんだ。のんびり朝寝している余裕がない」
「あら」
 原因が自分の技術や魅力ではないと知ると、女は刺々しい態度を引っ込めた。
 必要以上に追いすがる様子がないのを見る限り、完全に仕事と割り切っているようだ。

「忙しいのね。出港が近いの?」
「そうだな、おかげで部下にも外泊の許可を出せなくてね」

 給仕女(オーベル・フラウ)達は、なーんだ、といった表情で視線を交わしあった。
 黒髪の女は拗ねたようにルシアスを軽く睨めつける。

「そういうことは先に言っといてくださいよ、旦那。あたし達揃って、旬が過ぎたのかと焦っちゃったじゃないの」
「それは悪かった。もてなしにも食事にも満足してる」

「なら、ぜひ他所(よそ)でもそう言っておいていただきたいわ。全員が『天空の蒼(セレスト・ブルー) 』相手に一晩無聊(ぶりょう)をかこってたなんて評判が立ったら、このお店が潰れちゃうもの」
「覚えておこう」

 身体を密着させて仕掛けてきていたときとは打って変わって、茶目っ気すら感じられる彼女の物言いに、苦笑を誘われながらルシアスは頷いた。おそらくこれが素の状態なのだろうが、こっちのほうが好ましいのに、とは口には出さなかった。

 十分過ぎるほどの心付けを上乗せした料金を支払うと、彼らは店を後にした。
 肌寒いほどの夜気だが、酒で火照った身には心地よい。

 陽気になった海賊の群れは賑やかだったが、周辺住民からうるさいと怒鳴られることもなかった。路上には彼らばかりでなく、他の飲み客の姿もちらほらとある。そこかしこの窓からは着飾った女達が顔を出し、愛想よく手を振って彼らの気を引いていた。

 海賊達に混ざって歩きながら、航海長(マスター)は連絡役から報告の続きを受けていた。酒場ではできない密談も、ここでなら聞かれる心配もないだろう。

「なるほど、妙な状況になったな」
 スタンレイは、顎を親指と人差指で弄りながらそう独りごちた。

 交渉相手のブレフトが本邸を出たのを見張りが確認した。よって今夜はこれ以上話は進まず、彼らが酒場で待つ必要はなくなったわけだ。

 一方、ディアナの救出は無事達成された。しかし彼女は、落ち合う予定だった部下が現れないために、ライラ達とともに屋敷に引き返したという。

 また別の連絡役からは、フリッツ達も屋敷内に入ったとの報せがあった。想定外の事故が起きたらしい。
 この件が落着するのは、まだ先になりそうだった。

「みんなファン・ブラウワーの旧邸に大集合だ。いったい中でどんな祭りが起きているのやら。こうなってくると、俺達だけ参加できないのが口惜しくもありますな、頭領」
「仕方ないさ」

 スタンレイと並んで歩くルシアスは、肩を竦めて応えた。
 それなりの量を飲んでいたはずなのに、彼の足取りはしっかりしている。もともと酒に弱くないとはいえ、ライラのことが気になってほとんど酔えなかったのだ。

 スタンレイは、そんな彼に念を押すように訊いた。
「彼らだけで手が足りますかね?」
「だとしてもどうする? 大立ち回りは駄目だと言ったのはお前だろうが」

 頭領が面白くなさそうにそう返すと、航海長(マスター)は「そうでしたかね」と苦笑した。

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