Brionglóid
海賊と偽りの姫
新たな始まり
23
足元の地面が崩れ去り、暗黒の亀裂に自身が飲み込まれていくような錯覚にとらわれかける。
『キッケルト様? お顔色が……』
ユリィの声にハッと我に返り、トビアスはめまいを振り払うように軽く首を振る。
『いや……大丈夫だ……。少し、疲れが出ただけだろう』
ほとんど独り言のように答え、彼は真っ白になった頭で何とか思考を巡らせようと努めた。
すると、そこへ雇い入れた破落戸達が奮然とした様子でやってきた。
『おい、執事さんよ。えらいことになっちまったぜ』
酒臭い息を吐きながら、男のひとりが濁声で言った。
『まったく残念な話さ。屋根裏の女が、綺麗サッパリいなくなっちまったんだ』
やや大げさにそう嘆いてみせてから、男は調子を変えて続ける。
『ああ、念の為言っておくが今回は失態じゃないぜ。ちゃあんと、見張りはしていたさ。しかしなあ。俺達はしっかり者だからよ、代金に見合った仕事をしようと思ってるんだ。じゃないと安く買い叩かれちまうからな』
薄ら笑いを浮かべてはいるが、機嫌の良さからくるものではなかった。
ろれつの回らない言い方の中に危うさを感じてか、ユリィがトビアスの後ろにさり気なく隠れる。
『執事さんよ。あんたがとっとと金を払ってくれてれば、俺達ももっと真面目に仕事できたんじゃねえかって思うんだよ』
『過ぎたことについて、今ここで言っても何も変わらんだろう。既に女はいなくなってしまったのだから』
トビアスが低く応えると、男は小馬鹿にするように何度か舌を鳴らした。
『そういう話じゃ、ねえんだよなあ』
『何が言いたいのか知らないが、前金の代わりに寝場所と食事を提供することで合意したはずだ』
『そうだっけか? 知らねえなあ』
にやにや笑いながら男は後ろに並ぶ仲間に『初耳だよな』と同意を求め、彼らは白々しくそうだそうだと囃し立てた。
トビアスは舌打ちしたくなったが、何とか思いとどまる。
男はトビアスにずいっと詰め寄った。
『そこで相談なんだがよ、執事さん。今ここで金を払ってくれたら、あの女を連れ戻してやってもいい。賊も捕まえて血祭りにあげてやる。どうだい?』
『……』
『ああ、今までの金とそれは別の話だ。そこはきっちりしようぜ。なあ、半端な仕事はあんたも嫌いだろ?』
猫撫で声というには物騒すぎる響きで男は言った。
不覚を取ってまんまとしてやられたことに気分を損ね、本当は今にも相手を追いかけて気の済むだけやり返したいのが本音のところだろう。しかし、失態を認めては金は支払われないかもしれないし、認めるだけの精神的な余裕もない。
だから話を他責にすり替えて、歪んだ被害意識や苛立ちがさらなる欲を呼んだ、といったところか。
彼らのそういう性質を見抜いていたからこそ、トビアスが前金を渡さなかったというのに。
こんな四六時中飲んだくれているような連中に金など渡したら、すぐさま行方をくらまされるか、今のような適当な理由をつけて延々と強請られるだけだ。
どうするのが最善なのか──トビアスが迷っていると、薄暗い廊下の向こうから誰かがやってくるのが見えた。
「ああ、執事殿」
まるで散歩中に親しい知人に偶然出会ったような朗らかさで、ジャック・スミスはトビアスに声をかけた。
「丁度よかった。庭先で不審者を捕まえたのですが、ご報告は朝になるかと思っていたので」
その場にいた全員が、ジャックの引き連れてきた者に注目した。
後ろ手に縛られたエスプランドル人の青年は、不貞腐れたように視線をそらす。口の端やこめかみなど、見える部分だけでも多くの傷や血の跡が生々しく残り、彼が激しく抵抗したことを物語っていた。
反対に、ジャックのほうはいつもどおり、衣服に乱れた様子もなく相変わらずの優美な微笑みを浮かべている。
「僕はエスプランドル語はわかりませんが、どうも屋根裏の姫君を助けに来たようですね」
青年を傷めつけた張本人は他人事のように、あくまでも気軽な口調で言う。
さっきまで気炎を吐いていた男達は、むっとして押し黙っていた。
何せ、後れを取った彼らを助けたのもジャックだし、金を毟った上で捕まえる予定だった侵入者も、こうしてジャックに涼しい顔で捕らえてこられたのだから。
しかしこのままでは面目が丸潰れと思ったのか、破落戸のひとりが当て擦るように言った。
「生憎出遅れたようだぜ、ジャック。女は既に逃げちまった。お前でも、いい気になってると出し抜かれるってことだ」
「おや、そうなのか」
ジャックは空々しく驚いてみせる。
「では、どうしたものかな。そもそも彼女は偽物の人質だったわけだし。当初の目的を考えたら、彼女に固執しなくてもいいような気がするけどな。こちらの手違いで捕まえてしまったから、成り行きで留め置いただけですよね?」
と、後半はトビアスに向けてジャックは言った。否、それは先程の当て擦りへの返刀だった。
ジャックはヤースツストラントの言葉を話せないが、男達が提示した案を──報復行為に出ることを無意識のうちに否定する形になった。
男達はジャックの美貌を睨みつけているが、その当人は微笑を崩さない。
トビアスは短く息を吐いてから頷いた。
「そうだ、あの女に拘る理由はない」
「そうですよね。もともとは、クラウン=ルースとの交渉にまつわる話だったはず。計画が脱線しすぎて、迷走している気はしてたんですよ。だってほら、彼女を助けに来たのだって同国人じゃないですか。ルースからどんどん離れていっている」
ジャックの言葉を聞いているうちに、口の中に苦いものが広がっていく気がして、トビアスは顔を僅かにしかめた。
迷走。そのとおりだった。
続く失敗に、それを挽回しようという行動がいくつも重なり、結局今どうなっているか。
人質のことにもクラウン=ルースはほとんど動じることもなく、こちらは誘拐という犯罪に手を染めただけという結果に終わろうとしていないか?
ブレフトを頼むという、フリッツの言葉がトビアスの脳裏に蘇る。
「……。確かに、仕切り直す必要がありそうだな」
トビアスの口から呟きが漏れた。
全員が注目する中、彼は顔を上げて静かに告げた。
「女は追わなくていい。明日の朝、約束どおりの金を支払う。それで一旦締めとしよう。ご苦労だった」
「や、約束どおり?」
男達が唖然として訊き返す。トビアスはどこか吹っ切れた様子で応えた。
「仕事はきっちりするのだろう? 連れてくる相手を間違え、侵入者にも後れを取った。そしてこちらの目的は達成されていない。それを含めての話だ、充分だろう」
「おいおい、そりゃあないぜ、執事さんよ……!」
太い金蔓を掴みそこねた男達が不満を漏らす。が、トビアスは取り合わなかった。
「金を貰ったら時を置かずにどこへなりと散れ。逃げた女から事がばれれば、この建物にも調査が入る。捕まりたくなければ早々に立ち去るのだな」
男達は納得していない様子だったが、さすがに逮捕されるのは困るらしい。やがて、それぞれが悪態をつきながらひとり、またひとりと戻っていった。
それを横目で見やりつつ、ジャックが言った。
「随分思い切った決断をなされましたね」
越権ではないのか、と言外に指摘してくる彼に、トビアスは自嘲の笑みを返した。
「お前の言うとおり、ここまで迷走を極めてはどうにもならない。すべて私の独断ということにして幕を引くのが最良だ。これ以上は、どうせあの連中の手には負えぬ。そのエスプランドル人も折を見て放してやろう」
あの連中は、とトビアスは言わなかった。
さらに彼は、振り返って侍女に告げた。
『ユリィ、悪いがこの男に手当をしてやってくれるか? ヨハンかパウルに手伝わせなさい。それが済んだら、お前も部屋に戻って休むといい』
『か、かしこまりました』
侍女が慌てて頷く。
縛られたままの男に手振りで示しながら、ユリィは下男の控える台所へと向かっていった。
その姿が見えなくなり、完全に二人きりになってから、ジャックは声の調子を僅かに落とした。
「そのお覚悟は立派ですが、こちらとしてはどうも釈然としない」
一段低くなった声に緊張を誘われ、トビアスが彼を見返す。美貌の剣士は腕を胸の前で組み、皮肉げな笑みを口の端に乗せて言った。
「こちらは確かにただの雇われ者。僕は食事と寝床が無料でありつけて、しかもあの海賊とやり合う機会をくれるっていうこの仕事に不満はなかったんですけどね。でも、事情が変わったならある程度の説明は欲しいんですよ」
彼は向き直って、まっすぐにトビアスを見つめた。
「捕らえていた女は人違いだと聞いていました。だから目当てのルースが釣れないのもわかる。けれど、庭を彷徨いていたあのエスプランドル人は、どう見ても単なる同胞じゃない」
「……」
「恋人というのも違う。あれだけ傷めつけて一言も口を割らないのは、情というよりは忠誠心だ。あの連中が手も足も出なかった侵入者も、どうやらエスプランドルの関係者らしい。まったく見事な手際でしたよ。仰るとおり、破落戸の手に負える相手じゃない。……ねえ執事殿、彼女はいったい何者なんです?」
トビアスは押し黙った。フリッツが連れていたエスプランドル男も、彼の予測を裏打ちしているように思われた。
しばらくして、トビアスは暗い声で答えた。
「おそらく海賊の一味だ。港に大型のエスプランドル船が停泊していると聞いた。名のある海賊なのかもしれない」
「くそっ。人違いをするにしても、なんでそんなものを引き当ててくるんだ、あの馬鹿どもは」
呆れたジャックが思わず悪態をつく。日中から飲んだくれてばかりいる連中などに、到底敵うはずがないではないか。
「道理であのお嬢さん、やたらと肝が据わっていると思った」
「クラウン=ルースも、多分知り合いということで交渉に応じたのだろう。しかしこれ以上の深入りは、我々の手に余る事態になりかねん」
はあ、と重苦しい溜め息がトビアスの口から漏れた。それを見たジャックは、同情するよりも距離を取ることを選んだ。
「個人的には興味を惹かれる相手ですが、確かに目的からずれますね。仕方ない、じゃあ僕もこの辺りで……」
手を引こうかな、と言いかけた彼に、トビアスは縋るような目を向けた。
「お前には別に頼みたい話がある」
と、懐から慌てた仕草で手のひら大の袋を取り出した。中は見ずとも、話の流れで予想がついた。おそらく金貨だろう。
ジャックはあからさまに嫌そうな顔をした。
「……金で如何様にも動かせる人間に見えますか?」
「いいや。お前の腕と理性を見込んでのことだ。ジャック・スミス、ブレフト様をお守りして欲しい」
なんだそのつまらん仕事は、とジャックは明らかに本心を顔に描いた。しかしトビアスはそれをあえて無視した。
「おそらく私は、この件でブレフト様のお傍から去らねばならん。だが海賊に手を出した今、並大抵の者ではあの方を守るだけの力がないのだ」
「それと僕に何の関係が? 別に若君のお傍に仕えなくても、ルースと対決する方法はいくらでもある。それだって、僕にとってはそもそも退屈しのぎでしかない」
「ならば……! 途中まででいい。ある人物を探して、代わりにその者を説得してくれ」
「誰だか知らないが、白羽の矢があたってその人物も大変だな」
鼻で笑い飛ばすように言ったジャックの耳に、トビアスの言葉が衝撃を伴って飛び込んできたのは、次の瞬間だった。
「ライラ・マクニール・レイカードという女がこの街に来ている。彼女を探してくれ」
「は……?」
ジャックの目の色が変わったのを、トビアスはまだ気づいていない。
「ライラ……マクニール・レイカード?」
「その女ならルースが相手でも、ブレフト様をお守りできるはずだ。頼む、ジャック・スミス。頼む、このとおりだ……!」
必死にジャックの手に金貨の袋を押し付けてくるトビアスを、彼は呆然と眺めている。
「彼女がこの街に……本当に?」
「本当だ! 証拠も掴んでいる!」
トビアスはそんな彼を凝視した。
ジャックはしばらくぼんやりとして、うわ言のように呟いていた。
「なんてことだ。こんな……遠い異国の街で、やっと……」
やがて瞳に生気が戻ってくると、ジャックは一転して力強く微笑んでみせた。
しかしそれは、どこか泣き笑いのようにも見える表情だった。
「貴重な情報をありがとう、執事殿。これも何かの運命。そのお話、お受けしますよ」