Brionglóid
海賊と偽りの姫

新たな始まり
24
川遊びができるように、という意向が反映された裏庭には小さな船溜まりがあり、隣接する運河から水を引き入れる仕組みになっていた。
裏庭は手入れを放棄されて久しく、水際は背の高い菊科の雑草が生い茂り、少しかがむだけで大人でも充分に身を隠せる。少し騒がしいほどに虫が鳴いていた。
屋敷側から雑草をかき分けて船溜まりのほうへ進むと、星あかりの下でもわかるほど苔生した桟橋がある。いつからそこに繋がれているのかわからない朽ちかけた小舟は、水中から顔を出した草が底を突き破って浸水し、星を映した水面が微かに煌めいていた。
しかし今夜は、人々に忘れ去られた船溜まりが、久々に真っ当な船を受け入れていた。
中で身体を丸めて隠れていた船頭の男が、葉擦れの音に気づいて身を起こした。やってきた人物を確認して喜びの声をあげる。
『船長! よくぞご無事で……!』
『静かに。最後まで気を抜くんじゃないっていつも言ってるだろ』
抑えた声で叱責したディアナに、それでも男は嬉しさを隠しきれない様子で『シー、セニョーラ』と頭を下げる。
バートレットは硬い表情でライラを振り返った。
「やはりペドロは戻ってないな」
「なら、迎えに行くだけだよ」
そう応えたライラは、ディアナのほうを向いた。
「そのまま川を下っていけば、ルース達のいる店に直接行けるから」
「この状況で行くとお思いかい? ペドロが戻ってないならあたしも残るさ」
さも当然とばかりにそう返し、ディアナは船頭の男に『剣貸して』と手を出した。
剣帯ごと受け取ってさっさと身につけるディアナに、ライラは困惑気味に言った。
「あなたの救出が第一の目的だってのに、万が一何かあったらルースにもファビオにも合わせる顔がないよ、ディアナ」
「囚われてたのが本当にお姫様なら、逃げ出して終わりでいいんでしょうけどね。このあたしが、部下の救出にあんた残してのこのこ帰って、それこそあんたに何かあってみなさいよ。下手すりゃ、うちと『天空の蒼』で戦争が起きるわ」
ディアナの言い分に面食らったライラだが、あまりにも大げさな内容に微苦笑を浮かべた。
「さすがにそれはないだろう。ルースは、切羽詰まっている場面でも理性的な判断のできる奴だ」
「他のことに関してならね」
ディアナは肩を竦め、それから睨むような目をライラに向けた。
「ねえ、あのジャックって奴、本当にあんたの知り合いじゃないんだね?」
「……多分違う」
ライラは小さく首を振った。
「特徴のいくつかでもしかしたらと思ったけど、癖毛で緑の瞳のスカナ=トリア人で剣の使い手って、考えてみたら何人もいそうだ。私の知人なら、この国にいる説明がつかないし、ひとりで行動してるなんてまずあり得ないんだ」
「ならいいんだけど。寄せ集めの雑魚ばかりの中で、あの男はなんか別だったわ。妙な感じがするんだよ。掴みどころがないというか……手練だっていうのも吹かしじゃないようだし」
ディアナは眉をひそめ、警戒もあらわに呟く。
「それがルースを狙ってるっていうだけでも厄介なのに、更にあんたの知り合いでずば抜けた色男なんて、不吉の詰め合わせみたいなものだもの」
そう言いながら鼻筋に皺を寄せるディアナを、ライラは興味深そうに見つめる。
「へえ、ジャックってそんなにいい男なのか」
「いい男っていうか、見た目がいいだけ。そのうえ強いのに、こんな地味な仕事してるなんて絶対おかしいのよ。必ず何か裏があるんだから」
ディアナはそこまで力説してから、何かに気づいて顔色を変えた。
「……って、ちょっとやめてよライラ。他の男に興味なんか持たないで!」
そして彼女は、バートレットに向き直ると睨みをきかせながら釘を差した。
「あんた、余計な告げ口なんかしたら承知しないからね」
「わかりました、船長」
少々気圧されながらバートレットが了承する。そして彼は、遠慮がちに続けた。
「ところで……、そろそろ行きませんか?」
はたと我に返ったディアナは、澄ました顔で言った。
「そうだね、こんな面倒事はとっとと片付けなくちゃ」
バートレットがライラを見ると、彼女は諦めたように嘆息するだけで何も言わなかった。
トビアスはジャックに対する指示を終えたあと、かつて与えられていた私室に引き取った。
主人一家が居住する空間とは違って、寝泊まりするだけが目的の殺風景な部屋だ。
分厚い石壁に囲まれ、快適さは脇に追いやられたような古めかしい部屋だが、ここには小さな暖炉があった。使用人としては破格の待遇である。
これといった私物があるわけではないのに妙に愛着が湧くのは、この部屋を宛てがってくれた先代主人の想いが消えずに残っているからだ。あの頃の主家は、貴族としての体裁を保つ余裕もそれほどなかったのに。
トビアスは疲労で重くなった身体を引きずるようにして、なんとか暖炉前の椅子に腰掛けた。
今暖炉に火は入っておらず、肌寒さに思わず身震いする。彼は管理人としてこの屋敷に通っていたが、泊まらず帰るため、下の者も命じない限りはここの火を入れないことになっていた。
しかし今夜彼は本邸に帰らないつもりだった。いや、帰れなくなってしまった。
夜が更けるにつれて寒さが強くなってきており、誰か呼んで火をつけさせるかとも思うが、立ち上がる気力がない。
疲れがどっと背中に伸し掛かってくるような感覚に、自身の年齢を思い返す。あるいは、覚悟を決めたことで気が抜けたのか。
目蓋を閉じれば、いろいろな記憶が蘇っては消えていった。寒さのせいで眠気はやってこないが、疲れ果てた頭が取り留めのない映像を脳内で再生していく。
どれだけの時間そうしていただろう。
静まり返った夜の世界に、遠くから物音が響いた。
執事として長年務めてきたトビアスは、考えるまでもなく疲れよりも職務を優先させた。目を開け、耳を澄ます。
破落戸達は今夜は街へ飲みには行かず、建物に残って飲み食いする選択をしたのかも知れない。いつものように酒場で飲み明かし、陽が高くなってからのんびり戻るのでは、金が受け取れなくなると心配して。
あるいはシュライバー家の馬車が到着して、フリッツが帰宅の準備を始めた可能性もある。彼が宿泊を希望したとしても受け入れるつもりだが、本邸のようなもてなしはここでは難しい。相手もそれは承知しているだろう。
しばらくすると、報せを持ってきたらしい下男のヨハンがやってきた。
基本的に人前に出ない裏方の仕事を請け負っている彼は、滅多に鏡も使わないような野暮ったい中年男だったが、仕事に関しては真面目だった。
通常なら執事の私室がある界隈に出てくることもないが、表仕事に従事する者達は寝静まってしまったのだろう。
普段立ち入らない場所に緊張しているのか、ヨハンはそわそわしているように見えた。
『ええと、夜分遅く……だったかな。夜分遅くすいやせん、執事様』
恐縮しきって何度も頭を下げながら、ヨハンは言い慣れない文句を並べる。
『その……坊っちゃん、じゃなかった、旦那様がお見えです』
『……何?』
トビアスに険しく問い返され、自分がなにか失態をしたと勘違いしたヨハンは、怯えたように肩を丸める。
『すいやせん、こんな時間に。で、でも、執事様を呼んでこい、と』
それを聞いてトビアスは、引っかかるものを感じた。屋敷に戻るよう指示が来たのではなくブレフト本人が来たというなら、よほどの急用だろうか。
真っ先に思い浮かんだのは、クラウン=ルースとの交渉に動きがあったかどうかだった。
だが、すぐに考え直した。彼からの返答は朝まで待てという内容で、その理由はどうあがいても動かしようがないものだった。
偽物の人質のために交渉を受けてくれただけましで、向こうは焦ってもない。
夜の間に変化があるとすれば──。
『ブレフト様はおひとりで来られたのか?』
慎重に尋ねると、ヨハンは頷いた。
『へえ、そのようで』
『……』
トビアスはそのことについてしばし考え、ひとまずヨハンを下がらせた。硬い表情のまま、部屋を出る。
使用人通路を通って古い武具の並ぶ食事室に入ったところで、表に繋がる廊下の先からブレフトがやってくるのが見えた。
トビアスは驚いた。ここは男主人が入ってくるような場所ではないからだ。
『ブレフト様! 申し訳ございません、お出迎えもせず……』
『女はどこだ、トビアス』
単刀直入に聞かれ、トビアスは一瞬返答に詰まった。
どうやら──悪い予感が当たってしまったらしい。
『……。夜も更けてまいりました。込み入った話は明日になさいませんか? 今日はもうお休みくださいませ、お身体に障ります』
トビアスがやんわりと告げるのにも、ブレフトは頑なな態度を崩さない。
『今じゃないと駄目なんだ。わかるだろう?』
その目はどこか、思いつめた様子があった。まるでもう、最後の一手しか残されていないとでもいうような。
いつもなら打てば響くが如き対応を取るトビアスが、返答を濁したのもよくなかった。人質の居場所を吐かない執事に、ブレフトは失望の眼差しを向けた。
『トビアス。お前、ひとりでこそこそと何をやっている? こんな時間に』
一段低くなったその声に、トビアスはやはり即答できない。覚悟していたつもりが、主人にこんな目を向けられるつらさは想像以上だった。
『フリッツ様が……、こちらにお寄りと聞き及びまして』
『そうらしいな。僕も途中で使者に会った』
『……っ』
ブレフトの口調は静かだった。それは、ブレフトが生まれたときからこの家に仕えていたトビアスですら、聞いたことのない響きだった。
若い主人は深く傷ついていて、トビアスは今更そのことに怯んだ。
しかし、彼もここで退くわけにはいかないのだ。
『ブレフト様……っ』
『屋敷を出ていくお前の姿を見て、僕がどんな気持ちになったと思う?』
ブレフトが畳み掛けるように言う。
『何をするつもりか知らないが、これ以上調子に乗ることは許さないからな』
激しい怒りと軽蔑。
トビアスが守ろうとしている青年は、そんな目で執事を見据えた。